【杜聡明&杜祖健 親子はヘビ毒の専門家】連動❓登戸研究所のヘビ毒人体実験⇄台北帝大ヘビ毒研究 | ☆Dancing the Dream ☆

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*【日本の戦争麻薬ビジネス①】
 [麻薬で戦費を稼いだ日本]と[加計⇆Tu博士⇆オウム]のつながり

*【日本の戦争麻薬ビジネス②】
 オウム薬物ビジネスを隠す人々 (日本と台湾のCIA傀儡たち)

*【日本の戦争麻薬ビジネス③】
 山西省ケシ栽培アヘン密売 / 売られた山西省残留兵 &「白団」

*【日本の戦争麻薬ビジネス④】
 隠匿物資(M資金)/政商・後藤幸正(祖父)とヤクザ・後藤忠政(孫)

*【日本の戦争麻薬ビジネス⑤】戦争=金‼️
 戦争麻薬中毒患者の「汚れた防衛産業 今昔物語」

*(番外) 「スリーパーセルは考えにくい 」黒い文太郎
 /加計・Tu博士の「スパイによる暗殺」の話

*【北朝鮮を牽制】
 オウム中川死刑囚とTu博士(加計 千葉科学大)の「VX暗殺レポート」電子版発表 )










上掲のツイートを読ませてもらって、
特に、注目したのは、
登戸研究所』(1939年 昭和14年発足)が、
「ヘビ毒」の人体実験を行なっていたということだ。


「ヘビ毒」といえば…

ヘビ毒の専門家、
杜聡明 Tu Tsung-ming
杜祖健 Anthony Tu の父子を
直ちに思い出す。


日本統治下の台北帝国大学 医学部、
杜聡明の薬理学教室の「ヘビ毒研究」と、
登戸研究所の「ヘビ毒人体実験」は、
連動していたのではないか


…この仮説が、本日のメインテーマだ。

台北帝大と登戸研究所の研究時期も、
台北帝大設立の主旨の軍事利用目的にも符合する。
また、登戸研究所で人体実験に使われたというヘビ毒、
アマガサヘビは、別名タイワンアマガサと呼ばれるように、
台湾に多く生息する毒ヘビであり、
杜聡明の薬理教室の研究対象だった。

ーーー

杜聡明 (Tu Tsung-ming / 1893 - 1986)と、
その三男の杜祖健 (Anthony Tu / 1930 - )…
彼ら父子の物語は、長い話になる。

杜聡明が生まれた時は台湾は清朝に統治されていたが、
3歳で台湾は清から日本に割譲され、
彼は、台湾人が通う日本語教育が行われた公学校でも1番の成績で、
(日本人は小学校、台湾人は公学校、原住民は蕃人公学校と分けていた)
日本の修身教育、日本同化教育を素直に吸収する優等生だったのだろう。
医学校、京都帝大留学と進学の度毎に、
その優秀さから、日本人恩師に特別に取り立てられてきた。
彼は、留学先の京都帝大で博士号をとり台湾初の医学博士となった。

1937年、台湾総督府に設立(1928年)された
「台北帝国大学」で唯一の台湾人教授になったが、
政府の命令により、
日本が軍事費を捻り出すために台湾でとった「阿片専売制」に
深く関わり、アヘンの人体実験ともいえる研究調査も行なった。

また、台北帝大 医学部での
彼の薬理学教室における「ヘビ毒」研究は、
日本の領地としては最南端に位置する台湾の特質を
南進政策に活かす目的に則したものだった。
日本が侵略しようとする南方に多く生息する毒ヘビ対策、
あるいはヘビ毒活用の軍事研究としても重要だったのである。

そもそも、台湾総督府による「台北帝国大学」の設置は、
内地の大学とは異なり、
インドシナ半島への侵略を目指す「南進政策」に役立てるため
というのが主目的だった。

そして、杜祖健の弟子の台北帝大 医学部 第一期生の
李鎮源(1915- 2001)によって、「ヘビ毒」研究は、
世界的にも目覚ましい成果を上げ、
米軍のベトナム戦争にも活かされた。
台湾は、ヘビ毒研究の主要地だったのだ。

「毒」というものは、
人の命を救う医薬品にもなれば、犯罪の道具にも、兵器にもなる。
彼らは、民生に役立つ開発もしたが、
おそらく、多くの動物の命… ばかりでなく人間の命も
犠牲にしたことだろう。

