【妖怪の第二サティアン】岸信介の幼少期〜岸家、佐藤家、ゆかりの岡山 | ☆Dancing the Dream ☆

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「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介。
”三つ子の魂 百まで” 人は幼少期に人格が形成されるというが、佐藤信介(岸信介)が、その少年期のほとんどを過ごした岡山時代については、あまり語られることがないようだ。
加計問題を通じて浮かび上がったことだが、安倍晋三も、岡山には縁が深い。
岸家、佐藤家の岡山とのつながりは、もう少し調査される必要があるのではないだろうか?

それにしても、まだ6つの小さな男の子。
信介は小学校に上がる年から親元を離され、小学校と旧制中学の途中の12〜13歳ごろまで、岡山の叔父の家の厄介になっている。
岡山大学病院の産婦人科の教授であった叔父の佐藤松介が33歳で早逝するまで、松介が信介の面倒をみていたのだ。
佐藤松介の妻の兄は松岡洋右(弐キ参スケ:二人のスケが岸信介、松岡洋右)。
さらにその後、山口に戻され中学を転校。
岸家の養子となる。

岸の娘・洋子が嫁いで産んだ安倍家の三男の信夫も岸家に養子に出される。
佐藤家と岸家は順繰りに子供を交換し合い、結束する。
安倍晋三のお友達連中は、子供ではなく、居住する家という財産を、貸す、譲り渡す、集まって住むなどして群れ、不思議な集団を形成する。




⭕️安倍トモ サティアン
自らの土地住宅(財産)を
回し合い集う

給食費と引き換えに「マイナカード作れ」と市が通知 背景に見える国の強引な普及策

東京新聞 2023年1月19日 11時00分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/226010
”◆カードの有無で負担が変わるのは「不公平」の声
 岡山駅から東に25キロ余に位置する備前市。備前焼で知られ、瀬戸内海沿いの地域はカキの養殖も盛ん。そんな人口約3万2000人のまちが、揺れている。
 きっかけは先月16日、市立小中学校の保護者らに配られた「給食費及び学用品費について」と題する文書だ。同市は2022年度から市立小中学校で給食費や一部の学用品費を無償化した。だが、文書によると、23年度から「児童・生徒及びその世帯員の全員がマイナンバーカードを取得している場合、申請により納付免除」するという。”
”◆保育料や農業漁業の補助金も同じ条件
 ただ、問題は小中学校にとどまらない。同市は保育園やこども園に通うゼロ歳〜5歳の保育料や給食費も、23年度から「世帯全員のマイナカード取得」を独自の無償化の条件にする方針。ほかに農業・漁業者が対象の資材価格等高騰対策の補助金にも、同じ条件を設けた。”


吉村 武司(よしむらたけし、1946年(昭和21年)7月24日- )岡山県備前市市長。
全国27か所の事業所で自動車教習所事業を展開するSDS(Safety Driving System)グループの代表取締役である。
2013年4月14日に行われた備前市長選挙に出馬し初当選。
出生地: 日本の旗 日本 大阪府大阪市
出身校: 関西大学文学部
前職 :自動車教習所経営
    備前商工会議所会頭
所属政党: 無所属
岡山県備前市長
当選回数 2回
在任期間 2013年4月24日 - 2017年4月23日
2021年4月24日 - 現職


✔︎nem@yo_nem2018年8月24日
ベルテ参宮橋を掘れば大本ファミリーが、富士桜高原別荘地を掘れば悪巧みメンバーの方々が出てくる。なんなんでしょうね。


✔︎重要nemさん調査Tweet
 https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1014146186368856070
 https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1013998074543235072
 https://mobile.twitter.com/search?q=大本ファミリー&src=typed_query
 ウチサンゲサティアン 
 https://mobile.twitter.com/yo_nem/status/1057157859660550144


✔︎大本組の土地に加計の長男が住んでいる
✔︎アメンバー限定記事【nemさん仮説】加計のマンション購入…裏金の作り方 / 加計役は今どこに住んでいる❓
2018年10月29日(月)
https://secret.ameba.jp/et-eo/amemberentry-12415294345.html
 🔻氏の過去の住所はその通りなのであるが。


✔︎安倍の旧宅マンションは、岡山県備前市の元市長・吉村武司(自動車学校経営)親子の持ち物となっている。
✔︎【杜聡明&杜祖健 親子はヘビ毒の専門家】連動❓登戸研究所のヘビ毒人体実験⇄台北帝大ヘビ毒研究
2019年01月03日(木)
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12429717055.html


✔︎安倍旧宅マンションとY氏乱行パーティーマンションの距離
✔︎【元ご近所】徒歩3分⁉️《安倍総理・旧宅》〜《政界フィクサー(菅のスポンサー)旧マンション》
2019年10月21日(月)
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12537578026.html


✔︎山梨別荘 安倍サティアン



⭕️養子縁組で子供という財産を回し合う
岸信介 Wiki
生い立ち
山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助(*岸秀助)と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった。
秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)。
学生時代
岡山市立内山下小学校から岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった。山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。
1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。
1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。


