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ラジオ屋 ( 創作ノート その18 )
新町の商店街は、日立鉱山の発展とともに、鉱山の坑道の入り口の下の山の方から流れる宮田川に沿って走る道路の両側にできた。
この道路の両側には鉱山関係者の貸家や、長屋が立ち並んでいた。
日立市はもともとは、鉱山を覗いて、周りは農村地帯だった。
この新町が、日立市では最初に栄えた街だった。
常磐線の日立駅(助川駅)があった、駅前よりも先に商店街が形成され栄えていた。
日立鉱山は、1905年(明治38年)12年、藤田組を退職した桑原房之が茨城県日立村の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改名する。
赤沢銅山は、佐竹氏の統治時代から開発が始まったとも言われ、江戸時代に入るとしばし採掘が試みられたもの、採算が取れなかったことに加えて、鉱毒問題の鉱害を引き起こして地域住民との間にトラブルがはっせいし、水戸藩が鉱山開発を規制したために、鉱山開発は思うように進まなかった。
赤沢銅山は、明治以降もしばしば開発がこころみられたものの、やはり経営が軌道に乗る事はなかった。
これまで開発の試みが挫折し続けてきた鉱山を久原房之助であったが、久原は買収した日立鉱山を日本有数の銅鉱山に成長させることに成功する。
明治時代、産業自体が未発達であった日本において、銅は数少ない外貨獲得源の一つであり政府は銅の生産拡大に大きな関心を持っていた。
この流れに乗り日立鉱山は、明治の後半から、昭和の前半期までに大発展を遂げた。
それにともない、新町の商店街も立ち並んだ。
新町の土地は、もともとは、5,6件のコメ作りの農家が点在してるような土地だった。
そんな土地が、日立鉱山の発展とともに、鉱夫達の借家や長屋になった。
それにともない、道路の両側に新町の商店街が出来てきた。
この起点となったのは、商店街の海側に出来た「共楽館」と言う。日立鉱山の福利公設室が起点になった。
この施設は、1917年(大正6年)に完成した劇場施設だ。
この頃はの日本は、大衆文化としての舞台芸能が定着しつつあった。
日本の各地で多くの劇場が建設されていた。
日立鉱山はきゅげきな発展に伴い、多くの人々が暮らすようになった。
日立市内でも、明治末期には、日立座、1993年(大正2年)には、栄座と言う劇場が建設されていた。
このようなナカ、鉱山と言う荒々しい環境の中で、息抜きの場としての娯楽施設の活用に着目した日立鉱山の経営陣は、劇場の建設を進めることになった。
久原房之助を中心とした日立鉱山の経営陣は、特に鉱山労働者たちの中に過度の飲酒による弊害がある事を憂慮していた。
過度の飲酒による弊害としては喧嘩、無断欠勤、職場における災害の原因、そして家計の逼迫などがあった。
この問題にどのように対処するかは鉱山経営陣の悩みだった。
まずは酒は鉱夫1人ににつき1日2号を限度とする今日旧姓を取り、接種をを心がけようと試みた。
日立鉱山は交通の便も良いこともあって、鉱山外と言うか、海方向に2キロも行かないうちに太平洋にぶつかる。
その海岸線のがけっぷちの二、常磐線の日立駅(助川駅)があった。
駅前あたりにも、新町よりは遅く、商店街や飲食店がでできはじめていた。
鉱山外の飲食店とは、日立駅(助川駅)の周辺の飲食店だ。
日立鉱山からは海側に2キロもない距離だ。
日立鉱山の経営陣は、荒々しい環境の中での、いき牙としての娯楽施設の活用に着もした。
その為に建てられた劇場施設が、「共楽館」だった。
ここから、農村地帯だった地域に、鉱夫達の宿舎、長屋、商店街が誕生した。
終戦後の新町の商店街は、店をたたんだところも多かった。
今でいうシャッター街になっていた。
そんな店舗の2軒を、闇物資の一時保管倉庫に、桜川一家が抑えた。
私たちが、横浜から運んだ闇物資は、直ぐにはけた。
発破の方は、鉱山関係者の方に直ぐに引き取られた。
生活物資の方は、桜川一家の組員が店主になってさばいた。
私が、驚いたのは、食料よりも、化粧品が先に売り切れたことだった。
化粧品は、連日、もんぺ姿の老若男女のご婦人方が買っていった。
直ぐに品切れになった。
食料の方は、缶詰が先に売り切れた。
食料のヤミ米やイモ類が裁けるのには時間がかかった。
なにしろ、日立市は、もともと農村地帯だ。
農産物は大量にある。
化粧品の売り渡しも、ヤミ米や農産物との物々交換も多かった。
物々交換もありだった。
東京に帰る、ヤミ米などの食料を運べば、何倍もの金で引き取ってくれる。
新町に、闇物資を届けた夜は、私といちさん、朝吉、そして、朝吉の兄貴分の正太郎の4人で助川町の夜の街に繰り出した。
いちさんは、生まれて初めて見たと言う現金の札束の報酬が渡されていた。
私もいちさんと同じだった。
そんな現金の束は、始めて見た。
私達3人は、新町で2日の休養をとり、大晦日の日には、東京に向かってトラックを走らせていた。
それは、終戦の年の私達、三人の仕事納めだった。