お正月早々、「毒」の話もなんであるが、
もし、興味のある方は、
昨年の2月頃から書いた長いシリーズもお読みいただければと思う。

ーーー

昨年の出来事として、
日本の腐敗した現政権の奢り国民の悲しみが、
強いコントラストとして記憶されるのが、
7月の西日本豪雨の時期に起きた一連のことだろう。

西日本豪雨の被害が出始め、気象庁が警報を発した5日、
衆議院宿舎で「自民亭」と称する
浮かれた宴会が安倍総理参加の元で開かれた。
ご満悦の彼らの酒宴の写真は絶望的に醜かった
その日、日本の水を外資に売り渡す「水道法改正案」が衆議院を通過したが、
その翌日、ますます豪雨被害が深刻化する中、
松本智津夫ら、オウムの死刑囚、7人の死刑が執行された。
(7/6に7人 、7/26に6人 13人のオウム死刑囚が処刑された)

あの西日本豪雨の最中に処刑された死刑囚の中に、
オウムの幹部で医師の中川智正もいたが、
彼は、豪雨被災地の岡山県の出身だった。
彼は故郷の激しい雨と共に召された。
岡山は、災害の少ない温暖な地として東日本震災 原発被災者も
多く移住していた地でもあった。

この死刑囚・中川智正と不思議な交流をもったのが、
杜聡明の3男・杜祖健(Anthony Tu)博士だ。

杜祖健は、
加計学園 千葉科学大学 危機管理学部 教授だ。
コロラド大学名誉教授、順天堂大学名誉教授でもある。

杜祖健ことTu博士は、BC兵器の専門家で、
オウムの松本サリン事件の解明にも関わり、
オウムのサリン他、化学兵器製造に関わった中川智正の
特に、VXガスの知見の聞き取りのために接見を行い、
共同論文を発表した人物として知られる。
この際に、もっとも重要だったのは、
VXの製造、VXの中毒、VXの治療(カンフル剤アトロピンで処置)と、
VXに関する一連の経験をもつ専門家は、
世界で中川ただ一人であった
ということであり、
その中川が「北朝鮮の金正男 暗殺はVXであると断定した
ということだった。
**中川智正の手紙(英文)
https://www.fsight.jp/common/users/kamiyama/pdf/VX%20fr%20nakagawa%207-10-17.pdf
**RichardDanzigレポートhttps://www.files.ethz.ch/isn/156879/CNAS_AumShinrikyo_SecondEdition_Japanese.pdf


Tu博士の他に、中川智正に面会できたのは、
米シンクタンクCNAS(新アメリカ安全保障センター)の
米海軍長官のRichard Danzig氏だけだったが、
この事からも、Tu博士の一連の中川への関与は、
米軍の指示に基づき、日本政府が受容したという経緯だろう。
中川の頭の中だけにある「vxの人体実験」の微細なデータは、
軍事における貴重な知的財産であり、
この情報を中川から完全に吸い取る彼らの任務が完了すれば、
その時が、すなわち 中川の死刑執行の準備が整った時期と
いうことになるのだろう。

ーーー

すでに消されているが、Tu博士は、
オウム事件やBC兵器について解説をした
日本でのある講演会の動画の終盤のこと…
スライドを見せながら、
2009年旭日中綬章を受賞し胸に勲章をつけた自身の映像を映し出しながら、
父子、揃って日本の勲章を受けたのは私たちだけだと自慢しつつ、
ジョーク交じりに、この時もらった賞状に
当時の総理の「鳩山由紀夫のサイン」があったことを残念がり、
あれは今までで一番ダメな総理だったね」と言って聴衆を笑わせていた。
父の杜聡明は、1968年明治百年記念に、
日本に功労のあった外国人百名中唯一の台湾人として表彰され、
勲二等瑞宝章を授与されている。

鳩山由紀夫元総理は「友愛」をもって共存共栄をしていく
東アジア共同体構想を打ち出し、
田中角栄以来のアメリカの言いなりではない政策を掲げていたが、
普天間県外移設など、尽く外務省、防衛省などの官僚の謀略で
内部から潰された。
偽のレク用レポートで鳩山をはめた売国官僚の背任行為は、
未だに裁かれていない。
(背任官僚 顔出し記事→) https://ameblo.jp/et-eo/entry-12323177474.html
Tu博士にとっては、台湾独立を認めない中国(中華人民共和国)共産党との
「友愛」などあり得ないのだろう。

Tu博士の一族は、大陸から渡ってきた漢民族系台湾人として、
明 漢民族再興、打倒清朝というマインドをもっているのだろう。

清末期1901年頃から
(列強の北京占領/北京議定書:列強による半植民地化)
清政府によって日本留学は奨励されており、
日本の留学生の間で満州族の清王朝打倒の
民族主義革命の思潮はあった。
この根から、中国共産党も生まれ、分かれていった。
軍閥による内戦が続く中華民国の有様に失望し、
近代化西洋化を求めたが、これもまた、
第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約の
山東半島のドイツの権益を日本が維持するという
列強の植民地主義に失望させられた。
この際の民衆の怒りのデモ(五四運動)に希望を持ち、
マルクス主義に傾倒した人々がコンテルミンと結びついた。

人は自由を求めて闘争するが、
また何かに絡め取られていくのか?
オウムに入信した多くの優秀な若者たちも
そうだったのだろうか?