⭕️岸信介(佐藤信介) 
13〜14歳まで少年期は岡山

父・佐藤秀助の次男、佐藤信介は、幼少期、少なくとも6歳(小学校)から13〜14歳(旧制中学1〜2年)ごろまで、岡山の叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)の元に預けられていた。

信介は山口の中学に転校し、中学3年生の時に、佐藤家に養子にやられ、岸信介となる。

父・秀助の旧姓は、岸。 
秀助が佐藤家の娘、母・佐藤茂代と結婚し、婿養子になった代わりとして、二人の間に産まれた男子の3人、長男・市郎、次男・信介、三男・栄作のうち、今度は次男の信介が佐藤家に養子に行ったのだ。





⭕️叔父・佐藤松介
✔︎岡山大学病院 産科・婦人科教室
教室の歴史
歴代の教授

https://www.okayama-u-obgyn.jp/about/history/
5代 佐藤松介


✔︎佐藤松介は、
岸(佐藤)信介の叔父
松岡洋右の妹の夫 

✔︎閨閥 松岡家(松岡洋右の子孫・家系図)
https://keibatsugaku.com/matsuoka-2/
松岡三十郎
  父:
  母:
  妻:小川ユウ(小川道平の二女)
    男:松岡賢亮
    四男:松岡洋右
    女:松岡マツエ
    女:松岡フジエ(佐藤松介の妻)



✔︎佐藤家(佐藤栄作・佐藤龍太郎・佐藤秀助の家系図・子孫)
https://keibatsugaku.com/sato-3/
◆佐藤信彦
  父:佐藤信寛
  母:
  妻:
    男:佐藤松介
    長女:佐藤茂世(岸秀助(佐藤秀助)の妻)
    養子:岸秀助(佐藤秀助)…*岸信介の父 佐藤家に養子


✔︎岸家(岸信夫・岸信介の家系図)
https://keibatsugaku.com/kishi/
◆佐藤信介【岸信介】…*岸家に養子
 1896年 誕生
 1910年 農商務省入省
 1935年 商工省工務局長(-1936年)
 1936年 満州国実業部総務司長
 1937年 満州国産業部次長
 1939年 満州国総務庁次長
 1939年 商工次官(-1941年)
 1941年 商工大臣(-1943年)
 1942年 衆議院議員(-1943年)
 1943年 国務大臣(-1944年)
 1943年 商工次官(-1943年)
 1943年 軍需次官(-1944年)
 1950年 東洋パルプ会長(-1953年)
 1953年 衆議院議員(-1979年)
 1955年 自由民主党幹事長(-1956年)
 1956年 外務大臣(-1957年)
 1957年 内閣総理大臣(-1960年)
 1987年 死去
  父:佐藤秀助
  母:佐藤茂世(佐藤信彦の長女)
  養父:岸信政
  養母:世木チヨ(世木寿熊の妹)
  妻:岸良子(岸信政の二女)
    長男:岸信和
    長女:岸洋子(衆議院議員 安倍晋太郎の妻)

◆岸信和 …*岸信介の長男(3歳の時に小児麻痺)
 1921年 誕生
 1946年 宇部興産入社
 1958年 内閣総理大臣秘書官(-1960年)
 1961年 日本輸出入石油入社
 1962年 日本輸出入石油取締役
 1963年 成和土木取締役(-1972年)
 1967年 西部石油常務
 1969年 西部石油専務
 1979年 西部石油副社長
 1985年 西部石油会長
 1989年 西部石油取締役相談役
 1992年 西部石油相談役
 1993年 西部石油顧問
  父:岸信介
  母:岸洋子(岸信政の二女)
  妻:田辺仲子(衆議院議員 田辺譲の三女)
    養子:安倍信夫【岸信夫】(衆議院議員 安倍晋太郎の三男)

◆安倍信夫【岸信夫】…*安倍晋三の実弟(岸家に養子)
 1959年 誕生
 1981年 住友商事入社(-2002年)
 2004年 参議院議員(-2012年)
 2008年 防衛大臣政務官(-2009年)
 2012年 衆議院議員
 2013年 外務副大臣(-2014年)
 2016年 外務副大臣(-2017年)
 2020年 防衛大臣
  父:安倍晋太郎
  母:岸洋子(内閣総理大臣 岸信介の長女)
  養父:岸信和
  養母:田辺仲子(衆議院議員 田辺譲の三女)
  妻:江入智香子(甲陽建設工業常務 江入靖明の長女)
    長男:岸信千世

◆岸信千世
 2014年 フジテレビ入社
  父:安倍信夫【岸信夫】
  母:江入智香子(甲陽建設工業常務 江入靖明の長女)



✔︎佐藤松介についての記述




⭕️佐藤松介の妻の兄は松岡洋右
✔︎松岡 洋右 Wikipediaから一部抜粋
松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。
南満州鉄道(満鉄)総裁を務め、満州国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。
生涯
アメリカ留学
1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(のちの光市室積)で生まれた。
洋右が11歳の時に父親が事業に失敗してしまい破産したことや、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、1893年(明治26年)に留学のため渡米する。渡米後は、周囲の人々が多く信仰していたキリスト教の影響を受け、自らも入信に至る。〜以下略〜


