【日本の戦争麻薬ビジネス①】[麻薬で戦費を稼いだ日本]と[加計⇆Tu博士⇆オウム]のつながり | ☆Dancing the Dream ☆

☆Dancing the Dream ☆

Let us celebrate
The Joy of life ♡
with ☆Michael Jackson☆


●加計 千葉科学大学危機管理学部 教授 Tu博士

現在、「安倍政権 疑獄」の一つとして
世を騒がせている加計学園。
岡山理科大学の獣医学部は、国家戦略特区 今治での新設が最終的に認可され、
今年4月に開校の運びとなった。
加計学園は、どうにかこの度も補助金詐欺によって倒産を凌いだようだ。

まるで蝗害に襲われたかのような今治市は、
重い経済的負担を負わされただけではなく、
住宅地に隣接する場所にBSL3バイオラボが作られるというのだから、
地域の安全な暮らしまで脅かされることになる。

そして、安倍政権下の
2015年 感染研のBSL4 指定…
2016年 長崎大 BSL4実験室の設置合意 …
2017年 加計の獣医学部 BSL3実験室 新設認定…
現在の不安定な極東情勢を思えば、
好戦的な安倍総理と親密な加計のバイオラボの新設も
これらの連続して開かれたバイオラボのひとつだとするならば、
不吉な予感に戦慄させられる。
兵士の感染症予防という名目の背後で人体実験をして生物兵器を開発していた
日本帝国陸軍の研究機関 731部隊の存在を連想せずにはいられないのだ。

一方、血税90億円超を負担した銚子の加計学園 千葉科学大学では、
2004年、日本で初めて「危機管理学部」を新設した大学のひとつである。
危機管理学部とは、今まで積極的に行われてこなかった
災害・テロ対応、専門家の養成を目的とするというのが題目だ。

そして、加計の千葉科学大学 危機管理学部の教授に、
あの杜祖健 (英名 Anthony Tu)博士 が就任している。

Tu博士は、まだ日本統治時代の台湾出身の
毒性学(蛇毒)、BC兵器(生物兵器・化学兵器)の専門家」であり、
日本では松本サリン事件の解明に携わった人物として知られる。
コロラド州立大学名誉教授、加計の千葉科学大学 危機管理学部の教授である。

Tu博士の父は、杜聡明
台湾総督府医学校を卒業後、京都大学医学部に留学し
博士号をとった初めての台湾人医師であり、
アヘン、モルヒネ、毒蛇の専門家である。

Tu博士の父の杜聡明は、
日本が日清戦争に勝利し、清より割譲された台湾で、
台湾のアヘンの問題において、
いわゆる日本がとった「漸禁政策」に関わった医師である。
「漸禁政策」は、中国でも最も早く蔓延していたアヘン吸煙を
禁止するのではなく徐々に離脱させるという目的の政策だったはずであったが、
台湾ではアヘンの専売制が敷かれ、売買・所有するには「特許」を必要とした。
こうして日本は、海外から輸入したアヘンを台湾で売りさばくだけで
濡れ手で粟のように利益が得られることになる。
日本は、麻薬ビジネスで得た利益を 〈植民地統治の財源〉にしたのである。
 (*↑杜聡明氏と日本の麻薬戦争ビジネスとの関わりについての詳細は、後述する。)

父の杜聡明(勲二等瑞宝章)とTu博士こと杜祖健(勲三等旭日中綬章)は、
親子二代に渡って、日本に功労あった外国人として表彰されている。


●Tu博士とオウム松本サリン事件

多くのオウム事件発生当時の警察庁長官は、城内康光であった。
城内康光は、超エリート警察官僚。また「日本会議」の代表委員でもある。
1988年) 警察庁警備局長。
1990年) 警察庁警務局長、警察庁次長。
1992年) 警察庁長官。
1994年) 退官。

当時、公安捜査により多くの情報を得ていたにも関わらず、
城内警察庁長官指揮下のオウム強制捜査の遅れによって、
松本サリン・河野さん冤罪事件、仮谷さん殺害、地下鉄サリン事件など
オウム事件の拡大が防げなかった。
http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/aum.htm

オウム真理教に対する強制捜査の方針が決定されたのは、城内が退官した後、
1994年7月、警察庁長官に就任した国松孝次氏と
検事総長・吉永祐介氏の トップ会談によるものであった。
これによって、摘発時の適用法令や取り調べ体制など具体策の協議に入ったといわれる。

