金曜日に、いかりちゃん移動。
木曜日は石平さん。
【etekoのボロ屋敷の周りを激写してみた。】
壱日で撮ったものじゃないなあ。
何日か分の写真が入ってる。
燃えるゴミの取集場所は、etekoボロ屋敷から、50メートル圏内に3か所ある。
この日は、この場所に、燃えるゴミを出してきた。
平屋の市営アパートからの出口の過度の所が主席場所になってる。
火曜日、金曜日が、燃えるゴミ出しのひで、8時30分きっかりに、ゴミの取集者がやってくる。
それまでに、燃えるゴミを出さないといけないのだか、出せない。

ゴミ取集場所から写した市営アパートは。20室くらいあるのだが、空き家だらけだ。
昭和36年の頃に増設されたころには、20室に、20家族が住んでいた。
入居者は、幼い子持ちの夫婦が多かった。
家族には、2人以上の子供がいた。
この区画に、100人近くの人間が暮らしてた。
いや、etekoのボロ屋敷の住人を足せば、100人以上は住んでたなあ。
etekoのボロ屋敷は、日立鉱山の城下町の新町で米屋をやっていた。
この町は、日立鉱山の坑道入り口の下を、流れる宮田川に沿って流れる道に沿って、戦前から発展していた。
宮田川は、高鈴山系と神峰山系に挟まれた峡谷モドキになっている。
親父が米屋をやってた店舗の前を降りてくと、大正時代に、鉱山関係者の福利厚生の為に建てられた「共楽館」がある。
いろいろ書くと長くなるなあ。
etekoが疑問に思ってるのは、親父か゛その新町から、店舗兼バカでかい二階建ての家をこのに地建てた事だった。
両親は、etekoが生まれた時には、新町で米屋を
やっていた。
親父は、少年兵で、陸軍にいたが、終戦で、祖父母の住んでる日立市に戻って来たらしい。
祖父は、終戦までは、公団に勤めていたらして。
食料の公団らしい。
その辺りも櫛来調べてみる必要があるな。
祖父から聞いてる話では、食料底にいたと時に、艦砲射撃で被爆したと言う。
倉庫に積まれていた、穀物の南京袋や俵が破れて、そこからあふれ出た菊もつに埋まってしまったと言う。
その時は、周りにいた人に直ぐに救助されたと言う。
あの時、救助されなかったら、俺は死んでたと祖父は言っていた。
そんな祖父は、戦後になって、日立市の弁天町で、米屋をはじめた。
そこは、借地の土地に、道路側に向けて、店舗と居間と寝室が二間繋がる。
平屋の家だった。
何坪あったんだろう。
桜川のボロ屋敷の半分もないなあ。
文章はまとまらないなあ。
別にのetekoのブログだよ。
備忘録と言うか、創作ノートだよ。
思い出したことを書いてるだけだよ。
読んでくれてる人の事、全く意識してなよ。
こんな事を、20年くらいやってるのかな。
アメブロは、10ヌ年以上だけど、その前は、ヤフーとかいろいろやってたなあ。
10年も経つと、それ以前の事は忘れてるなあ。
この記事には、後でかけるまで書いてみよう。
etekoの捜索ノートだよ。
意味不明だよね。

























