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ラジオ屋 ( 創作ノート その19 )
年が明けて、1月5日の火に寺家は起きた。
大晦日まじかの、30日の闇物資の輸送は上手くいった。
そして、新年の1941から、1月5日が初仕事とは分かってた。
5日の日に、コメ問屋に止めてある米軍トラックで東京へ向かった。
この時には、米問屋の「八百虎」に集まった、食料を積み込んでとうきょ方面に向かった。
ヤミ米が半分、イモ類のが半分だった。
これを、東京や横浜の倉庫の前で卸、闇物資を積んで地元の日立市に帰ると言う日々が、朝鮮羨望発の前年まで続いた。
3,4年は、私はこんな事をやってた。
年が明けて、1941年の3度目の時に事件は起きた。
闇物資を積んで東京から日立市にねどってきた。
その時は、明け方近くだった。
6号国道の砂利道を走ってきた。
日立市と常陸太田市の境の久慈川橋を渡った。
橋の先は、いきなり急激な坂道になっていね。
ここの境か東北地方からつながる阿武隈山系の端っこなのだ。
阿武隈山系の山々は日立市から以北は、青森県まで、太平洋に落ち込んでる。
日立市は、山と海に挟まれた狭い土地に民家がひしめき合ってる。
山の方から流れ込む川が小さな洗浄地帯を作っている。
海岸線の居回線は、20メートルぐらいの断崖になっている
そんな地形の所に日立市はある。
東京から6号国道をくると、久慈川を渡ると、急激な坂道になっている。
これを登って、日立市に入ると、直ぐに、道の猟奇に大みか神社の施設がたっている。
子の山側は、日研と呼ばれる、日立製作所の研究所のビルが低い山の頂上付近に建てられている。
このビルは、昭和30年代くらいに建てられた、5,6階建てのビルだ。
それが低い山の頂上辺りに建設されている。
長い間、この日研のビルは、日立市で一番高いビルだった。
ここの大みか神社足りに、6号国道を登ってきた時に事件は起きた。
みちの真ん中にバリケードが張られていた。
この先は通れませんてことだ。
いちさんの運転する車は、そのバリケードの前で停車した。
私といちさん、朝吉が車から降りて、そのバリケードに歩み寄ると、道の両側の大みか神社に待機してたパクリ―の奴らが20人近くでてきた。
そのなかには、街のいざこざで、いちさんにぼこぼこにされた半島の人間も何人か確認できた。
パクリ―の奴らは、年末に桜川一家が東京からの闇物資の輸送で、大金を手に入れた情報を手に入れていた。
それで、この大みか神社の所で、その闇物資を横取りしようと言うのだった。
トラックから降りた私達3人と、パクリの20人近くのにらみ合いは、10秒、いや、20秒くらい続いた。
とにかく、時間の流れが止まっているように感じた。
パクリの親分肌のパクが先頭に立っていた。
その後ろに続く半島のチンピラ達は、鉄パイプや合口を光らせていた。
いちさんが、「てめえら、おれにまたぼこぼこにそれてぇのか。」と啖呵を切った。
だだ、この時は、多勢に無勢で、戦っても私たちが殺されるのは分かっていた。
私は、その時、当たり前のように、いちさんの前に出て啖呵を切った。
「てぇめぇらー、このトラックには、発破が山積みなってるのを知らねぇのか。ここで自爆すりゃあ、みんなあの世ゆきだぞ。俺は海軍の特攻兵の死にぞこないのタカだぞ。今ここで、自決してもなんでもねえーぜ。」
私の右手には、火の点いたジッポライターが赤い火を点けていた。
パクリ―一味の方にも、すでに、私達の情報は知れ渡っていた。
いちさんは、陸軍の復員兵。
私は海軍の復員兵と言うことが知れ渡っていた。
戦争で死に損なった、二人の若者が日立に帰ってきて、パクリ一味に、ことごとく対立してたとは知っていた。
抗争の中で、ぼこぼこにされたパクリ一味の幹部は、私と、いちさんを知っていた。
まったく、私達の事を知らない、パクリ一味の若いチンピラ達は、息をのんで後づさりした。
後ずさりしたパクリ一味は、こいつ、最後にはやると思った。
日本人は、大東亜戦争の末期に、日本人の若者達が、死を覚悟で、特攻していったのは知っている。
その生き残りが放った言葉は誠だ。
パクリ一味は14,5人の人数か゛いるのに後ずさりした。
そして、パクリ一味の頭領と思える人間が、「解散だ。」と言った。
パクリ一味は、雲の子を散らすように、トラックの周りか消えていった。
大みか神社の現場から新町に戻るまで、トラック内で、いちんが、「タカちゃん、見事な啖呵だったよ。でも一瞬、おれもあそこで自決と思ったら、しょんぺんちびりそうになったよ。」
私の隣に座っていた朝吉は、小便を漏らしてたようだった。
朝吉が、「タカさんも凄いですね。兵隊上がりって言うのは、やっぱりすげぇですよ。」と、つぶやくように言った。