そして、
Tu博士が、特別に中川智正にシンパシーを感じていたのは、
彼が非常に優秀な医師であったという以上に、
彼の中に若き日の父の姿を重ね、
かつての父 杜聡明の「袁世凱 暗殺未遂事件」に思いを馳せ、
父もまた一歩間違えば毒物による殺人者になっていたことを
感じずにはいられなかったからではないだろうか。


ーーー


杜聡明は、1893年、清朝統治下の台湾淡水に生まれた。
1895年、日清戦争で勝利し清朝から割譲された台湾の
1909年、日本の統治下の台湾総督府医学校に入学した。
彼は、身体測定で劣る「丙」だったので本来なら不合格だったが、
成績優秀を惜しんだ台湾総督府医院長の長野純蔵の取り立てで、
合格したのである。

杜聡明は、医学校時代の20歳のとき、
1913年7月、医学校の同窓生の翁俊明(ジュディ・オングの祖父)ともに、
中華民国 暫定大統領の「袁世凱 暗殺計画」を実行に移した。
彼らは、孫文が満州民族の植民地にされていた漢民族の独立を目指す、
のちに国民党へと発展する中国同盟会の革命のメンバーであった。
漢民族主体の台湾の多くの若者は、日本の植民地支配の台湾にありながら、
敵視するには清の満州民族であり、
中国の漢民族を我が同胞と考えていたのである。
中国同盟会は、大陸浪人の宮崎滔天らの援助で、東京で結成された。
この時、孫文は日本留学中の蒋介石と出会っている。

清は、風前の灯だったのである。
1908年に皇帝 光緒帝が崩御し西太后も病没し
2歳の幼帝・宣統帝(愛新覚羅溥儀 ラストエンペラー)が即位した。
1911年、辛亥革命で南京に中華民国を建国し、
孫文が臨時大統領となった。
1912年2月12日、ラストエンペラー宣統帝が退位し、清朝は滅亡。
清の軍人・袁世凱は、北京の新生中華民国の臨時大総統に就任した。
袁世凱の権威主義的な支配と皇帝にまでなろうという野心に、
台湾人学生らは、激怒したという。

社会運動会の蒋渭水の推薦を受けた細菌学を専門とする彼らの使命は、
試験管に入れたコレラ菌を鞄をもって、
キルン港(現在の基隆)から大阪へ出発し、
日本から中国に入り、北京の水道を汚染することによって
袁世凱を暗殺することであった。
彼らは、日本の神戸で孫文に会い、暗殺計画を話すと、
意思を賞賛されるが、彼らの命が危険に晒されることを心配し
実行を思いとどまるよう説得したが、彼らは聞かなかった。
彼らは、北京で列車で到着し、街の水道システムを調査すると、
台湾とは違って水源が封じ込められ、
厳重に警備されていることが判った。
彼らは、監視の目を感じ、コレラ菌による袁世凱暗殺を断念した。
暗殺失敗後、彼らは台湾に戻って普通の学生として医学に励み、
杜聡明は、1914年に台湾医学校を卒業した。

そして…
1915年、杜聡明は、医学校校長の堀内次雄の援助で、
日本の京都帝国大学 医学部に留学し
森島庫太の薬理教室に入り、博士号を取得。台湾人初の医学博士となった。
その後、台湾医学専門学校(元 台湾総督府医学校)の教授になっていたが、
1925年12月、官命を受けて、欧米遊学の途についた。

翌年1926年6月、杜聡明は、アメリカからさらに欧州に
向かおうとしていたところ、
アメリカのフィラデルフィアの国際会議に出席し、
日本が台湾でとった「アヘン漸禁政策」は、
阿片矯正の成果をあげていると正当化
宣伝する講演をするように命じられた。(1926年7月)
これは、NY timesに「政府の麻薬販売をするのが良策」と
報じられるなどしたが、
のちに、台湾人有識者から顰蹙をかい 国連に告訴された。(1929年3月)
また、台湾総督府専売局からの要請で
アヘンとその反応実験などの研究を行い、(1929年4月)
朝鮮、満州、上海に出張しアヘン中毒調査を行った。
台北のマラリア患者収容施設にアヘン中毒患者を収容し、
この施設の実務を行った。(1930年1月)
国際的な批判を受けてようやくアヘン中毒者矯正事業が行われたのは
1930年以降だったのだ。

