美容師になるには専門の学校に通う必要があると思い込んでいたが、通信教育でも国家試験の準備ができる。

静江がそれを初めて知ったのは聖也が取り寄せた受講のパンフレットが自宅に届いたときだ。

「これなら働きながら勉強できる。日中は秀希先輩や保志先輩の元で働いて、夜と休日は自分で勉強して免許を取るんだ」

 

聖也は真剣なのだ―――。

 

かつてない目の輝きに静江は二つ返事で学費の支払いを了承した。

息子の未来に期待をかけて。

喜びに満たされて。

 

国家試験の受験科目には法律や物理、化学まである。

聖也は休日のほとんどの時間を学習に費やした。深夜まで電気が灯る部屋に彼が机に向かっている姿を見た時には静江は心底驚いた。昔から勉強などまともにしたこともなく、大学さえ内部進学で「入れる学部ならどこでもいいや」とまるで他人事のように進路を決めていたあの息子と同一人物とは思えなかった。

しかも店には秀希や保志という最高のお手本がいる。閉店後は彼らから丁寧な実技の手ほどきを受けるのだから、聖也の意志も環境も完璧に整っていた。

「今日はロット巻きが上達したって褒められた。明日も練習するから帰りは遅くなるよ」「初めてカラーリングを教わったんだ。うまくできたよ」聖也が美容師への道をぐいぐいと突き進むうち顔つきまでが変化していることに静江は気づいていた。とろんとした目はきりりと野性的に、幼かった表情は思慮深いものになっていく。これで女が放っておくわけがない。しかし不思議なもので、実力と人気が不動のものとなるのと反比例するかのように聖也は夜の女遊びから卒業していた。人生を自分のものとして掴みとるまでは女どころではない。聖也の内にはその決意がみなぎっていた。

 

 

 

聖也が美容師の国家試験に合格したのはそれから3年後の9月だった。

 

 

その前から聖也の存在は確固なものになっていた。

シャンプーの指名はいつしか聖也がトップを獲っていた。「聖也くんのためなら」と、閉店後の練習時にはカットモデルを自ら申し出る客も多かった。

その彼が満を持して免許を取ったのだ。常連客に加え聖也を名指しする新規の女性客も大幅に増えていった。その一人ひとりのヘアスタイリングに精力的に取り組み、秀希や保志に劣らぬ出来栄えに仕上げるたび、女性客は確実に聖也の虜になっていく。

「CIEL」はまさに最盛期を迎えていた―――。

 

聖也の評判はすぐに日本中に広まっていった。雑誌にはカリスマ美容師として特集を組まれテレビ番組でも「現役代議士の息子」というプロフィールが人気を後押しした。また聖也のとぼけた返答や切り返しが「芸人以上に面白い」とさらに人気は爆発した。

もう彼は昔の聖也ではなかった。今ではBMWで出勤し、店の前で自分を待つ女性客に手を上げて歓声に応える。そのたび聖也は神と崇める秀希や保志に一歩ずつ近づいていく自分に満足した。

高田秀希、森下保志に続いて石坂聖也の名がこの店のトップスタイリストに連ねられ、祝杯と称して彼らに誘われ街に出かけたその夜、聖也は数年ぶりに男の顔で朝帰りした。

 

 

 

 

女優ルミのオファーを受けたのは35歳の冬のことだった。化粧品のCM撮りのためのヘアメイクである。

本来は秀希の仕事であった。ぎりぎりまでスケジュールを調整しながら、結局秀希も保志もこれを受けることができないとなり、急きょ聖也が担当することになったのだ。

 

南沢ルミか―――。聖也はその名を一人呟いた。

 

ルミは当時随一の売り出し中の若手女優だ。デビューするや瞬く間に映画やドラマで主役を射止めたその現代的な美貌は「女子のなりたい顔ランキングNO.1」を獲得し同時にその男性交遊の派手さにも注目が集まっていた。

 

どんな子なんだろう…。

 

スタジオの一角に用意されたメイクルーム。

高鳴る期待をこらえながら聖也は彼女の登場を待っていた。

 

 

                               つづく

 

 

 

 

 

ここのところ静江はすこぶる機嫌が良い。

 

女遊びに身をやつしていた末っ子の聖也が美容院の見習いとしてようやく生き生きと働き始めたからだ。

彼女の夫は代議士の石坂正太郎である。本来ならその血を継ぐ聖也が法学や政治学をまっとうして、きたる将来には父の地盤から出馬するのがセオリーであろう。しかし静江はそんな世襲の常識などには興味のかけらもなかった。

 

やりたいことをやれば良い。彼自身の人生なのだから―――。

 

そうは言っても、無職にだけは賛成しない。

 

失敗するのは構わない。むしろ失敗を恐れて何にも足を踏み出せないままでいることこそ実にもったいない人生の過ごし方である。数か月前までの彼の自堕落な生活を心の底から案じていた静江にとって、今の聖也の生まれ変わったような快活さはこの上ない喜びであった。

 

「お母さん、秀希先輩と保志先輩は本当にかっこいいんだ」

「とにかくモテモテなんだよ。そこらへんの芸能人よりずっとカッコイイんだ。いつもいつも取り巻きに囲まれてる。俺もあんな風になりたいんだ」

食事を共にするたび聖也は熱っぽく将来の展望を語り始める。相変わらず素直な子だ。胸の内の想いすべてを包み隠さず母親の自分に打ち明けてくれる聖也に彼女はニコニコと耳を傾けていた。

なにより嬉しかったのは、聖也が単に「モテるためにはどうしたら良いのか」とハウツーばかりを考えていたころと異なり

「目の前の仕事に精いっぱい打ち込む。収入や人気はその後から勝手についてくる」という根源的な答を自ら見出した、という点だった。

 

聖也は精力的に「CIEL」に取り組み始めていた。

 

朝は誰よりも早く出勤し、店内の掃除に取りかかる。鏡も窓ガラスも曇り一つなくピカピカに磨き上げる。シャンプー液を忘れず補充しボトルの水気をぬぐい取る。タオルも完璧に洗い上げ新品同様にきちんとたたんで美しく積み上げる。雑誌のページにはさまった髪の毛を一冊ずつ丁寧に払い落とす。キャンペーン中のトリートメントの宣伝ポップはどこに張るのが効果的か工夫をこらす。客の施術カルテには「この方にはネイルをおすすめしてください。前回、雑誌のネイル特集を熱心に読まれていました」「今日はちょうどお誕生日ですのでいつもより華やかにセットして差し上げてください。この後パーティかもしれません」と、気付いたアイデアを書きつけた付箋を貼って秀希や保志に手渡した。

 

聖也の働きはめざましかった。秀希や保志にも気に入られ、徐々に常連客にも名前を覚えられるようになっていた。もともとすらりとした端正な美男子である。

「あの新しい見習い、聖也くんっていうの?可愛いわね」

「この前、帰り際にコートを掛けてくれて『良くお似合いですね』って言ってくれたの。ハンサムに優しくされると嬉しいわ」

「聖也くんが淹れてくれたお茶が一番おいしいのよ」と、目をかける客もすぐに現れ始めた。

 

「聖也にそろそろシャンプーを教えましょう。あいつは伸びますよ」

秀希に提案したのは保志だった。

 

                           つづく