ラジオ屋 (創作ノート その11 ) | eteko屋スタジオ

eteko屋スタジオ

勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

ラジオ屋 ( 創作ノート ) を書くにあたっては、大東亜戦争前後の情報をネットで検束して、調べてる。

今まで知らなかった日本の歴史の真実がいろいろ分かってきた。

 

それにしても、大東戦争の敗戦後の日本には、一般民衆には、真実の歴史は、故意に歪曲されて教育され、権力者に都合の悪い真実はスルーされて来た。

 

それは、現在の日本の教育、マスゴミに繁栄されてる。私は、そうした時代の中で生まれて、還暦を過ぎた今まで生きて来た。

 

それがネットのおかげで、いろいろな歴史の真実を知ることができるようになった。

 

ラジオ屋 と言う小説を書こうと思ってから、この創作ノートを書き始めた。

 

物語は、時系列があやふやなんで、文章まとまりがない。

 

でも、それが、創作ノートだよ。

 

ラジオ屋 ( 創作ノート その11 )

 

いちさんの親父さんが、倉庫管理の職から、米穀商の免許を終戦直後の早くに取れたのは、訳があった。

 

敗戦から一週間もしないうちに、親父さんの被弾した、食料倉庫に、GHQのジープが3台乗り込んできた。

 

食料倉庫で、働いてる作業者は、初めて見るアメリカ軍のジープにドキッとした。

 

ジープのエンジン音は、敗戦後の日本人の耳には、力強く大きく聞こえた。

 

食料倉庫で働いてる作業者が、GHQのジープを聞きつけて、食糧倉庫の横に並んで立ってる、事務所の前の広場に集まってたきた。

 

爺さんは、事務所の中で、帳簿付けをしてた。

爺さんは、事務所から、外に出た。

 

役所からは、今日、GHQが来ると言う連絡が入っていた。

ただ、GHQが来ると言って、どんな迎え方をすればいいんだと不安になった。

 

お役所の話しでは、食料管理の部門のGHQが、現場を視察したいのだと言う。

 

GHQが来ることは、倉庫の従業員には、知らせてあった。

でも、進駐軍が来たらどう対応していいのかは、考えが付かなかった。

 

ただ、来るのを待つのみだった。

 

到着した、ジープの先頭には、アメリカ兵が運転手で座っていた。

その横に、上官と思われる軍服のアメリカ人が座っていた。

 

その後ろには、小柄な日本人の男が一人座っていた。

くたびれた背広姿だった。

その男は、役所で食糧管理をしてるおえら方だった。

戦時中は、食料管理が仕事だったので食料には困らなかった。

恰幅のいいお男に見えた。

その男がGHQのジープでは、小柄に見えた。

 

後でわかったのだか゛、GHQが日立市に乗り込んでた時に、英語を理解できる人間が誰一人いなかったのだ。

お役にさんも、英語を全く理解できなかった。

当事者なので、ジェスチャで、食料倉庫まで、案内して来たのだとわかった。

 

日立市に乗り込んできたGHQの方でも、日本語通訳の兵士は、他の重要な都市部に回されていて、通訳なしで、日立市に進駐してきたようだった。

 

戦時中は、「鬼畜米英」と叫ばれ、英語教育は禁止されて行った。

米英に関する文化や物品も禁止されていた。

鬼畜米英に関した日本人は厳しく弾圧されいた。

 

そんな中、終戦直後に、日本人で英語を理解できるものなどほとんどいなかった。

理解できるものは、厳しく弾圧されたので、地下に潜った。

 

有名な話しで、007のボンド映画に、準主役で出演した俳優の丹波哲郎は、俳優になる前に、まったく英語が喋れないのに、東京でGHQの通訳で働いていたと言うのは有名な話しだ。

 

ジープから上官が降りて、集まった日本人達に、大声で語りかけてきた。

 

その英語を聞いた日本人達は、ほ゜かん―としてた。

雰囲気で、怒られてるのではないと言うのは分かった。

 

爺さんは、「その言葉を理解できた。」

 

「誰か、英語の分かるものはいないか。」

 

爺さんは、若い頃、独学で英語を勉強してた。

そして、ブラジルに移住を決める頃に、英語の勉強に熱が入っていた。

 

爺さんは、若い頃から海外に出ることを夢見てたかもしれない。

 