1994年6月27日に松本サリン事件が発生。
長野県警察は、第一通報者の河野義行さん宅を、
被疑者不詳のまま家宅捜索(6月28日)。
重要参考人として連日にわたる執拗な取り調べを行った。
警察は、誤認操作を行なっていたのである。
マスコミからも激しい報道被害を受けた。
国家公安委員長の野中広務は、捜査の間違いを認め、
個人として河野に直接謝罪したが、
長野県警は「遺憾」の意を表明したのみで
「謝罪というものではない」とした。



にこやかにBC兵器の話をする Tu博士
杜 祖健(と そけん、1930年 - )
台北出身のアメリカの化学者。
コロラド州立大学(英語版)名誉教授。
学校法人加計学園 千葉科学大学危機管理学部の教授に就任(2004年)
順天堂大学の客員教授も務める。2009年旭日中綬章受章。
英語名アンソニー・トゥー(Anthony Tu)。流暢な日本語を話す。
父は、杜聡明。大日本国帝国による植民地時代の台湾に設置された
台北帝国大学の医学部薬理学の杜聡明は唯一の台湾人教授で、
京都大学に留学し台湾で初めて博士号を取得した医学博士であった。
杜聡明は、アヘンやモルヒネ、毒蛇等の研究に功績があり、
減量弁毒療法や尿検査法を確立、蛇毒成分からの
鎮痛剤抽出や、赤痢特効薬の開発者である。
母は、台湾五大家族と言われる名門、霧峰林家の一員である。
杜祖健も、毒性学および生物兵器・化学兵器の専門家として知られ、
松本サリン事件の際、アメリカ陸軍の土壌のサリン成分の分析法の資料を
警察庁科学警察研究所に渡し分析方法を指導するなど事件解明のきっかけを作った。
オウムのサリン製造の中心人物だった中川智正とも接見。
中川は杜祖健の論文をヒントにVXガスを製造したと証している。


混乱する警察。
そこに登場したのが、いわゆるBC兵器(Biological 生物兵器/Chemical 化学兵器)の専門家の
Tu博士 (杜 祖健)だった。

科学警察研究所の角田紀子所長からの依頼書

コロラド州立大学のTu博士は、
日本の「科学警察研究所」の角田紀子所長から、
サリンの検出方法を教えてほしいと依頼を受け一肌脱いだ。
「科学警察研究所」とは、国家公安委員会の特別機関たる警察庁の附属機関である。

Tu博士は、知人の生物兵器科学者を通じて、
アメリカ陸軍の化学兵器科学者に資料提供を求めた。
その翌日、1994年9月20日、アメリカ陸軍から32頁の資料がファックスで届いた。
そして、日本の警察は、翌日の1994年9月21日、
「土の検査によるサリンの検出方法を知った」のだ。

因みに、現在、内閣官房副長官および内閣人事局長の杉田和博
警備局長になったのは、1994年10月。
実際に捜査の指揮をとった杉田は後年BCテロ対策の必要性を語っている。
(杉田 講演)http://www.ja-nsrg.or.jp/forum2005-6/sugita18.pdf

1994年10月頭、警察は、アメリカ陸軍からの提供資料とTu博士の協力を得て、
山梨県上九一色村のオウム施設付近の土を採取し東京で検査した結果、
サリンの副生成物が検出された。
1994年7月にこのオウム施設では連続して異臭騒ぎがあったのだ。
この科学的証拠によって、松本サリン事件はオウムの犯行であることが証明された。

ところが、なぜか、警察は動かなかった。

1995年1月1日、読売新聞が、オウムの施設土壌から、
サリンの副生成物を検出したことをスクープ。
オウムは慌ててプラントを解体し、
急ごしらえの発砲スチロールの神殿を作るなどの偽装をした。

上九一色村のオウムプラント

麻原の命令でサリンは70トン製造を目標としていたが、
証拠隠滅のため日光の山中に廃棄した。
しかし、中川智正が処分しきれなかったサリンの中間物質を保持しており、
これが、地下鉄サリン事件で用いられたのである。

1995年3月20日、午前8時頃、
丸ノ内線、日比谷線、千代田線の地下鉄車内で、
サリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡。
負傷者数は約6,300人とされる。


アメリカのCAM(chemical agent monitor)    日本のCAMは、カナリア

地下鉄サリン事件の2日後の1995年3月22日、
全国のオウム施設計25箇所を家宅捜査。
自動小銃や、軍用ヘリ、
更にはサリンの製造過程で使用される薬品も発見された。
1995年3月30日、國松孝次警察庁長官が狙撃された。