この日本のアヘン専売政策は、
イギリスの「アヘン法」(Opium-Act) を真似たもので、
イギリスは登録された中国のアヘン喫煙者、 インドのアヘン食者に限定して
政府がアヘンを専売し、アヘンの儲けで産業革命を行ったが、
日本が軍事拡大のために多額の予算をアヘン政策によって賄ったのである。
そして、杜聡明は、日本の官制〈麻薬ビジネス〉の協力者だったのである。

日本統治時代の台湾に設置された台北帝国大学に
1936年1月医学部が設置され、
医学部は解剖学、生理学、生化学、病理学、細菌学で構成された。
杜聡明は、1937年、この台北帝国大学医学部で
唯一の台湾人教授に就任し薬理学講座をもった。
杜の研究領域はアヘン、蛇毒病理、漢方薬草であった。
戦後、敗戦した日本から中華民国に摂取された台北帝大が、
国立台湾大学になり、台湾大学医学院院長に就任した。
しかし、北京大学から来た当時の学長・銭思亮と意見衝突し、
台大を辞職。1954年から 高雄医学院の初代院長を歴任した。



そもそも、台北帝国大学は、
日本の「南進政策の一環」としての学術機関としてスタートした。

台北帝国大学が設置される経緯については、
こちら⬇︎の論文を参考にさせて頂いた。
**『台湾帝国大学成立史に関する一考察』李, 恒全
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81000668.pdf)


日本は日清戦争で勝利し台湾を割譲され、
教育は「国家統治の基礎」であるため、
大学設置は急務だという声が高かったものの、
台湾総督府には、金がなかったのである。

台湾では、各地の抗日ゲリラ活動が続き、
台湾総督府の優先課題は、治安の問題だった。
そのため総督には、初代1895〜1919年まで、
武官(樺山資紀、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎)が務めたが、
抗日反乱軍の鎮圧のための軍事費がかさんだ。

そのため、日本国内では台湾領有による重い財政負担を問題視して、
台湾 放棄論」や「フランスに1億円で売却論」まで
出ていたほどだったという。

台湾総督府は、まず武力によって
台湾住民の武装抗日勢力の弾圧に全力をあげ、
さらに警察政治、 保相互監視の甲制度を併用し、
1915年4月の「西来庵事件」(逮捕者1957人 死刑866人)
武力による反日運動はほぼなくなった。

そして、台湾総督府統治下で教育整備が始まるが、
1895年、まず、日本語を教え始めた。
民族により差別 ・隔離する政策に基き、
初等教育は在台の日本人、台湾人、原住民に分け、
それぞれ別の教育機関を設け、徐々に教育制度を整備していったが、
台湾総督府の植民地教育政策は、当初から最低限の教育に止め、
過度の教育を施すことは警戒していたため、
大学設置までは至らなかった。

しかし、台湾で高等教育が受けられない台湾人青年は、
日本、中国、欧米に留学せざるを得なかった。(日本留学が最多)
彼ら留学生は、台湾の民族運動、社会運動、新文化運動、
教育事業、経済産業の発展などに大きな役割を果して行き、
これに警戒した台湾総督府は、在台日本人子弟の進学希望の増加や
台湾人の留学を阻止するために、
台北高等学校、台北帝国大学の設立を決定したのである。
(1928年設置)

台湾人の武力的抗日行動が非暴力的民主化運動に変化し、
原内閣は、1919年8月、 植民地の武官総督制を廃止し、
同年10月より、田健治郎が初代文官の台湾総督に任命された。

その創設に尽力した幣原担の考えるところによると、
大学設立の立脚点は、
台湾を「日本領土中、一歩南洋に踏出している唯一の足場」と見て
日本の南方進出の足場がとしての台湾では、
「範を既設大学に取らず」という事で、
南方文化に焦点を当てた独自の理念で設立されたのだ。



さて、
このように「日本の南進政策に役立てる」
という理念の元で重視された台北帝国大学の熱帯医学の研究の
焦点であった《ヘビ毒研究》において、
たしかに杜聡明は先駆者ではあるが、
蛇毒病理の研究で多大の業績をあげ、
最も世界的な貢献をしたのは、
台北帝大 医学部の一期生で、
彼の弟子の 李鎮源(1915- 2001)であった。

ノーベル化学賞受賞者の李遠哲は、自著の中で、
ノーベル生理学・医学賞受賞者ジョーゼフ・ゴールドスタインと共に、
李鎮源を賞賛する一文をこのように記している。
"In the Taiwanese life science field,
whose research is recognized internationally?"
Without the least hesitation, Goldstein answered,
"Chen-Yuan Lee is internationally recognized."
彼は1936年に台北帝大に入学し、
初年度に書いた論文は台湾の医学雑誌に掲載されるなど、
優秀な医学生として研究を楽しみ、1940年に台北帝大を卒業。
その後、杜聡明の助手となり、
「漢方薬の苦参が赤痢の治療薬となる」ことを発見。
また、彼が書いた論文、
"The Toxicological Research on the Venom of Daboia"
(鎖鏈蛇蛇毒的毒物學研究)は、
ヘビ毒による死亡の原因を説明するための世界初の論文だった。
李鎮源は1945年に台北帝国大学で医学博士号をとった。

