ラジオ屋 (創作ノート その10) | eteko屋スタジオ

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勝手気ままに生きてる自己中だよ。
妄想では、苦節40年のミュージシャンなのだ。

いちさんの実家は米屋をやっていた。

終戦間もなくに普通に米屋を開業してるのに驚いた。
戦時中から、食糧難で、「ヤミ米」と言う言葉が、世間でいろいろなところから聞こえてきた。
 
それが、日本が焼野原になった終戦後には、拡声器で騒ぐように大きな声になっていた。
 
そんな時期に、米穀商の認可を取るのは困難だった。
日本人の主食のコメの管理は、戦時中から統制が厳しくなっていた。
そして戦後は、GHGの管理となっていた。
 
後から、いちさんに聞いた話では、大東亜戦争が始まる以前に、いちさんの両親はブラジル移住を決意して故郷の福島県の会津の実家を離れて神戸まで行ったと言う。
 
その時は、いちさんの親父は代用教員をしていたようだった。
いちさんの親父の名前は、美哉(みや)と言う名前だった。
美哉さんは、幼少のころから身体が貧弱だった。
とても、稲作の重労働ではやっていけないと、子供の将来を危ぶんでいた。
美哉の両親は、勉学で身を立てさせようと思いった。
この時代、学力が秀でていれば、国は貧乏な家からでも、上級国民になれた。
国は、優秀な人材を、官僚、軍、化学分野に集めるのに必死だった。
それはすべて、日本の国威を強めるためだった。
 
明治以来、日本は、「富国強兵」の為に突き進んでいた。
美哉さんは、勉強を強いられた。
勉強と言っても、本を読ませると言う事だった。
美哉さん自身も、本を読むと言う事が好きだった。
書物を読みあさった。
その結果が、代用教員として働けるようになった。
結婚して、幼い2人の子供を授かった。
上が女の子、下が男の子だった。
姉弟の弟が、「いちさん」だ。
 
「いちさん」が、小学生になる頃、両親は、何故か、ブラジル移住を決意し、神戸まで行ったと言う。
その時には、幼い姉弟を実家の親戚にあづけていった。
その為に実家の土地や田んぼも整理して、移住の資金に充てたと言う。
もちろん、親戚の家に、幼い姉弟を預けるのもそれなりのお金を置いていった。
 
美哉は、ブラジルに移住すれば、一旗揚げて、故郷に錦を上げて帰れると思ってたらしい。
 
昭和の初期は、国をそうした移民政策を推し進めていた。
 
もともとは、貧農の稲作農家だった。
 
美哉さんは親の田畑を受け継いだものの、重労働の農作業はできず、農地は、親戚の農家に貸し出していた。
 
大地主と言うわけではない。
毎年、田んぼから得られた、家族が食べるコメを、60キロくらい、俵一俵のコメの上がりを納めてもらっていた。
 
そんな、美哉さんが突然、ブラジル移住を決意したのかはよく分からない。
食うだけの貧農生活に、嫁の「つね」がけしかけたように思える。
 
ブラジルに移住すれば、一旗あげられると言う政府の移住政策に踊らされたのだ。
 
美哉さんは、虚弱体質の為かおとなしい性格だった。
それとは正反対に、嫁の「つね」は、きつい性格で上昇志向の高い女性だった。
 
幼い姉弟を地元の会津に置いて、夫婦二人で、ブラジル移住を決心した行動は理解できない。
 
その他に、知り得ない事情があったのかもしれない。
 
ブラジル移住者の応募に答えた。
書面で審査を通り、神戸港からブラジルへ渡航と言う事になった。
 
渡航前の最終審査でひっかかり、二人は、ブラジル移住の夢は消えた。
美哉さんが身体検査で引っかかったみたいだった。
視力がダメだったらしい。
 
いちさんの両親は、ブラジル移住の為にお金を、いろいろ工面して、故郷の会津から神戸に出てきた。
その為にブラジル渡航がダメになっても、帰る故郷、会津の実家はなかった。
 
その為、夫婦は、その頃、鉱業と日立製作所で景気の良かった日立市まで戻ることにした。
 
日立市に借屋を借りて、夫婦共働きで死に物狂いで働いた。
その内に、美哉さんは、市の食糧倉庫の管理人の職にありつき、終戦まで、食糧倉庫の管理人を務めていた。
 
終戦まじかの艦砲射撃で、美哉さんは死にかけたと言っていた。
食糧倉庫内は、市民に配給する食料の在庫が麻袋や俵が山積みになっていた。
美哉さんが食糧倉庫内で、働いた時に、日立市の沿岸に迫っていたアメリカ軍の艦船から艦砲射撃が始まった。
 
