明科事件[編集]
明治天皇暗殺計画に関与したのは、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名であり、秋水は実行計画には関与せず著作に専念していた[2]。宮下は長野県東筑摩郡中川手村明科(現・安曇野市)の明科製材所で爆裂弾を製造、1909年(明治42年)11月3日に同村大足で爆破実験をおこなった[1]。1910年(明治43年)1月に千駄ヶ谷の平民社で実行計画が練られた[1]。
逮捕・判決[編集]
1910年(明治43年)5月25日に多数の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、1911年(明治44年)1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決。1月24日に11名が、1月25日に管野が処刑された。布施柑治によると、秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述した[3]。
秋水の他、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12人は死刑で刑死した。高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人は特赦無期刑で無期懲役中に獄死した。逆に仮釈放された者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治の7人である。
判決の2ヶ月前の1910年(明治43年)11月22日にアメリカの無政府主義者、エマ・ゴールドマンらがニューヨークで抗議集会を開くなどの抗議運動を展開した。さらにイギリスやフランスにも無政府主義者による抗議運動が起こり、日本大使館前で行われた[4][5]。
関連年表[編集]
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)
- 3月22日 - 平民社解散。秋水、管野は湯河原へ向かう。
- 5月14日 - 新村の明科入りを察知した駐在巡査が、新村を尾行。
- 5月21日 - 宮下、爆弾の材料を中川手村明科の明科製材所の工場に移す。
- 5月23日 - 長野県松本警察署長、宮下に関わる爆発物取締罰則違反容疑の報告書を受け取る。
- 5月25日 - 松本警察署が宮下、新村らを爆裂弾製造所持(爆発物取締罰則違反容疑)で逮捕(明科事件)。大逆事件の大検挙がはじまる。
- 5月31日 - 検事総長、(旧)刑法73条(大逆罪)に該当すると判断。
- 6月1日 - 秋水、管野らを湯河原で逮捕。
- 11月12日 - アナキストのエマ・ゴールドマンら5名が連名で駐米全権大使・内田康哉宛に抗議文を送付。
- 11月22日 - エマ・ゴールドマンらがニューヨークで最初の抗議集会。
- 11月29日 - 大杉が東京監獄から満期出所。
- 12月6日 - フランスの社会主義者ら、在パリ日本大使館に抗議して大デモ。
- 12月10日 - 秋水ほか26人に関する大逆事件の大審院第1回公判(非公開)を開廷。
- 12月12日 - エマ・ゴールドマンらがニューヨークの抗議集会で桂太郎首相宛の抗議文を採択。
- 12月24日 - (堺が売文社を設立)。
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)
- 1月26日 - 大杉が大逆事件刑死者の墓参り。
- 1914年(大正3年)
- 1915年(大正4年)
- 7月24日 - 新村善兵衛が千葉監獄より仮出獄。
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 7月27日 - 岡本穎一郎が長崎監獄で獄死。
- 1919年(大正8年)
- 3月6日 - 峯尾節堂が千葉監獄で獄死。
- 1920年(大正9年)
- 1925年(大正14年)
- 1929年(昭和4年)
- 4月29日 - 崎久保誓一が秋田刑務所より、成石勘三郎・武田九平が長崎刑務所より仮出獄。
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 11月29日 - 武田九平が自動車事故死。
- 1934年(昭和9年)
- 11月3日 - 坂本清馬が高知刑務所より仮出獄。
- 1937年(昭和12年)
- 3月20日 - 新田融が東京で死去。
- 1945年(昭和20年)
- 10月4日 - 小松丑治が死去。
- 1948年(昭和23年)
- 9月1日 - 岡林寅松が高知で死去。
- 1953年(昭和28年)
- 9月10日 - 飛松与次郎が熊本で死去。
- 1955年(昭和30年)
- 10月30日 - 崎久保誓一が死去。
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1967年(昭和42年)
- 1975年(昭和50年)
- 1月15日 - 坂本清馬が死去。
- 1996年(平成8年)
- 2001年(平成13年)
- 8月25日 - 和歌山県新宮市で「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成された。
ラジオ屋 (創作ノート その21)
創作ノートを書き出してから、日本の歴史の資料を、YouTube の動画でむさぼっている
日本の歴史が、その時の権力者によって、いかに捻じ曲げれてきているのかも、自分なりに分かってきた。
戦後の日本の歴史も、アメリカのGHQによって、酷い検閲の中で捻じ曲げられてきたと言うのも分かった。
日本は、建国以来、その地位的な関係から、2600年もの独立国家としての、奇跡的な国のだ。