その後、奨学金を受けてペンシルバニア大学医学部に留学し、
循環器系の研究をするためにデトロイトのウェイン州立大学に行った。
台湾に帰国した後、彼は杜聡明の窮状(*台北大に歯学科及び薬学科ができ
杜聡明は当時の銭思亮学長と意見衝突し1953年に医学部長を辞職している)
により国立台湾大学の薬理学研究室でリーダーとなり、
コブラ科アマガサヘビのヘビ毒成分のα-ブンガロトキシンと
β-ブンガロトキシンとの種を始めて分けるという
画期的な研究成果をあげた。
ヘビ毒研究は、台湾で最初の先駆的研究となり、
米軍はベトナム戦争の湿地帯の戦地で毒ヘビに遭遇する事が多く、
米陸軍研究開発部は、李鎮源博士に毒ヘビ研究を依頼するなど、
世界的に台湾はヘビ毒研究の主要な場所となった。
長年にわたり、彼は百以上の研究論文を発表し、
毒蛇研究の分野で国際的な権威にもなり、
1972年に国立台湾大学医学部の学部長に就任。
1976年の国際毒素学会の雷理奨 (RediAward)を受賞。

1986年に引退後、台北大の名誉教授となり、
その後は、台湾の独立運動と多くの民主的運動に参加した。
1990年3月30万人以上の学生の民主デモに、
80歳を超えた李博士が同伴した。
デモに参加した学生が逮捕された事などに反対し、
反乱の規制「刑法第100条」の廃止を訴えて
"100 Action Union"では座り込みにも参加した。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Chen-Yuan_Lee



若者の間では薄れつつあるとはいえ、
台湾には、「本省人」「外省人」という
出自による分類にこだわりがあるようだ。

・第2次世界大戦前、清国統治時代(1683~1895)に
移民してきた漢民族の子孫で、
台湾の人口の大多数(84%)を占めるのが「本省人」であり、
・戦後中国から渡って来た「外省人」(14%)、
・マレー・ポリネシア系民族の原住民(2%)とされる。

「本省人」の本省とは、連合国の一員の中華民国の
一つの省である「台湾省」に台湾が編入され、
この時、中華民国の国籍を回復した者とその子孫が
「本省人」という意識をもつ。


ここで、少し日本への割譲後の台湾の歴史を紐解いてみたい。

台湾は、長い清(満州族)の統治下におかれた後、
1895年に日清戦争の日本の勝利によって日本の植民地(下関条約)となった。
1912年孫文(漢民族)によって
国民党の中華民国が南京に設立された(辛亥革命)が、
清の軍人・袁世凱が政権を奪い北京に政府を移し、
独裁政治によって自ら皇帝に即位し帝政を実現しようとしたが、
学生デモや軍閥の抵抗に合いこれに失敗。袁世凱の病死。
これを契機に中華民国北京政府の統制が失われ
内戦状態となっていた軍閥時代には、米英日ソ列強が入り乱れて
各地の軍閥と結んで背景勢力となっていた。

中国国民党は、軍閥や北京政府に対抗するため、
中国共産党とも共同戦線(国共合作)を張った。
1925年、孫文が死去。蒋介石が孫文の後継者となった。
1926年以後、蒋介石の指導の下に北伐を行って軍閥政権との戦いを続けた。
しかし急激な勢力拡大と反共的な蒋介石の支持者や経済界の不満を抱かせ、
1927年4月蒋介石は、方向転換し、
共産党勢力や労働組合の粛清を図った。(上海クーデター)
同年4月18日南京に南京国民政府を樹立。
蒋介石は北伐(北京政府打倒)を決し国民党による統一を目指した。

一方で蒋介石の権力に不満のある軍閥は共産党に加わった。
満州と北京政府を支配していたのは張作霖である。
張作霖は日本軍と結んで軍閥をひきい中国東北部を牛耳っていたが、
1928年6月国民党軍の北伐に合い、奉天に逃げる途中、
関東軍の謀略による列車爆破で死亡した。(張作霖爆殺事件)
息子の張学良は蒋介石と提携。軍閥政府の根拠地である北京を陥落させた。