なぜ、地下鉄サリン事件が起きる前に
警察は動かなかったのか❓

●Tu博士と中川智正死刑囚
Tu博士は、毒物の中でも最も強力と言われる蛇毒の第一人者として、
アメリカに招かれた科学者だ。
ソ連が暗殺に使う毒性の強いコブラ毒の研究を進めていることを恐れ、
アメリカも遅れをとるまいとしてTu博士を招いたのである。
危機管理とは、防衛だけに留まらず攻撃兵器の開発をも意味するはずだ。

台湾出身のTu博士は、流暢な日本語で、
にこやかに、毒物による「スパイの自殺」や「他国の元首の暗殺」の話をする。
誇らしげに「BC兵器によるオウム事件」の解明の成果を語る。
国際的な知識人、どこから見ても温和で気さくな人物に見えるのだが、
これが釈然としない。やはり、違和感を感じ、どうにも不気味で怖ろしい。
私たちが経験したオウム犯罪から受けたショックと被害者の恐怖と無念。
隠しようのないTu博士から滲み出る知的快感と興奮。
このアンバランスが心を騒つかせるのだ。

中川智正が死刑囚として収監され、
面会者は基本的に規則で定められている以外で接見できるのは、
CNAS の元米海軍長官のRichard Danzig氏と Tu博士だけなのだという。
CNAS とは ジャパンハンドラーのカート・キャンベルが設立した
安全保障問題を専門に扱うアメリカのシンクタンクだ。

カート・キャンベルは国務次官として、
鳩山政権時代に、首相の頭を超えて、
菅直人財務相、岡田克也外相と接触するという案を韓国の外相に指南し、
「鳩山を排除」のコンセンサスを共有させていた人物である。

驚いたことに、Tu博士は、
スライドを見せながら解説する日本での講演会で、
2009年旭日中綬章を受賞し胸に勲章をつけた自身の映像を映し出しながら
ジョーク交じりに、この時もらった賞状に
「鳩山由紀夫のサイン」があったとことについて
「あれは今までで一番ダメな総理だったね」と言って聴衆を笑わせていた。

鳩山由紀夫元総理は「友愛」をもって共存共栄をしていく
東アジア共同体構想を打ち出し、
田中角栄以来のアメリカの言いなりではない政策を掲げていた。
辺野古移設問題など、尽く外務省、防衛省などの官僚の謀略で内部から潰された。
偽のレク用レポートで鳩山をはめた売国官僚の背任は、未だに裁かれていない。
(背任官僚 顔出し記事→) https://ameblo.jp/et-eo/entry-12323177474.html
Tu博士にとっては、台湾独立を認めない中国(中華人民共和国)共産党との
「友愛」などあり得ないのだろう。

Tu博士(杜 祖健)の父の杜聡明も台湾の医学者だが、
杜聡明は医学校時代に、同窓生の翁俊明(ジュディ・オングの祖父)ともに
コレラ菌を用いて袁世凱を暗殺しようと試み失敗したのだという。
Tu博士の一族が、台湾を占領していたにもかかわらず、
明治の大日本帝国にシンパシーを感じていたのは、清(満州民族)を倒したからであり、
彼らは、台湾人としての 明 漢民族再興、打倒清朝というマインドをもっていたからなのだろう。


中川智正が獄中で作成した資料         中川とTu博士が共同論文を発表

Tu博士は、中川智正死刑囚が獄中で制作した
「オウムの化学兵器と薬物の製造表」の見事さを賞賛し、
化学兵器の専門家として評価し、
彼との接見に知的欲望を掻き立てられているようだった。

中川が、2017年2月北朝鮮の〈金正男氏の暗殺はvxガスによるものである〉ことを
マレーシア当局に先んじて一早く正確に指摘していたことなどからも、
Tu博士は、中川の知見に一目を置いていた。

2017年11月には、Tu博士と中川は、
金正男氏暗殺事件とオウム真理教事件で使われたvxについて考察する
共同論文を発表する
という。

Tu博士は、中川は、
一に、vxを開発し、
二に、オウムのvx中毒者を治療し、
三に、自分自身もサリンに手を浸し解毒剤で一命を取り留める
…という経験をした世界で唯一の医師であり、
この重要な知見は記録の残されるべきだと述べた。
要するに、vxの「人体実験」の微細なデータは、
中川の頭の中だけにある
ということだ。

確かに中川の証言や、書き上げた資料は、
後世の危機管理のための貴重な情報になるのだろうし、
中川ができるせめてもの贖罪かもしれない。

しかし、Tu博士の発想の中に一分も倫理を逸脱した欲望が
ないと言えるのだろうか?
日本の敗戦後、アメリカが731部隊の医師たちの戦争犯罪を免除し
資料提供を求めたことや、
原爆投下後の被災状況や被爆者のデータを収集したことに、
似ていはしないか?


