ラジオ屋 ( 創作ノート その22 ) | eteko屋スタジオ

eteko屋スタジオ

勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

”戦後史の勉強〜日本を陥れた敗戦利得者たち” と言う戦後史の事を書いたブログ記事をリブログしました。

 

最近の、etekoは、日本のの歴史をの資料をくぐったり、YouTubeの動画を読み漁っております。

 

どうして、こんな日本になってしまったのか、どうしてetekoみたいな人間が出来てしまったのか考察する日々が続いてます。

 

それにともない、小説を書きあげようとあがいております。

 

 

ラジオ屋 ( 創作ノート その22 )

 

新町は、日立鉱山の発展に伴い、日立市で一番最初に急激に発展した。

 

 

日立鉱山は、赤沢銅山と呼ばれていた。

佐竹氏が常陸統治時代から開発が始まったといわれている。

 

江戸時代に入ると、しばしば採掘が試みられたものの、採算が取れなかったことに加えて、鉱毒問題などの鉱害をひきおこして地域住民との間にトラブルが発生し、水戸藩が開発を規制してしまっため、鉱山開発は思うように進まなかった。

 

赤沢鉱山は明治以降もしばしば開発がこころみられたものの、やはり経営が軌道にのることはなかった。

 

1905年(明治38年)12月、藤田組を退職した久原房之助が茨城県日立村の赤沢銅山を買収し、日立鉱山と改名する。

 

日立村の日立と言うのは、日立市の隣の市の常陸太田市の隠居所の「西山荘」に隠居してた黄門様が日立村にある神峰山に登った時に、日の出の御来光をみたと言う。

太平洋から顔を出した朝焼けの風景に、水戸光圀は感激し、「この地は、日の立つ所じゃあ。」と言ったのが、日立村の由来だと言われている。

 

 

久原房之助が日立鉱山を買収した頃、同の生産に新しい流れが始まっていた。

まず、日本の産業発達が本格化する中で重工業が発展し、電力需要が増大して道の国内市場がかくだいしつつあった。

また久原房之助が日立鉱山を買収する前に、所長として鉱山再生に尽力した小坂鉱山で成功した生鉱吹製錬は、これまでの製錬法に比べて燃料使用が大幅に節約できた上に、製錬が困難であった複雑な組成の鉱石や低品位の鉱石も処理可能となった、この画期的な技術革新は、日立鉱山の発展に大きく寄与した。

 

そして捲揚機を導入するなど鉱山の電力化、削岩機を採用するなどの機械化も、ほかの有力銅鉱山よりも遅れて開発が本格化した日立鉱山では、当初から積極的であった。

 

その上、鉱床の幅が広い変成鉱床であるキースラーガ鉱床の日立鉱山は、階段法と言う新しい方式の採掘法の採用に敵と手織り、1905年(明治38年)末の日立鉱山発足直後から階段法が採用された。

更に日立鉱山にとって追い風になったのは常磐線沿線にあると言うさの立地であり、これは足尾銅山など他の日本の有力鉱山よりも遥かに有利であった。

このような銅の国内市場の発達、精錬、採鉱の奇術革新、恵まれた立地条件を最大に生かすことによって、日立鉱山は急速に発展していた。

 

日立鉱山の城下町として、新町も、日立市内では、一番最初に最初に栄えた町だった。

 

大抵のの町は、鉄道の駅の周辺から商店街が出来たりするのだか゛、新町は違った。

 

日立鉱山の城下町は、村を飛び越えて、新町と呼ばれるようになった。

その頃の、日立市内は農村地帯だった。

常磐線の日立駅がある場所は、助川村だった。

日立駅は助川駅と呼ばれていた。

 

日立鉱山を経営する久原房之助の「山一一家けという理念も、こうざんに働く人々に対する生活環境の、確率に大きく寄与した。

久原房之助の理想は日立鉱山をろ絵師の対立や鉱山地域との対立が全くない、一種の理想郷としてけんせつしていくことであった。

 

鉱山で働く人々の為に廉価な米屋日常品のこうにゅが行える供給所を整備したり、工夫が届住するどゅうたく、電気代、水道代を無料にするなと、鉱山労働者の生活に配慮した施策を打ち出していく。

 

このように日立鉱山で働く人々に対する生活環境の整備、確率が進め楽中で、福利厚生施殺整備の一環として娯楽施設の建設が行われことになった。

 

日立鉱山が急速な発展見せた20世紀初頭は、大衆文化としての部隊芸能が定着しつつあった時代であった。

歌舞伎以外にも手品、漫才、サーカスなどと言った演芸、新派劇や娯楽性の強い軽演劇が上演され、また映画も台頭し始めてきた。

大衆文化としての部隊芸能の隆盛は劇場の建設がすすめられきっすけとなり、日本の各地で多くの劇場が建設された。

 

日立鉱山の急速な発展に伴い、多くの人が暮らすようになった日立でも劇場の建設が始まった。

明治末期には日立座、そして1913年((大正2年)には栄座と言う劇場が建設された。

 

このようなナカ、鉱山という荒々しいかんきょうの中で、息抜きの場と死の娯楽施設の活用に着目した日立鉱山の経営陣は、劇場建設を進めることになった。

 

久原房之助を中心とすした日立鉱山の刑エンジンは、特に鉱山老土砂達の過度の飲酒による弊害がある事を憂慮していた。

過度の飲酒による弊害としては喧嘩、無断欠勤、職場における災害の原因、そして家計の逼迫などがあげらており、この問題にどのように対処するかは鉱山経営陣にとっても悩みの種であった。