1928年10月、蒋介石は全国統一を受けて国民政府主席に就任。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破され、
関東軍は張作霖の息子の張学良の奉天軍によるものとして満州全土を占領。
内閣の不拡大方針にも応じず暴走し、
15年の侵略戦争の日中戦争へ突入していった。
満鉄爆破は関東軍の謀略だった。(満州事変)
1932年、清朝最後の皇帝溥儀を執政として
日本の傀儡国家・満州が建国された。
首都は新京(長春)。1934年に溥儀の皇帝即位によって帝国とした。

1936年12月、張学良は内戦停止・抗日戦を要求し、
共産党の掃討を優先する蒋介石を誘拐監禁した(西安事件)が、
共産党・周恩来の仲介により蒋介石を解放し、
それを機に抗日の第2次国共合作となった。

1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で
夜間演習中の日本軍が実弾射撃音をきっかけに、
中国軍と戦闘になった。(盧溝橋事件)
満州事変、盧溝橋事件を契機として、
中華民国と日本は全面戦争(1937年日中戦争)を開始。

1941年、日本は真珠湾攻撃で第二次世界大戦に突入。
1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。
3ヶ月の地上戦で県民1/4が犠牲になった(沖縄戦)
1945年8月6日、広島にウラン型原爆投下。
1945年8月9日、長崎にプルトニウム型原爆投下。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾。
1949年8月15日、連合国側に無条件降伏終戦。
日本の降伏後、中華民国は台湾の統治を引き継いだ。

中国共産党と中国国民党国の内戦の後、
中国共産党は中国大陸を完全に支配し
1949年には中華人民共和国を設立し、
蒋介石の国民党は共産党との内戦に敗れて
台湾へ逃れ中華民国政府を台湾に移転した。
先住の台湾の人々は、
「犬(日本軍)が去って豚(中華民国軍)が来た」と言って嘆いた。



日本の敗戦後、台湾には中華民国(国民党政府)の官吏が派遣され、
1949年に国民党が大陸での共産党との内戦に敗れ、台湾に移転すると、
大陸にいた腐敗した国民党系の軍閥が、台湾に持ち込まれた。
国民党政府に反発する人々は「共産主義者」とレッテルを貼られ、
またも、台湾語を禁止され、今度は北京語を国語として強制された。
弾圧される時代がその後30年以上続く。
国民党政府と一緒にやってきた役人や軍人らを「外省人」と呼んだのだ。
台湾の行政を担う官僚などエリート階級の支配層は「外省人」だった。
先に台湾に住んでいる人々は、台湾省=「本省人」として、
大陸から新たに来た者らを嫌い、「外省人」として区別した。
すなわち、「外省人=豚」とというわけだ。

80年代に民主化が進み、国民党独裁時代に、
反政府活動により投獄されたり亡命していた「本省人」が、
「民主進歩党」(民進党)を立て、中国からの台湾独立を唱えた。
一方で、冷戦終結後の民主化の波により、
国民党も存続をかけて、蒋介石の子・蒋経国が、
副総統に「本省人」の李登輝を抜擢。
李登輝が総統、国民党主席となり、急速に民主化自由化が進んだ。
現在の台湾の女性大総統・蔡英文は、いわゆる「本省人」である。



台湾は、日本が第2次大戦敗戦の1945年までの50年間、
台湾を領有され植民地として統治されてきた。
日本に、2等国民の差別を受け、台湾語を禁止され、
抗日運動を取り締まられ、占領されていたにもかかわらず、
漢民族系台湾人として「 明 漢民族再興」「打倒清朝」という
マインドもっている一部の「本省人」が、
明治の大日本帝国にシンパシーを感じていたのは、
清(満州民族)を倒したからであろうが…


…「外省人」また、
日本の右翼を同朋視するのには理由がある。

蒋介石は、共産党軍との戦いの中で、日本軍と握っていた。
日本側は、軍の資金繰りに蒋介石を利用した。

中野学校の設立者でもある岩畔豪雄が、
1939年、米本土攻撃を睨んで作らせた陸軍『登戸研究所』の
偽金の散布工作を担ったのが、阪田誠盛の「阪田機関」であるが、
アメリカを中心とする海外からの
援蒋ルート物資を買い占めることによって偽造法幣を大量にバラ撒き、
偽造法幣で日本が不足しているガソリン等を買い付け、
ただで戦争をする、という一石二鳥を狙った。
阪田は、上海の暗黒街の「青幇」のボス・杜月笙の協力を得て、
蒋介石政権と交易を結び、物品購入に偽造紙幣を用いた。
阪田が売る商品の代金は正規の法幣で受け取ることで
マネーロンダリングを行なった。

「青幇」と蒋介石は、基本思想(漢民族再興、打倒清朝)を同じくし、
義兄弟の契りを交わして交友を深め、政治的にも協力していた。
蒋介石も自身も「青幇」の一員であったという。