唯一、地球上で、国家が続いてるのは日本だけなのた。
その日本が、令和の時代になって消滅する危機的な状態になっている。
etekoは、微力ながら、この危機状態に、あらゆる外患に宣戦を布告する。
くたばるまで、戦うのだ。
還暦を過ぎたetekoに先はないけど、覚醒した日本人達は、etekoのこの戦いについてきて欲しい。
ラジオ屋 (創作ノート その21)
新町にトラックはたどり着いた。
サクラ一家の若い衆が、積み荷を、仮倉庫の空き店舗に入庫した。
桜川一家の鼻息は、荒かった。
組が設立してから、こんなに現金収入が入ったことはなかった。
下ろした、発破は直ぐに鉱山に流れた。
この頃は、日立鉱山の銅山だけでなく、南の諏訪鉱山、真弓鉱山が立ち上がっていた。
こちらの鉱山は、銅山ではなく、石灰石の鉱山だった。
日立市の山を掘れば、石灰石が出てきた。
関東大震災で東京は壊滅したが、その復興には大量のセメントが必要だった。
細々と経営してた、石灰石の鉱山が大躍進した。
関東大震災のおかげで、諏訪鉱山、真弓鉱山が大躍進したのだ。
それと同じに、日立製作所も大躍進した。
茨城県の県北にある日立市は、関東大震災の被災をまったく受けなかった。
東京に集中していた、大手の電機メーカーやセメント工場は、関東大震災で壊滅した。
茨城県の県北地域で始まった企業は、関東大震災のおかげで大躍進した。
その一番手は、日立製作所だった。
日立鉱山の坑道の入り口の下の方に、鉱山関係の電機機器のメンテランスをする電気技師が、農家の鞍を借りて、モーターのメンテナンスをする作業所にした。
最初は、電気技師、二人で始まったらしい。
それが、宮田川に沿って、町工場並みの山の手工場を建てた。
それが発展していき、海岸線側の日立駅(助川駅)の横に海岸工場を建てた。
戦前から、この助川駅までは、日立鉱山からの鉱石の輸送電車が走っていた。
最初は、鉱石だけの貨物列車だったが、新町の反対側に人を乗せて走る駅が出来た。
一両だけが、人を乗せて走るチンチン電車になった。
鉱山から、助川駅までは、2キロ弱の距離だった。
日立鉱山から毎日のように製錬された銅鉱石を助川駅まで運んでいた。
銅鉱石は、常磐線で、東京方面に輸送されていた。
そんなトロッコ列車に毛の生えた、新町の駅に闇物資を運び込んだ。
チンチン電車の新町駅は、新町から宮田川を挟んだ向こう岸にあった。
レールが走る駅は、高鈴山のふもとなのだうか、宮田川まで斜面になって落ちてる。
新町駅?の上の方には、昔からある浄土宗のお寺が経っていた。
このお寺さんも、日立鉱山の隆盛により、立派なお寺さんになっていた。
なにしろ、鉱山の関係者は、7000人を超えていた。
その一部が、檀家さっとなっているから、結構立派なお寺さんになっていた。
このお寺さんは、鉱山からの電車が廃線になった新町駅辺りの土地を買い取り、平成の時代までは、幼稚園を経営してた。
いろいろ思い出すなあ。
闇物資を、新町にもちこんだ年のことを思い出してみよう。
新町にトラックが付いた時は、夜が明けていた。
出迎えた、幹部の正太郎さんが、「大丈夫だったですか。」、と声をかけた。
いちさんが、「半島の奴ら、大みか神社の所でまちぶせしてたぜ。でも、このダイナマイトで蹴散らしてやったぜ。」、と鼻高々に語っていた。
私は、あの時、冷や汗が流れたのを思い出した。
闇物資のトラック輸送は、一年ぐらい続いた。
私は、新町の貸店舗の2階の住居スペースに移り住んでいた。
いちさんは。私が最初に訪れてた借家に住んでいた。
トラックの輸送は、週に2回の往復のペースになっていた。
東京方面から、帰ると、二日の休息日があった。
その間は、助川駅の夜の街に、朝吉、正太郎、桜川一家のメンツと繰り出した。
その間に、米問屋の「八百虎」で、闇物資を積み込んでもらっていた。
そして、日立のの新町を出て、水戸の海鮮問屋、土浦の問屋によって、ヤミ米や農産物を積んで東京方面に向かった。
東京周辺の問屋に、やみ米などの農産物を下ろし、横浜からは米軍の、横流しの物を載せた。
一年ぐらいは、発破が大半だった。
それが、統制が強まって来たのか、発破の代わりに、進駐軍向けの輸入品の横流し物資が増えていった。
日立市以北は常磐炭鉱など鉱山で栄えていた。
発破は、法外な価格で即、さばけていた。
進駐軍向けの輸入品物資も、発破と同じように直ぐにさばけていた。
桜川一家の組員が、仮倉庫の店舗で、横流し物資の販売を始めた。
これが、飛ぶように売れていた。
こんな事を、一年ぐらい続けていた。
いちさんも、私も、手元には大金が転がり込んでいた。
私は、住み始めた仮倉庫の店舗で、電気屋を開業することにした。
いちさんは。向かいの仮倉庫の店舗で米屋を開業し始めていた。
いちさんの親父が、助川駅近くの弁天町で、米穀店を1946年の年に開業していた。
この時は、両親の日立市に来てからもうけた兄弟たちは、上がやっと高校生だった。
いちさんは、親父の開業した米屋を手伝うようになっていた。
手伝いと言っても、いちさんだけがはたらいてるようなものだった。
玄米を米問屋が仕入れ、それを店に備えた精米機で洗米する。
洗米した米を、袋に詰めて、店に並べる。
客が来れば販売する。
配達の注文があれば、配達とする日々だった。
配達には、バイクが使われた。
この頃は、車は普及してなかった。
この時は、バイクと言っていいのか、単車と呼ばれてた。
単車の荷台に、大きなカゴを取り付けて、そこに、小分けにした、コメ袋を積んで、注文主に届けていた。
私は、闇物資の輸送以外の時は、電気店を始めた。
最初は、電球とかの小物だった。
その後は、ラジオなんかを仕入れて売り出すようになった。
その時から、私は、「ラジオ屋」と、呼ばれるようになった。
死ぬまで、「ラジオ屋さん」、だった。