✔︎松岡洋右のアメリカ留学に手をかした真宗の僧・島地黙雷
島地黙雷(Wikipedia)
島地 黙雷(しまじ もくらい、天保9年2月15日(1838年3月10日)- 明治44年(1911年)2月3日)は、明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。雨田、北峰、六々道人などと号す。西本願寺の執行長。大洲鉄然、赤松連城とともに、西本願寺における維新の三傑と称される。
略歴
周防国(山口県)佐波郡で西本願寺派専照寺の四男として生まれる。1866年、同郡島地村妙誓寺の住職となり、姓を島地と改めた。
1868年(明治元年)、京都で大洲鉄然や赤松連城とともに、坊官制の廃止・門末からの人材登用などの西本願寺の改革を建白し、改正局を開いて末寺の子弟教育に注力した。1870年(明治3年)に、西本願寺の参政となった。
1872年(明治5年)、西本願寺大谷光尊からの依頼によって、仏教徒として初めてヨーロッパ方面への視察旅行を行った。使節団一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対して一等書記官福地源一郎が派遣され、同国の裁判制度などを研究させたが、黙雷はこれに同行している。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊での布教にも尽力した。また、女子文芸学舎(現:千代田女学園)を創立するなど、社会事業や女子教育にも功績を残した。


✔︎盛岡市  島地黙雷 データ
https://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankou/1037106/1009526/1024995/1024998/1025233.html


✔︎北村さよ
https://ja.wikipedia.org/wiki/北村サヨ
”1900年1月1日朝、山口県玖珂郡日積村大里(現在の柳井市日積)の農家、浄土真宗門徒の浴本家の四女として生まれる。”



✔︎2017.8.12 IWJ 新刊『日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件』
孫崎享ロングインタビューの一部

【敵国・米に日本を売った本当のスパイは?】
 西園寺公一は、尾崎秀実(朝日新聞記者 共産主義者)に情報を与えているとしてマークされて家宅捜査を受けるが、軍の機密文書が出て来た。
ところが、警察は軍から西園寺にリークがあることを隠す必要から、この件を隠蔽する。(金庫に保管され終戦の時に焼けたという筋書き)
スパイ ゾルゲのソ連密通というストーリーが崩れ、それどころか、軍の中にも密通者がいるということになるからである。
ニューマンは、最も機密情報に近いルートであったはずであるが、触らずにいるということはどういうことなのか?
軍や財界の大物との関係があるとなれば、そこは、アンタッチャブルなのである。
 (※アメリカのヘラルドトリビューンの記者・ロシア系ユダヤ人記者ジョセフ・ニューマンに、ヴケリッチを通じてドイツのソ連侵攻情報を渡し、これは記事になった。ニューマンという記者は、渋沢栄一の息子(三男の正雄 渋沢財閥)に接触をうけて日本に呼ばれ、日米開戦のときには日本で活動し、終戦後は、モスクワで活動させられている。非常に謎めいた人物(米・軍産複合体のスパイ?)である。ニューマンは日本の警察にマークされるが、突然、10月15日 ハワイ旅行に行くということで逃がされた。ニューマンは、日本の軍から親米 の財界の大物(渋沢)を通じて逮捕直前に逃がされたのである。ニューマンは、真珠湾攻撃2日前にハワイ脱出。開戦後ニューヨークで一気にGoodbye Japanを書いた。危機一髪の脱出は偶然だったのか?
ニューマンが捕まると、軍、財界に手が伸びるばかりでなく、ゾルゲ事件の筋書きが狂ってしまうからである。渋沢正雄は樺山愛輔伯爵(白洲正子の父)をニューマンに紹介している。
戦後処理に白洲次郎がかかわるのも偶然ではないことが分かる。)
 さて、改めて日米開戦において、日本にとっての一番の敵はどかというと、当然、アメリカである。
…ということは、誰がアメリカとの関係を持っていたかが最も重要であるはずである。
日-ソ連(ゾルゲ)よりも、日- 米(ニューマン?他 不明)のスパイからの情報漏洩が
最も警戒されなければならない。そこが全く手付かずなのである。
戦前から、岸伸介などは、駐日大使のグルーとゴルフ仲間であったのだ。
グルーは、日米開戦にいたるまでの激動の10年の間、深く日本に入り込んだ外交官である。
(Ten Years in Japan 滞日10年の日記に基づく著書はベストセラーになった)
岸伸介は、A級戦犯として巣鴨プリズンから出所したあと、アメリカのエージェントになったというのが定説であるが、戦前からアメリカと通じていたのである。

満州で権力もった軍・財・官の5人。「弐キ参スケ」
東條英機(1935年 - 1938年、関東軍参謀長)
星野直樹(1932年 - 1940年、国務院総務長官)
鮎川義介(1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(1936年 - 1939年、総務庁次長)
松岡洋右(1921年 - 1930年、1935年 - 1939年 満鉄総裁)
彼らは、グループを形成してヤクザ顔負けのブラックマーケットを展開した。
満州で〈阿片を生産売買〉〈贋金づくり〉などで巨万の闇金を作り、その金で日本国内政治でも権力をもった。