また、蒋介石は、阿片売買を行った里見甫の「里見機関」から、
阿片マネーを受け取っていた。
軍から特務資金調達のため阿片売買を依頼されて上海入りした里見は、
1938年3月、「宏済善堂」の社長として、
「昭和通商」や、中国の秘密結社「青幇」や「紅幇」などとも連携し、
1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立した。
「宏済善堂」は三井物産と興亜院(占領地の政務・開発をする国家機関)の
主導で設置された。
「昭和通商」も、三井物産・三菱商事・大倉商事が
共同出資して設立された商社で、実態は陸軍の特務機関であった。

さて、日本は第二次世界大戦の連合国軍に負け、
中華民国は勝者となり、日本は台湾の行政権を渡した。
しかし、中華民国では、アメリカが支援する中国国民党と、
ソ連が支援する中国共産党との間の内戦が続いた。

…そして、あろうことか、
ポツダム宣言の違反が早速行われた。
…敗戦後のことである。
蒋介石から支援要請をうけた日本軍将校たちの命令で、
秘密裏に中国に残留させられ、中国国民党軍(国軍)に編入され、
終戦後も4年間も中国共産党軍と戦った日本兵がいた
この軍の司令官 澄田賚四郎 は、中国の混乱を逃れ、さっさと帰国した。
この残留兵は、日本軍山西省残留兵〜北支派遣軍 第1軍。
ドキュメンタリー映画『蟻の兵隊』は、彼らのことを描いたものだ。

日本の敗戦後、
蒋介石の国民党政府が開いた、
日中戦争の日本軍関係者の戦争犯罪を裁く「南京軍事法廷」で、
無罪にして日本に帰してやった男がいた。
司令官のさらに上の総司令官 岡村寧次 である。
岡村寧次は、蒋介石の援軍の依頼を受けて、
〜東亜反共連合軍のため優秀な日本軍官を反共作戦に参加させる〜
として、白鴻亮こと富田直亮を団長とする
「白団」義勇兵軍事顧問団を作った。

「白団」は、やがて米国軍事顧問団に取って代わられ、
1968年12月31日に解散。
そして、米ソ冷戦構造のなかで台湾は、
日本と同じく「反共の砦」となり、
アメリカから多大の軍事支援を受けるが、
蒋介石の「大陸反攻」の目論見はアメリカに阻止された。
日本では「白団」の団員のうち23名は、
自衛隊の枢要な地位についた。


戦後も、
国民党政府と一緒に台湾にやってきた役人や軍人など、
台湾のエリート層の「外省人」と、
日本の旧軍上層部を含む軍事利権に巣食う右翼筋が、
共鳴し合うのは、至極 自然なことなのであろう。

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敗戦後、
米軍のブランチである太平洋軍の
実質的植民地となった日本では、
日台の戦時勢力の癒着と同じような構図が、
日米間でも繰り広げられている。


当ブログも、注視してきた
日米の政官業の癒着した軍事利権の巣穴…

「日米平和・文化交流協会」
「安全保障議員協議会」


この2団体は、国会議事堂の裏の
マンション「パレロワイヤル」の同室で一体で運営されていた。
米国の外交防衛コンサルタント会社「アドバック社」の東京事務所も
同マンションの同室であった。

2団体ともに、
秋山直紀
久間章生 (初代防衛相)が主として運営。
(下図 他: 額賀福志郎 瓦力(故人))

「日米安全保障戦略会議」は、
・「日米平和・文化交流協会」
・「安保議員協議会」
・「中央政策研究所」
・米「ヘリテージ財団」
などの任意団体が主催する。
この会議は毎年、
・5月にワシントン (※渡航費に1人:100万円/国際交流基金から助成金)
・11月に東京 で開催される。

この日米軍産複合体とも言える
「日米平和・文化交流協会」の理事として、
安倍晋三
杜祖健(Anthony Tu)も名を連ねていた。

証拠①
「日米平和・文化交流協会」の業務内容に関する質問と答弁
**質問書http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a168386.htm
**答弁書
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168386.htm

・1998年〜2007年までの収支報告で
 最大年度2006年/ 年間収入:1億308万余円、年間支出:1億674万余円
・過去十年間協会の理事に就任したことのある国会議員は、
 赤松正雄議員、安倍晋三議員、石破茂議員、井上喜一議員、瓦力議員、
 久間章生議員、斉藤斗志二議員、武部勤議員、玉澤徳一郎議員、
 中谷元議員、額賀福志郎議員、福田康夫議員、
 前原誠司議員、綿貫民輔議員。