Tu博士は、「警察がサリン検出技術を知り得た日付け」を正確に指摘し、
警察が松本サリン事件がオウムの犯行であるという科学的証拠をつかんでいながら、
即座に裁判所に令状をとらず家宅捜査が遅らせたことを厳しく批判した。
また、警察は「オウムの第七サティアンのサリンプラントの第5工程ある装置のうち、
第3、第4、第5工程からサリンの加水分解によって生成される化合物の
メチルホスホン酸が見つかった」と海外メディアに発表し、
住民の安心安全のためにとして、即座に第七サティアンを解体した。
Tu博士が面会し中川から得た証言とは食い違っていた。
中川は「第七サティアンの第4、第5の設備は使っていない」
「おそらく土壌から検出された残留物は土屋棟(土屋正美の実験室)から漏れたのだろう」
と言った。中川らは、読売のスクープで家宅捜査が迫っていることを知って
第七サティアンでサリンを製造する計画は未遂に終わったのだ。
中川の証言の方が筋が通っていて信憑性があるとTu博士は判断し、
「警察の第七サティアンでサリン製造が行われたという発表は虚偽だ」と批判したのだ。

しかし、Tu博士は、このように
警察のオウムのサリン化学兵器犯罪に対する
恣意的欺瞞的な捜査に疑義を呈していながら、
一方で、不思議な態度をとっていることがある。

Tu博士は、オウムの「麻薬」に関する犯罪については、
全く 無反応なのだ。

Tu博士の態度で見落としてはならない重要なことは、
中川のオウムでの任務のうち 「BC兵器」にのみ注目して語り、
「ドラッグ」に関しては、見事にスルーしている。

Tu博士が感銘を受けたという
中川が獄中で書き上げた資料(上 画像)には「化学兵器」だけでなく
「ドラッグ」の製造表が記されていたのに、
Tu博士はそこには、恣意的に触れていない。


Tu博士は、BC兵器の専門家であるから、
「麻薬」は興味の外かというと、そんなはずはない。
なぜなら、
Tu博士の父の杜聡明氏こそ、
台湾総督府で日本が行なっていた濡れ手に粟の
官制〈麻薬ビジネス〉の協力者だったからだ。

●日本統治下台湾の「アヘン漸禁政策」と杜聡明

日本が中国本土でも禁止運動が広がっていたことを知りながら、
台湾ではアヘンを禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し「医療用」に専売したのは、
「漸禁」の名によるアヘン許可の政策の本当の目的は、
まずは経済であったが、そればかりでなく植民地統治だった。
アヘンは、現地人をアヘン漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。

日本統治下の台湾でのアヘン問題は、
伊藤博文が、後藤新平の案「アヘン漸禁政策」を採用して始まった。
後藤新平の「漸禁政策」は、
建前としては、台湾ではアヘンが蔓延しており、一挙に全面禁止すれば大きな抵抗に合い
統治が上手くいかないだろうから、徐々に禁止に向けて行こうという政策だった。
台湾総督府は「台湾阿片令」を発令し、阿片はすべて政府の専売とし、
中毒者と認定された者だけアヘン吸引が許可するというものだったが、
実際は20以上すべて許可が与えられ、中毒者の救済や矯正処置はとられないまま
中毒患者は増加し、政府のアヘン収入は台湾財政収入の3割を占めた。
後藤新平はこの功績で1902年勲二等旭日章を授与された。
その後は許可料や代金があまりに高くなり、死亡者が増えたことで中毒患者は激減した。
これをもって、「アヘン漸禁政策」は、アヘン撲滅に成功したと言えるのか?

