恵美ちゃん、星になる。 | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

 

 

6月の末に。etekoスマホに突然、電話がかかってくる。

 

大沼のKです。

 

今日、母親がくなったのでお知らせしますと言う電話だった。

 

誰からも連絡のないetekoのスマホに着信があったのでびっくりした。

 

etekoと同じ苗字を名乗るKって誰と思った。

 

差所は、平成の最後に亡くなった叔父さんの遺産問題でもめてる新町の息子かとも思った。

 

息子は、新町から大沼辺りのアパ-トに引っ越したのかとも思った。

 

電話の声はとこだったからね。

 

でも直ぐに、大沼と言えば、恵美ちゃんの息子かと気づいた。

 

 

恵美ちゅんは、6項国道に面したところに、「゜ビサイ」と言う床屋をやっていた。

床屋を始めたのは、もう半世紀もも前だ。

 

始めた頃は、結婚した夫と一緒に、床屋を始めた。

 

etekoのスマホに連絡を入れてきたのは。そのひとり息子だった。

 

恵美ちゃん、一人息子をもうけて、夫と一緒に床屋を始めた。

ひとり息子をもうけたけど、その後に離婚した。

 

詳細はよく知らないけど、夫は、背の高いイケメンだと記憶してる。

 

恵美ちゃんは、離婚した後、母子家庭で、床屋を70過ぎまで続けて、一人息子を育てた。

 

 

恵美つゃんは、親父の年の花た妹だ。

 

 

etekoの叔母にあたる。

 

父方の、おばは、4人いる。

そして、弟は、二人いた。

 

前にも、ちらっと書いてるけど、父方の祖父母は、会津生まれの貧民だった。

ブラ汁に移民して一旗揚げようと、会津で売れた、親父と姉を親戚にあづけて、神戸まで行った。

 

しかし、最終審査で、祖父が引っかかり、ブラジル移住は叶わなかった。

部瀬汁移住の為に、手持ちの財産を売り払っていたお金も尽きた祖父母は仕方なく、その頃景気の良かった日立市まで帰り着いた。

 

そこで、祖父は、5i人の子供をもうけた。

 

構成は、3女2お子だった。

 

2男は、双子だった。

 

恵美ちゃん、その中の次女だ。

 

会津の親戚にあづけられた幼い姉弟は、若い姉が親戚の嫁に行った。

 

親父は、主戦前に、少年兵として、陸具に入隊した。

 

終戦で、両親が住んでる日立市に帰ってきた親父は、年の離れた幼い姉弟が、5i人いるのに驚いたと言う。

 

戦後祖父母はと言うか、祖父が営団で働いた関係で。日立市の弁天町で米屋を始めていたらしい。

この辺りは、日立駅からも近く、繁華街の側た。

 

その頃の日立市は、日立鉱山と、日立製作所で栄えていた。

親父は、日立鉱山の大煙突がある城下町の新町に、米屋の支店?

jのお店を出す。

その地で、etekoは生まれて、幼稚園に入る前まで育った。

 

その頃から、日立鉱山は右肩下がりになっていた。

 

親父は、その頃右肩上がりの日立製作所の高事情がある多賀地区に移る事を決めたようだ。

 

ただ、新町から多賀の桜川に移ると、固定客は皆無だよ。

 

 

そこで、親父は、ばかでかい、二階建ての家を作ることにした。

ここは、米屋の店舗と寝室部屋が10部屋もある。

 

etekoが、幼稚園から諸学頃は、日立製作所の国分工場の寮だった。

 

その頃の日立製作所は、景気は右肩上がりで、各地からシンにゅシャインを募集していた。

禁の卵と言う奴だ。

 

しかし、その頃の日立市内には、各地からボシュ下シンにゅシャインの宿舎が皆無だった。

 

親父は、そこに目を点けて、バカでかいボロ屋敷を発てた。

 

妻子の頃は、etekoボロ屋敷には、30人近い人間が暮らしてたよ。

 

国分コア上の社員の寮だった時は、賄付きだった、

 

朝と、バンの食事を出さないと行けなかった。

 

差の頃は、牧出炊事をしてたよ。

お風呂も巻きだった。

 

水道もなくて井戸水だったなあ。

 

 

賄は、ナカちゃんだけでは手がダリづ、結婚前のエミちゃんが手伝いに来てた。

 

あの頃に、etekoの家で働きながら美容師免許を取ったんだろうな。

 

恵美ちゃんが、etekoのボロ屋敷で働いていたのは。etekot@

の幼少のときだったよ。

 

だから、今でも、父方の妹の叔母さんを恵美ちゃんとよんでいる。