恵美ちゃん、星になる。その2 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

 

 

 

恵美ちゃんの訃報の知らせは、恵美ちゃんのひとり息子の甥からあった。

 

その時は、桜川のボロ屋敷にいた。

 

突然の知らせだった。

いくだったのととききかえすのがやっとだった。

 

88歳でしたとのことだった。

葬儀の日程などが決まったら、また、連句しますとの事だった。

 

一瞬、恵美ちゃんは、草加だから、草加の葬儀でやるかもと思った。

恵美ちゃんは、eteko親父の日立市で生まれた兄弟のひとりだった。

 

親父の両親は、元々は会津に住んでいた。

etekoの父方の祖父母にあたる。

 

祖父母は、会津で、幼い親父と姉を親戚にあづけてブラジルに移住と言うか出稼ぎに行こうとした。

戦前の話しだ。

祖父は少し勉強ができたらしい。

本を読むのが好きだったと言っていた。

 

祖父を認識た頃かラ。祖父は暑いレンズの眼鏡を付けていた。

これは、本を読むのが好きで、暗くなってからも、暗い明りの中で本を読んでいたと言う。

その為に視力が落ちてしまったと何度も聞いた。

 

その祖父が、ブラジル移住を決心したのか、それとも、負けん気の強い祖母が進めたのかは分からない。

兎に角、祖父母は、幼い二人の子供を親戚にあづけて、ブラジルに旅立とう神戸まで行った。

ブラジルに夫婦で移住して、一旗揚げるつもりだったらしい。

 

僅かな手持ちの財産も売り払い、神戸まで行った。

財産と言っても、田畑くらいしかない。

 

神戸まで行って、ブラジルに渡航しようとしたが、最終審査で祖父が引っかかり、船には乗れなかったと言う。

 

祖父母は、しょうがなく、会津に近い日立市まで、戻ってきた。

その頃の日立市は、日立鉱山と日立製作所で景気が良かった。

 

そこで、祖父母は働き始めた。

そこで祖父は、営団の職員に潜り込んだみたいだ。

 

そこでは、配給品の穀物を管理してたみたいだ。

終戦間際の日立市は、艦砲射撃と空爆によって、焼野原にされた。

そして、一般住民も殺された。

 

そんな時に、祖父は、穀物倉庫の中にいた。

爆誕が穀物倉庫を直撃した。

大量の南京袋が破れて、機械された倉庫の中に袋の中の穀物が飛び散った。

その穀物の中に、祖父は、一瞬にして埋まってしまったと言う。

 

幸いにも、蕎麦にいた仲間達に、祖父は掘り起こされて、一生に九死を得たと言う。

 

終戦になって、GHQが、日立市に入ってきた時は、日本側で、英語を理解できるものがいなかった。

そんな中で、祖父は、英語が少しは理解できたので、通訳みたいな事をしたと言ってた。

 

戦後に、日立市の弁天町で、米穀商を始めた。

 

主戦後には、帝国陸軍に入隊して東京に出ていた親父が復員してきた。

親父が入隊した期間は、短かったのか、訓練期間だけで、出兵はしなかったようだ。

 

復員して来た親父は、祖父母が暮らしてる日立市に復員してきた。

そこには、初めて見る年の離れた幼い姉弟が、5人もいた。

 

その中の、二女が、恵美ちゃんだった。

 

 

会津に残された親父と姉がどんな暮らしをしていたのかは聞いてない。

姉は若い頃に、会津で嫁に出た。

親父は、幼いころから、米作を手伝わされていたと言う。

毎日、身体を鍛えているようなものだった。

それで、がっちりした身体になったと言う。

子供の頃から、力持ちだったと言う。

 

親父は、昭和3年生まれだ。

二十歳になる前に生る前に、少年志願兵として帝国陸軍に入隊したと言う。

 

三等兵だったが、子供のころからの農作業で、腕節は強く、容量よくやってたんで、上等兵からいじめられずに済んだ。

ただ、規律は厳しかった。

 

etekoが生まれる前の両親の話しは、まったく聞いてなかった。

etekoが物心ついた頃から、両親とは断絶していた。

 

 

同じ屋根の下に暮らしているのに、家族と一緒に暮らしてるのに、食事を一緒にとる事はなかった。