杜聡明は、日本に留学し京都大学で博士号を取り、
その後、台湾総督府医学校の教員になっていたが、
1925年12月、杜教授は官命を受けて欧米遊学の途についた。
翌年1926年6月、アメリカからさらに欧州に向かおうとしていた杜聡明に
7月5~9日フィラデルフィアで開かれる
「第1回国際麻薬教育会議」(The World Conference of Narcotic Education)に参加し
台湾の阿片矯正の成果を講演するように命じる上司から一通の電報が届き、
杜聡明は「台湾に於ける阿片問題」と題し台湾のアヘン中毒者の漸減状況を英語で講演した。
この会議での杜博士の講演内容は、概略次のようなものだった。
〜〜台湾では、モルヒネ、ヘロイン、 コカインなどはもはや問題でなくなった。
日本政府はこれらの麻薬の市場販売を防止したからである。
その 代わり、日本政府は完璧な専売制度をもち、
阿片特許登録者だけが医療機関監督の下で、購入することがで きる仕組みになっている。
例えば、1901 年台湾のアヘン中人口は5.7%であったが、
1924 年になると政府の 管理と制限によって1%に減少した〜〜
杜博士が当時ボルチモアのジョンス・ホプキンス大の医学教室に在籍していたのも幸いし、
唯一の東洋から来た講演者として好評を博し、
New York Timesは
「政府の麻薬販売を良策と主張す」「他に良策なし」という表題で大きく取り上げた。
これらの功績により、昭和43年(1968)、明治百年記念に、
日本に功労のあった外国人百名中唯一の台湾人として表彰された(勲二等瑞宝章)。

台湾の中国人社会の実情は、先住台湾人に阿片を売り付けることで成り立っていた。
一種の植民地型の経済支配がすでに成立しており、
上流層が暗黒街のボスであるという構図で、
日本の警察が暴力団と結ぶような形を台湾総督府もとっていたのである。
台湾で消費されていたアヘンは、ほとんどが輸入品だったので、
政府がアヘン輸入税を取りピンはねをし、
アヘンを政府の専売として、禁止税の意味で輸入税額に三倍の価格を加え、
阿片特許薬舗で、政府が発行の通帳持参した者に喫烟用として売ったのだ。

その後、政府は、日本国内でもアヘンの原料のケシの栽培を行わせていた。
二反長音蔵は後藤のバックアップで大阪の茨木でケシ栽培に成功し、
日本の満州・朝鮮・内蒙古などの占領地でのケシを栽培、アヘン製造の
技術指導に努めるとともにアヘン販売にも携わった。

因みに、星一(1873(明治6)–1951(昭和26))も
杉山茂丸の門下生であったことから知遇を得た後藤新平、伊藤博文らのバックアップで
アメリカ留学後、星製薬株式会社をおこしモルヒネやコカインなどの
アルカロイドの国産化を行った。
星は台湾の専売局から粗製モルヒネの払い下げを一手に引き受け、
また大財閥の三井物産と争って生阿片納入の権利を得た。
しかし後藤新平の政敵、加藤高明が政権に付くと後藤の資金源と見なされ、
妨害工作を受けたと言われている。
http://www1.kcn.ne.jp/~orio/main/hoshi.html

後藤ら日本の「阿片漸禁政策」は、
台湾から満州、蒙疆(内蒙古の日本の傀儡政権)、中国本土、東南アジアへと広がった。
これが軍部の収入源となっていたのである。
このピンはね収益は、医療関係どころか、
ほぼ公然と軍の占領地の行政費にまで当てられた。

【杜聡明 経歴】
明治26年(1893年)日本統治の2年前の清朝統治下、農家の三男として、
台湾淡水(現在の新北市淡水区)生まれた。
大正3年(1914)台湾総督府医学校主席で卒業、
大正4-10(1915ー1921)年年京都帝大賀屋内科研修(細菌学) 大阪血清学校で研究、
京大森島庫太薬物学教室(有機・無機化学、解析化学、物理化学)論文8篇。
大正11年(1922) 台湾総督府医学専門学校教授、医学博士(京大)。
大正14年(1925)総督府在外研究員:欧米へ2年半遊学、
第一回国際麻薬教育会議で「台湾に於ける阿片矯正制度の成果」発表。
昭和12年(1937年)台北帝大医学部薬物学主 任教授、高等官2等。
昭和14年(1939)日本薬理学第13回総会会長。
昭和17年叙勲:3等瑞宝章、高等官1等。
昭和43年(1968)(明治百年)勲二等瑞宝章。