まず酒は工夫1人につき1日2号のを限度とする供給制をとり、接種を心がけさせようと試みた。

しかし、日立鉱山は交通の便がよいこともあって、鉱山がいにある飲食店に繰り出して酒を飲むことも少なくなかった。

 

なにしろ、常磐線の日立駅(助川駅)までは、2キロ弱くらいの距離だ、

日立鉱山のある神峰山は、太平洋に突入してると言ってもいいほどだ。

山が太平洋に突入して。

日立市の海岸線は、太平洋からは、20メートルくらいの断崖になってる。

東北から連なる阿武隈山脈の最先端が海に落ち込ん出ると言う地形だ。

 

鉱山労働者達は、海岸線に沿った常磐線の助川駅前の繁華街まで繰り出していった。

 

そこで日立鉱山の経営人は、鉱山労働者達に飲食に代わる共有の場を設け、精神的な慰安をもたそうと考えた。

 

日立鉱山ではまず1913年(大正2年)1月、製錬所の中心地である大雄院に役員用の福利厚生室殺として集会場が建設された。

集会場は役員の会議や講習会の開場に活用されるほかに、碁盤、将棋盤などの娯楽用の道具が各種供えられ、集会場を会場としてイベントもおこなわれており、役員やその家族の余興に利用されていた。

 

続いて1913年(大正2年)8月には鉱山労働者のための福利厚生施設である本山劇場が開場した。

そして製錬施設の中心地である大雄院地区にも鉱山労働者達の為の劇場建設の計画された。

 

大雄院地区の劇場、すなわち「共楽館」の建設が計画された。

 

日立鉱山の庶務課長の角や太郎が。「共楽館」の建設にで中心的な役割を果たした。

 

角は日立鉱山の鉱害問題解決の陣頭指揮を採り、また鉱山労働者の待遇改善に尽力しており、当時、鉱夫たちから慈父の様だと慕われていた人物であった。

角は1916年(大正5年)から翌1917年(大正6年)の第一次世界大戦時の好景気と、同じ時期の、塩害対策が功を奏して鉱害問題も落ち着ちつつあった情勢を見て、鉱山の核施設を充実させるちゃんすだと捉えた。

「共楽館」、はこのような中、1916年(大正5年)に建設が開始された。

 

第一次大戦時の光景時に、日立鉱山以外の多くの鉱山に置いても、劇場、鉱夫クラブといつた鉱山労働者たちの福利厚生施設の建設が盛んに進められた。

 

「共楽館」とほぼ同時期に建設がすすめられた鉱山併用の劇場、鉱夫クラブとしては、25,000円余りを投じて建設された三池炭鉱萬田講堂、倶楽部、同じく25,092円を投じて建設された砂川炭鉱互楽間、別子銅山四阪島劇場、夕張炭鉱宴劇場があるが、日立鉱山の「共楽館」は他の鉱山の福利厚生施設を上回る、約35,000円を投じて建設がすすめられた。

 

新町は、この「共楽館」を起点に隆盛していった。

ただ、商店は、日立鉱山の物品を鉱山関係者に安く売ると言う、供給所と言うのを設置していた。

 

これは、今でいう、スーパーの先がけみたいなお店だった。

ここで売られる商品は、日立鉱山の補助があり、周りの商店で売られ商品よりも割安で購入できた。

 

日立鉱山の供給所の制度は、日立製作所にも引き継がれた。

日立製作所の職員の為の供給所が、各工場の側に建てられた。

 

この為の影響で、日立市には、昭和の後半まで、大きなスーパーやデパートは進出できなかった。

 

「共楽館」の劇場建設が開始された新町は、日立鉱山発足前は宮田川流域の谷間の水田地帯で、戸数、4,5軒の農家があったのみであったが、日立鉱山の発展に伴い、労働者たちを顧客とする新町商店街が形成されて行った。

 

共楽館が完成した頃には共楽館の周辺には料理店や酒屋が並び、当時の日立で最もにぎわう盛り場になっていた。

 

共楽館は日立鉱山精錬部門の中心地である大雄院地区に建設された。

1916年(大正6年)から着工された。

この劇場は建設開始当時は大雄院(だいおういん)劇場と呼ばれていた。

建設担当者が誰だったかは、資料に残っていない。

当時の新聞では鉱山技師か゛東京の帝国劇場、歌舞伎座などの劇場を視察したうえで設計したものと報道されている。

 

共楽館の設計に最も大きな影響を与えたのは1911年(明治44年)にリニュアルされた歌舞伎座であると考えられる。

 

同年開場した洋風兼地区風の帝国劇場とは対照的に歌舞伎座は千鳥破風を持つ和風の大屋根を掛け、外患が和風建築としてリニュアルされたた。

共楽館も建物全体に和風の大屋根を被せており、正面には千鳥破風をしつらえている。

 

1947年(大正6年)2月11日からの3日間、完成した共楽館の杮落しとして、澤村源之助、市川九団次一向50名余りを迎えての歌舞伎公演が行われた。

共楽館は歌舞伎以外にも講演会、演奏会、展覧会、相撲興行、記述などなど、そして映画上映が行われた。

 

とにかく、共楽館を起点にして、当時の日立で新町は最も賑わう盛り場になっていた。