アトムの涙 ~ぼくのアトムじゃない | ☆Dancing the Dream ☆

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今日は、アトムの誕生日。
アトムは、4月7日に生まれました。

天馬博士の息子、飛雄(トビオ)が交通事故にあって亡くなった年に
アトムは生まれた。・・ということになっていますが、

2013年4月7日 小学館ゴールデンコミックス
2003年4月7日 朝日ソノラマサンコミックス
2003年4月7日 講談社全集

アトムの誕生年には2003年、2013年二つの説があるんですね~







造形作家 荒木博志(あらき ひろし)氏の伝説の傑作。
永遠に眠り続ける美しき等身 大の鉄腕アトム「ASTRO BOY」(1997年作)
アンプとして使用できるれっきとしたオーディオ機器でもある。


もう10年ほど前になるでしょうか・・
知り合いの作家の展覧会を見に、青山の「ビリケンギャラリー」に行った折、
荒木博志さんの、眠れるアトム『ASTRO BOY』を見ることができました。

不思議なきもちで、アトムの伏せられた睫毛が
今にも震えるのではないかと、見つめました。

今は、北原照久さんの「箱根トイミュージアム」所蔵されているそうですが、
あどけない寝顔の瞼の裏で、どんな夢を見ているのでしょう?

幼い日の思い出のアトムは、
手塚さんの描いた未来への警鐘の物語。
そして、その未来の時代を私たちは今生きています。










鉄腕アトム主題歌(作詞:谷川俊太郎)の歌詞

空を超えて ラララ 星の彼方
ゆくぞ アトム ジェットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム 十万馬力だ 鉄腕アトム

耳をすませ ラララ 目をみはれ
そうだ アトム 油断をするな
心正しい ラララ 科学の子
七つの威力さ 鉄腕アトム 七つの威力さ 鉄腕アトム

街角に ラララ 海のそこに
今日も アトム 人間まもって
心はずむ ラララ 科学の子
みんなの友だち 鉄腕アトム みんなの友だち 鉄腕アトム

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【アトムの涙 手塚治虫が込めた思い<上>(東京新聞)】 

◆「僕のアトムじゃない」

1963年1月1日午後6時15分、国産初の30分アニメーションシリーズ「鉄腕アトム」の第1回が放送された。ウォルト・ディズニーに憧れた原作者の手塚治虫の悲願がかなった瞬間だった。

アニメ作品があふれる現在の感覚で当時の爆発的ブームを想像するのは難しい。
何しろテレビでやっている連続アニメがそれしかなかったのだ。

「心やさし ラララ 科学の子」─。日本を代表する詩人、谷川俊太郎(81)作詞の主題歌にのって繰り返し放送されたアトムは、子どもの人気者から、国民的アイドルになった。

だが、これによって本人の予期しないことが起きる。
長女の手塚るみ子(48)が言う。

「放送以降、アニメのイメージでこの作品が語られることが多くなり、
それは父にとって、とても不本意なことだったんです」

正義のスーパーロボット、科学万能、明るい未来社会…。今も多くの人がこの作品に抱くイメージは、こんなところだろう。しかし、手塚が自ら握るペンで描いた漫画原作を読めば、物語の世界観はそのような単純なものではない。

「図説鉄腕アトム」の著者で手塚プロダクション資料室長の森晴路(60)は
「科学礼賛などではなく、むしろ科学万能社会への懐疑といった深遠なテーマが流れている」と話す。

代表作といわれる「アトム」に対して、
手塚は89年に亡くなるまで、複雑な思いを抱いていたという。
手塚プロ社長の松谷孝征(68)は「あれは僕のアトムじゃない」と突き放す手塚の冷たい声を聞いている。

「アニメは限られた時間枠に物語を収める必要がある。
協賛企業やテレビ局の意向も入れざるを得ない。
作者の意図と離れていってしまうことがあるんです」

草創期から活躍するアニメーター鈴木伸一(79)は、
大掛かりになるアニメ制作の難しさをそう解説する。
鈴木は当時、手塚から頼まれ、石ノ森章太郎、藤子不二雄らとともに
第34話「ミドロが沼」を制作した。

「鉄腕アトム」をめぐり、手塚が感じていた世間とのすれ違い。
その溝を象徴するかのような出来事が77年に起きた。
原子力発電のPRにアトムが使われた“事件”である。(文中敬称略)

