”戦後史の勉強〜日本を陥れた敗戦利得者たち” と言う戦後史の事を書いたブログ記事をリブログしました。
最近の、etekoは、日本のの歴史をの資料をぐぐったり、YouTubeの動画を読み漁っております。
どうして、こんな日本になってしまったのか、どうしてetekoみたいな人間が出来てしまったのか考察する日々が続いてます。
それにともない、小説を書きあげようとあがいております。
ラジオ屋 ( 創作ノート その23 )
新町は、日立鉱山の発展に伴い、日立市で一番最初に急激に発展した。
日立鉱山は、赤沢銅山と呼ばれていた。
佐竹氏が常陸統治時代から開発が始まったといわれている。
江戸時代に入ると、しばしば採掘が試みられたものの、採算が取れなかったことに加えて、鉱毒問題などの鉱害をひきおこして地域住民との間にトラブルが発生し、水戸藩が開発を規制してしまっため、鉱山開発は思うように進まなかった。
赤沢鉱山は明治以降もしばしば開発がこころみられたものの、やはり経営が軌道にのることはなかった。
1905年(明治38年)12月、藤田組を退職した久原房之助が茨城県日立村の赤沢銅山を買収し、日立鉱山と改名する。
日立村の日立と言うのは、日立市の隣の市の常陸太田市の隠居所の「西山荘」に隠居してた黄門様が日立村にある神峰山に登った時に、日の出の御来光をみたと言う。
太平洋から顔を出した朝焼けの風景に、水戸光圀は感激し、「この地は、日の立つ所じゃあ。」と言ったのが、日立村の由来だと言われている。
久原房之助が日立鉱山を買収した頃、同の生産に新しい流れが始まっていた。
まず、日本の産業発達が本格化する中で重工業が発展し、電力需要が増大して道の国内市場がかくだいしつつあった。
また久原房之助が日立鉱山を買収する前に、所長として鉱山再生に尽力した小坂鉱山で成功した生鉱吹製錬は、これまでの製錬法に比べて燃料使用が大幅に節約できた上に、製錬が困難であった複雑な組成の鉱石や低品位の鉱石も処理可能となった、この画期的な技術革新は、日立鉱山の発展に大きく寄与した。
そして捲揚機を導入するなど鉱山の電力化、削岩機を採用するなどの機械化も、ほかの有力銅鉱山よりも遅れて開発が本格化した日立鉱山では、当初から積極的であった。
その上、鉱床の幅が広い変成鉱床であるキースラーガ鉱床の日立鉱山は、階段法と言う新しい方式の採掘法の採用に敵と手織り、1905年(明治38年)末の日立鉱山発足直後から階段法が採用された。
更に日立鉱山にとって追い風になったのは常磐線沿線にあると言うさの立地であり、これは足尾銅山など他の日本の有力鉱山よりも遥かに有利であった。
このような銅の国内市場の発達、精錬、採鉱の奇術革新、恵まれた立地条件を最大に生かすことによって、日立鉱山は急速に発展していた。
日立鉱山の城下町として、新町も、日立市内では、一番最初に最初に栄えた町だった。
大抵のの町は、鉄道の駅の周辺から商店街が出来たりするのだか゛、新町は違った。
日立鉱山の城下町は、村を飛び越えて、新町と呼ばれるようになった。
その頃の、日立市内は農村地帯だった。
常磐線の日立駅がある場所は、助川村だった。
日立駅は助川駅と呼ばれていた。
共楽館は、日立鉱山が鉱山労働者の福利厚生設備の一環として、舞台劇場としてけ建設された。
この劇場は建設開始時は大雄院劇場と呼ばれていた。
当時の新聞では鉱山技師が東京の帝国劇場、歌舞伎座などの劇場を視察したうえで設計したものと報道された。
実際、共楽館の設計に最も大きな影響を与えたのは1911年(明治44年)にリニュアールされた歌舞伎座であると考えられる。同年開場した洋風建築風の帝国劇場とは対照的に、歌舞伎座は千鳥破風を持つ大屋根を掛け、外患が和風建築としてリニュ―アルされた。
共楽館も建物全体に和風の大家ねを被せており、正目には千鳥破風をしつらえている。
1917年(大正6年)2月11日から3日間、完成した共楽館の杮落しとして澤村源之助、市川九団次一行50名あまりを迎えての歌舞伎公演が行われた。
共楽館は歌舞伎以外にも講演会、演奏会、展覧会、記述など、そして映画上映が行われた。
講演会は鉱山労働者やその家族たちに対する教化や精神修養を目的として、宗教関係者の説教や高等師範学校校長の講話、救世軍の山村軍平ら、そして陸海軍の軍人などが演壇に立った。