それは、軍需工場に代わっていた日立製作所の工場群を壊滅する為の攻撃だった。
 
この時に、美哉さんがいた食糧倉庫も被弾した。
爆発した砲弾は、イモや穀物の麻袋や米俵を一瞬にして、破った。
そこから、飛び出した、穀物が一度に、倉庫の床に零れ落ちた。
 
一瞬にして、美哉さんは、穀物の波にのまれてしまった。
 
その時に、そのことに気づいた仲間達が、急遽、穀物の山の中から、美哉さんを掘り起こしてくれた。
最初は虫の息だった。
しばらくすると、息を吹き返した。
 
あの時、俺は一度死んだ。
 
そして、蘇った。
 
この年には、アメリカ軍のとどめを刺すような艦砲射撃が、太平洋側に面する大きな日本の街に続いた。
 
それまでは、小規模な空爆、空襲はあったが、終戦まじかのアメリカの艦砲射撃は徹底していた。
 
この頃には、帝国海軍の沖縄戦で、戦える戦艦は、ゼロ状態だった。
 
これらの艦砲射撃は、日本の一般民衆を殺戮する為に行われた。
 
その〆は、長崎、広島の原爆だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

占領政策の功罪      清末忠人さん、松田章義さん

2017年11月04日

 鳥取市歴史博物館と県立公文書館は、県民とともに「占領期の鳥取を学ぶ会」を立ち上げ、太平洋戦争終結後の占領下の鳥取の解明を進めていますが、市歴史博物館でシニアバンク登録者2人を招いて「鳥取に進駐軍がいた頃」の鼎談会を開き、市民60人が聞き入りました。
 「占領期の鳥取を学ぶ会」は英文のGHQ(連合国軍総司令部)軍政レポートをもとに終戦直後の県内の様子などを調べており、その成果は新鳥取県史現代編(平成30年度刊行予定)に反映されることになっています。戦前・戦後を知る人が多く登録する鳥取県社会福祉協議会のシニアバンクも、この事業を共催しています。
 鼎談会は鳥取市の清末忠人さん(昭和6年生まれ、元小学校長)と松田章義さん(昭和9年生まれ、元高校校長)がゲスト出演し、新県史編さん委員の小山富見男さんが聞きました。
 鼎談は①戦時中の思い出②進駐軍の印象③占領政策の功罪―などで展開しました。
 松田さんは「終戦前の8月5日未明、突然の空襲警報と同時に照明弾が落とされ、ビラが降ってきた。そのビラは鳥取を含む12都市の爆撃予告。憲兵隊が回収して回り、口外するなと諭されたが、6日には広島、9日には長崎に原爆が落とされた。終戦が10日遅れていたら、鳥取もたくさん殺されていたと思う。終戦直後にあったのは教科書の墨塗り。こんな体験を通じて子ども心に自分の目で見、考え、感じることが大切と思った」と当時を振り返っていました。
 清末さんによると、進駐軍が鳥取に来たときは「女の子は外に出るな。男の子はのぞき見するな」と注意を受けたが、「ターバン姿の英印軍を見たときは怖くて隠れていたものの、車からチョコレートなどを投げるので近づいた」。また、進駐軍のなかには支給品を売りに来る兵隊さんも多かったようで、「パンパンと兵隊さん、お互いの手紙を翻訳したこともあった」という。
 占領政策の功罪について、松田さんは①日本史上初めての占領軍だったが、戦後の混乱が食い止められ、日本復興の素地となった②アメリカから大量に脱脂粉乳が届けられ、子どもたちの健康維持に貢献した③新憲法制定や女性の解放、教育の民主化、労働者団結権の保障、農地解放など日本の変革をもたらす多くの政策が進められた―と、その功績を指摘すると同時に、①アメリカ主導で事態が進んだ②日本人自らの発想や意識ではなく、アメリカ主導の外圧が日本の歴史に続くきっかけになった―と説き、同じ敗戦国のドイツが「総ざんげ」で自ら変わり、自立していったように、日本人も自主、自立の意識変革ができているか、検証が必要と訴えていました。
 清末さんも「GHQは横の平等という思想を入れて、日本のタテ社会を破壊した。人に迷惑をかけても自由という自由のはき違えや変な思想も広がった」と、日本の戦後の問題点をただしていました。