と言っても、英語は、本で学んだものだった。

簡単な英語単語は記憶してたが、実際の英会話を聞くのは、初めてだった。

 

爺さんは、上官の前に一歩すすんで、「少しわかる。」、と答えた。

 

爺さんは、役所のおえらさんに付いて、食糧倉庫の施設を案内した。

 

事務所の前の広場に戻って来た時、お前を臨時通訳として徴用すると言い渡された。

 

爺さん、急な事なので驚いた。

 

しかし、進駐軍には逆らえない。

 

噂では、そく、日本の軍隊は武装解除され解体された。

そして、日本政府の上に、GHQが置かれ、日本を統治されるようになっていると言う。

 

爺さんは、この時、敗戦した日本の現実を実感した。

 

GHQの上官の名前は、「ケント」と言った。

爺さんは、「ケーン」と呼んでいた。

爺さんは、「ミーヤー」と呼ばれた。

 

通訳と言っても、管理する施設への道案内だった。

簡単な英単語とジェスチャーで済んだ。

ただ、「ケーン」の側にいることが、多いので簡単な英会話もできるようになってきた。

 

一週間もすると、日系のアメリカ兵「デニー・木村が」派遣されてきた。

これで、お役御免と安堵したが、「ケーン」が爺さんをしばらく手元に置いてた。

 

爺さんは、道案内として重宝された。

 

デニー木村は、お役所の交渉とか、文書作成とか手いっぱいだった。

 

爺さんは、通訳兵の「デニー・木村」と直ぐに親しくなった。

 

「デニー・木村」の親父は、沖縄県の出身で、私が幼い頃にハワイに移住したと言う。

 

あれは、大正の頃だったよ。

あの時は、世界大好況で、日本中が貧乏だったよ。

親父は次男坊で、沖縄にいたんじゃあ食っていけないってことで、ハワイに移住したよ。

移住したと言うか、出稼ぎだった。

移住した途端に、日米の対立がどんどんひどくなってた時だった。

 

沖縄と言うかに日本に帰れなくなっちゃたよ。

そんなもんで親父は、ハワイでフィリピン系の母さんと結婚して、私を生んだよ。

上には一歳違いの姉がいる。

 

爺さんも自分の身の上を話す。

自分もブラジルに移住しようとしたが、果たせず、日立市に住むようになって終戦を迎えたと言う事を話した。

 

「デニー・木村」は、ハワイ生まれで国籍はアメリカだ。

しかし、自分は親父から日本人のアイデンティで教育されてきた。

国籍はアメリカだけど、今でも日本人だと思ってる。

アメリカ軍に入隊する時は、激しい心の葛藤があったよ。

 

今は、こうなった以上、日本の復興の為に自分の任務を精一杯果たすつもりだ。

 

そんな会話をしたのをたまに思い出す。

 

その後、日立地区に進駐したGHQの人員も補充されてきた。

 

爺さんは、日本人の英語通訳の仕事もお役御免となる。

 

そんな時に、「デニー・木村」と、会話した時に、爺さんは、これからどうすると聞かれた。

 

爺さんは、そのことも考えていた。

焼野原になった日立市で、米屋の商売を始めたいと言った。

 

「デニー・木村」は、分かった、力になるよと言ってくれた。

 

爺さんは、通訳?道案内の仕事から解放されてすぐに、米穀商の申請を出した。

 

この申請は、直ぐに認可された。

 

爺さんは、日立駅の近くの弁天町に、店舗兼住居を借りて、米屋を開業した。

 

この時の、店構えは、店舗の奥に、大きな精米機を一台設置した。

そして、店舗の前には精米した、白米を入れる大きな木箱が置かれてた。

そして、その横には、玄米の俵が積まれていた。

 

この時の精米機は、下に備えつけあるてある玄米を入れる大きな容器から、ベルトコンベアで天井近くまで救い上げ、救い上げた分の玄米を量細かい網を張った樋に玄米を落としていくものだった。

 

ベルトコンベアには、下から玄米を救い上げられるように、ポケットが付いてる。

天井まで上げられた玄米は、下の容器に溜まり、再び天井まで引き上げられる。

 

その為、精米機のモータは、店を開いた朝から晩まで回っていた。

 

戦後の米屋は、店の中は煩かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”米軍占領下での日本女性大量レイプ”