証拠②

※ちなみに、この法人登記に記載された安倍の旧宅マンションは、
 岡山県備前市の元市長・吉村武司(自動車学校経営)親子の
 持ち物となっている。
 自動車学校は、警察の定番の天下り先だ。
 息子の吉村充司は山下貴司法務相、逢沢一郎などの支援者。
 悪どいM&Aを繰り返し各地で訴訟問題を抱える、
 田舎大臣 吉村一族の「照英自動車学校」は、
 全国展開する一大コンチェルンに成り上がった。
 買収した「湘南センチュリースクール」(M&A労働問題で告訴され敗訴)は、
 あの世界最大のBSL3を擁する「武田薬品工業湘南研究所」と、
 「神戸製鋼」に隣接する。(詳細はコチラ⬇︎)
**
2018年12月03日(月) 安倍の旧宅を買い受けた元備前市長
 ➡︎獰猛M&A喰い荒らし➡︎軍郷(湘南)サティアン仲間入り❓


証拠③
「日米安全保障戦略会」HP
会議の開催の記録は、2016年10月13日⬇︎が最後。
http://www.ja-nsrg.or.jp/forum2016.html
日米安全保障戦略会議のマーク SSC?
Japan-US Security Strategy Conference?


大門実紀史 http://www.daimon-mikishi.jp/kokkai/k-kiji/071106.htm



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「日米平和・文化交流協会」は、
毒ガス処理利権にも関わっていた。

専門外であるのに、旧防衛庁の技術調査の入札で落札していた。

そして、この毒ガス処理事業の利権問題は、
秋山直紀の「所得税法違反」事件に発展し、
懲役3年執行猶予5年罰金2700万円の有罪となった。
(2011年10月11日 最高裁 有罪確定)

事件のあらましは、
2003年から2006年にかけて、「日米平和・文化交流協会」が
調査業務を受注した遺棄化学兵器処理事業に関して、
3社の防衛関連企業(山田洋行、神戸製鋼、日立製作所)の技術を
高く評価する報告書などを発注元の防衛庁や国土交通省に提出し、
その見返りに3社の防衛関連企業からコンサルタント料などの名目で
実態のない秋山関連の米国法人「アドバック・インターナショナル」
(コンサルタント業務・防音壁メーカー)に送金された
計約3億1400万円を法人所得扱いとして個人所得を隠し、
9900万円の所得税を脱税した。

・2000年11月、福岡県苅田町苅田港の航路帯の浚渫工事予定水域で
57発の毒ガス弾が発見された。
苅田港の旧日本軍毒ガス処理は、事業費200億円超が投入され、
旧防衛庁が2003年2月に行った技術調査の入札に
秋山直紀が専務理事を務める旧日米文化振興会
(日米平和・文化交流協会)が、
毒ガス弾処理に関して専門外であるのに落札した。
そして、処理事業本体は「神戸製鋼所」が落札して受注し、
山田洋行が下請けに入った。
山田洋行が秋山氏の関係する米国の団体に
業務協力費約《1億円》をキックバック。

・2002年9月25日、神奈川県寒川町で毒ガス不発弾が発見されたのは、
国土交が発注した寒川町の「さがみ縦貫道一之宮高架橋下部工事」現場。
不審なビール瓶が発見され、作業員が発疹やかぶれを発症。
後の分析により、発見された瓶の内容物は、
旧軍の毒ガス兵器に用いられた「マスタード(びらん剤)」や
「クロロアセトフェノン(催涙剤)」であることが解った。
ここでも、同じく旧日米文化振興会(日米平和・文化交流協会)に
調査委託され、同じく「神戸製鋼」が処理を落札している。


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そして、2014年4月
安倍政権が、武器輸出三原則を撤廃
…と同時に、
社団法人「日米平和・文化交流協会」が、
一般社団法人「国際平和戦略研究所 CISS」に衣替えした。
代表理事は、変わらず、久間章生=元防衛相。
背後には、執行猶予も解けている秋山直紀がいる。
Center for International Strategic Studies(略称:CISS)
紛らわしいが、アメリカのかの有名な
「戦略国際問題研究所 CSIS(Center for Strategic and International Studies)
とは別モノ。
https://facta.co.jp/article/201407036.html

さすがなのは…
「国際平和戦略研究所 CISS」の皆さんは、
昨年、7月の西日本豪雨の深刻な被害が広がる最中も、
定例会議を開き、
「サイバーテロの脅威、ミサイル防衛」についての
講演を聴いていたようだ。皆さん勉強家だ。

http://www.ci-ss.jp


さらに、2018年12月
防衛大綱 見直しのための中期防衛力整備計画の骨格、
すなわち、F35爆買い計画を示すと、
「国際平和戦略研究所 CISS」の皆さんが蠢き出して、
定例 隔月会議を開いた…とさ。
https://facta.co.jp/article/201901036.html