映画上映については1919年(大正8年)に欧州戦争(第一次世界大戦)の活動写真会が、そして1921年(大正10年)10月には赤穂浪士討ち入りの活動写真会が行われた。
また楽団演奏会、尺八演奏会、奇術とイヌの芸当、菊花展が行われたとの記録が残っている。
共楽館は1階部分の座席を取り払い、コンクリート製の土間として使用することも可能だった。
土間としての使用方法の代表例は相撲であった。土間に土俵を築くのである。
居楽韓はしばし大相撲の地方巡業の開場として使用され、大正期には大関千葉ヶ崎俊治一行、横綱常ノ花寛一、大関大ノ里萬助ら一行の巡業が行われたとの記録がある。
日立鉱山の祭りである山神祭の時も、1回部分をコンクリート製の土間として使用した。
山神祭では共楽館の隣の万城内グランドに仮設の部隊が複数設けられ、芝居や映画など様々な催しが行われ、花火も打ち上げられた。
そして共楽館の1階部分は土間にした噴水を設営し、場内を飾って納涼場としたのである。
なお、居楽館1階の噴水は8月いっぱいせっちされ、納涼場として一般にも開放していた。
鉱山労働者たちの居住する社宅は狭くて暑いため、夜勤後はとても寝ることが出来ないので、噴水があって涼しい共楽館で昼寝をしたとのエピソードも残っている。
共楽館は、茨城県の片田舎に日本で最初に出来た多目的ホールだった。
それも、日立鉱山と言う一企業が鉱山労働者の福利厚生施設の一環として多額の資金をつぎ込んで建設した劇場だった。
茨城県の片田舎で、歌舞伎や映画などの娯楽を東京にいるのと同じに楽しめた。
しかし、昭和に入って戦時色が強まると、催しも戦時体制の中に放り込まれて行った。
日立は、1945年(昭和20年)6月19日9と7月19日に空襲、そして7月17日に関゜うしゃ劇を受けた。
日立空襲によって日立鉱山、日立製作所は甚大な日がを受け、日立のしがいちもほぼ全域が焦土とかし、日立の劇場、映画館は共楽館、本山劇場、諏訪会館の日立鉱山の施設以外すべて焼失した。
共楽館も屋根に2本の焼夷弾が命中したと伝えられているが、奇跡的に焼失を免れた。
私は、共楽館が消失せずに戦後も残ったのは、アメリカ軍が故意に爆撃しなかったと思ってる。
皇居付近周りがアメリカ軍の空襲を免れたのは、進駐してきた時に、空爆しなかった施設を接収して使用する為だと言う話しを戦後知った。
戦後の共楽館の最大の特徴は映画が常に上映されていた。種に映画館として活用されていた。1960年代は他の催し物の数が目っ称し、ほぼ映画館に特化した形となっ。居楽館は1946年(昭和21年)3月には常設映画館として日活の直営館となり、日立市内の市内工業会にも加盟した。これは鉱山の福利厚生施設としては、多少上映時期が遅くなったとしても日本映画とともに洋画も上映する方がよかったと言う施設運営上の問題とともに、何と言っても共楽館の料金が他の映画館よりも遥かに安いため、他の映画館から日活の常設館扱いに苦情が出された事が大きかった。
私達は、闇物資の輸送の仕事を抜けて堅気になった時、居楽館で、毎日のように大スクリーンで映画をみてた。
そこで、ジョン・ウエイン、ジャンギャバンの名前を知った。
いろいろな映画を見た。
いちさんと一緒に見た映画で、フランスで1953年に、封切られたジャン・ギャバンの映画を見た時、「タカさん、フランスでも俺達と同じ様な事をしてる奴がいたんだなあ。」、と低い声で、いちさんが言ったのを覚えてる。
あの映画は、「恐怖の報酬」と言う邦題だった。
まだ、アテレコはなかった。
大きなスクリーンの下に、日本語の役が白い文字で表記してあった。
画面の俳優は、本人の声なのかフランス語を話してた。
映画の内容は、油田地帯で火災が発生したが、それが消火できなくなっていた。
それを500キロだか離れた土地から、大量のニトログリセリンをおんぼろトラックで輸送するといものだった。
トラックには、安全装置なんかついてない。
こんなトラックを誰も長い距離を運転する者はいない。
そこで、法外な報酬で、街で食い詰めてる運転手、と助手を見つける。
その運転手がジャン・ギャバンだった。
道中では、積み荷のニトログリセリンが爆発する危機が何度も襲ってくる。
その恐怖が、映画を見てる者にも直に迫ってくる。
あの時は、いろいろな映画を見た。
あの頃は、映画は大衆娯楽の王様だったなあ。
でも、その後、テレビの普及に反比例して、映画の任期は衰退していったなあ。
考えてみたら、映画を映画館で見たのは、新町の居楽館だけだった。