【オウムの薬物の製造の状況】 (平成8年 警察白書より抜粋)
教団は、平成5年暮れから6年にかけ、偽名を用いて、都内の薬品会社からLSDの主原料である酒石酸エルゴタミンを購入したが、国内での大量入手が困難であったため、ロシアから入手することを企て、数キログラムを購入した。その他の薬物原材料は、教団が信者に設立させたダミー会社を通じるなどの方法により購入していた。
 その後、教団は、6年5月ころから、教団施設内において、LSDの製造を開始し、覚せい剤については、覚せい剤原料として規制されているエフェドリンを原料とする方法とは異なる特殊な製造方法を検討した上、6年6月上旬ころから製造に着手した。その他、幻覚作用を有するメスカリン、PCP(フェンシクリジン)や麻酔剤のチオペンタールナトリウムも製造したが、その後の捜索においては、LSD合計約115グラム、覚せい剤合計約227グラム、メスカリン合計約3キログラム、PCP合計約7.86グラム、チオペンタールナトリウム合計約1.7キログラムがそれぞれ教団施設内で押収された。

【岩上安身スクープ 早川ノート】
〈麻薬 武器 国際的犯罪組織オウムと北朝鮮が連携し朝鮮戦争の再開を目指した⁉️〉
〇早川紀代秀
早川紀代秀は、オウム組織の建設省大臣。オウムの階級制度の中では、正大師よりもヒエラルキーの低い正悟師であり、主にオウム施設の建設や用地買収を担当していたと自称している。
しかし、教団内の早川グループの実態はオウムの裏部隊とも言われ、早川は、北朝鮮からの麻薬密輸、また、科学技術省大臣の村井秀夫を中心として第7サティアンで覚せい剤が密造され、これを捌く販売ルートをもつ後藤組へと繋ぐ橋渡しの役目を担い、また、ロシアから武器密輸を行っていたと言われる。ロシアからの輸入兵器の中には「サリン」。また、早川は「核弾頭」の購入を画策、あるいは入手したとも疑われている。
岩上安身氏によってスクープされた『宝島30』96年6月号掲載の「早川ノート(オウム「11月戦争」の恐怖前編・後編)」に明らかに示されたように国際的に活動した実務派の教団の武器商人であったことは間違いない。そして、早川の動きはオウム事件が、単に狂信的な宗教団体による犯罪ではなく、国際的な組織犯罪のケースであるということを示唆している。早川ノートには、内乱の準備が綿々と綴られ東京壊滅のシナリオが記されている。彼らは国家転覆、神聖オウム帝国の樹立を目指してその計画の一部を実行したのである。 
教団がロシア進出を進めるなか、早川はオウム関連企業「世界統一通商産業」の社長として暗躍。表面化しているだけでも3年間で21回もロシアへ渡航していた。また北朝鮮には17回と足繁く渡航していたことも事実である。
オウムのモスクワ支部「露日大学」ばかりではなく、ウクライナに貿易会社『マハーポーシャ・ウクライナ』を設立し、兵器や高度情報・通信システムなどの輸出入窓口とした。そこはオウム服の信者ではなく、ロシア旧共産党幹部からロシアンマフィア、統一教会日本人信者、朝鮮語を話す人々、さまざまな人種が出入りし、会社の経営や専門的な業務は、日本人商社(芝興産(統一教会系)=ウクライナ大使館開設を仕切り在日ウクライナ大使館に自社ビルを無償で貸出した)が仕切っていたという。
旧ソ連崩壊後、駐日ロシア通商代表部に所属しながら密かにウクライナ通商代表部を名乗ってウクライナの利権話を持ち歩いた自称KGBのウクライナ人、ヴィタリー・H・マセンコは武器売買で暗躍していたが、早川は、マセンコとも幾度も合っていた。事件直後にはオウム事件の闇を知るキーパーソンとして、マセンコの消息を各メディアは追い求めたが、ある時点から全く報道できなくなった。
エリティン(在任: 1991年-1999年)政権下の汚職が瀰漫しているロシア側では捜査関係者に対して露骨な政治的な圧力がかけられ、1995年11月 ロシアでのオウム調査を率いた国会宗教問題 委員会の委員長ヴィタリー・サヴィトスキーは「自動車事故」で突然事故死を遂げる。暗殺が疑われている。
このような事例からも解るように、警察の国境を越える犯罪へ対応は手詰まりとなっている。
〇岩上氏は、1996年1月、米軍のミリタリー・インテリジェンスの専門家、ある在日米軍情報要員へのインタビューを行った。
その内容を要約すると~オウムのテロは、北朝鮮と連携して行われ、これは、東アジアのパワーバランスを崩して北朝鮮が韓国への軍事行動を起こすための作戦である。と言う。つまり、日本でテロのような有事の際に在日米軍のダメージを補うために在韓米軍が出動してこれを補い、韓国の防衛が手薄になった隙を狙って、北朝鮮軍が南下し韓国を制圧するというシナリオであるという指摘であった。




ーーーーーーー

②につづく…