 ×  ×

アニメ放送から50周年を迎えた「鉄腕アトム」。
漫画家手塚治虫さんは、原発PRにまで利用されたヒーローに、
ある種の悲しみを感じていた。
手塚さんの思いに迫る。

東京新聞 2013/4/17 
 

【アトムの涙 手塚治虫が込めた思い<中>(東京新聞)

◆描いた覚えない冊子

手塚治虫のキャラクター「鉄腕アトム」が原子力発電所をPRする冊子「アトムジャングルへ行く」は、現在は既に解散している「漫画社」という広告企画会社が、1977年に刊行した。

漫画社社長を務めた樋口信(75)によると、
冊子は電気事業連合会を通じて全国の電力会社に納入された。
当時の報道では、東京電力福島原発のPR館でも無料配布されたという。
翌年には、続編「よみがえるジャングルの歌声」も作られた。

物語は、寒さで凍える動物を救おうと、アトムが動物と力を合わせてジャングルに原発を造る。続編は、やがてきた地震と津波に原発はびくともせず「安全でした」といって終わる。

「手塚さんがこんなことしていたら漫画界の恥だと思い、
真意をただそうと押し掛けたんです。」
編集者の才谷遼(60)は続編を目にして驚き、パーティー会場にいた手塚を訪ね、取材を敢行した。88年6月のことだ。
多忙でいつもはすぐ消えてしまう手塚が「大切な問題だから」と
時間をつくってくれた。

取材に対し、手塚は「描いた覚えないの。許可した覚えもない」と冊子への関与を否定した。
さらに「僕も原発に反対です。はっきりそう書いてください」と
写真撮影用に「原発反対のポーズ」までとってくれた。

手塚はこのインタビューの約8カ月後、胃がんで亡くなった。
才谷はこの取材結果を、原発をテーマに編集した本「図説危険な話」で発表した。

マネジャーだった手塚プロダクション社長の松谷孝征(68)によると、
手塚のもとには生前、電力各社から「PRに使わせてほしい」という依頼が
何度もきていたが、そのたびに断っていた。

「原発PRにアトムを利用しようとするのは間違っている」と話すのは、
漫画評論家で同志社大教授の竹内オサム(61)。
「原作を読まず、上っ面のイメージだけで頼みにくるんでしょうね」

樋口は「手塚プロの承諾は受けているはず」と無断使用を否定するが、
松谷は「もしそうならチェックのための原稿が上がってくるはずなのに、
私はそれを一度も見たことがない」としている。(文中敬称略)

東京新聞 2013/4/18
 
 
【アトムの涙 手塚治虫が込めた思い<下>(東京新聞)

◆科学とエゴのはざまで

東京電力福島第一原発事故の後、
インターネットの掲示板などに「鉄腕アトム」への批判的な意見が相次いだ。
多くは「原発のイメージアップに加担しているのではないか」という書き込みだ。

手塚治虫の長女るみ子(48)は不安に駆られ、何度も声を上げそうになったが、
そのたびにファンが反論して“疑惑”を打ち消してくれた。

おかげで今はそんな批判も、冷静に受け止められるようになった。
「あらためて原作を読み、真意をくみ取るきっかけにしてほしい」

有名なアトム誕生のエピソードからして「父の思いがよく出ている」とるみ子は言う。
わが子を失った天馬博士が悲しみのあまり、息子そっくりのロボット、アトムをつくる。
博士は最初は喜んでかわいがるが、成長しないアトムにいらだち、
ついに追い出してしまう…。

「幸福のためにあるはずの科学技術が、人のエゴや欲でゆがめられてしまう。
アトムはいつもそのはざまで悩んでいるんです」

手塚は1985年夏、東京・西新宿で開催した「手塚治虫漫画40年展」で
1枚の風刺漫画を展示した。

米国が行った核実験で被ばくした「第五福竜丸」が海に浮かんでいる。
アトムに向かって「この原子力ロボットめ、死の灰を降らせるな!」と叫ぶ村人たち。
涙を浮かべたアトムに、手塚はこうつぶやかせている。
「ボクは正義の味方だと思っていたのになあ」

「アドルフに告ぐ」 「グリンゴ」など手塚は後年、社会派の作品を残した。
時流に敏感な手塚が生きていたら、原発事故から着想を得て、シリアスな人間ドラマを描いたに違いない。

「なのはな」 「プルート夫人」など、福島の事故後、原発をテーマにした作品を
次々に発表した漫画家の萩尾望都(63)は、
「鉄腕アトム」が原発と関連づけて語られることにやるせなさを感じ、
こんな「アトム最終回」のあらすじを考えた。

原発の事故直後、アトム、コバルトの兄弟と妹ウランが一緒に、
放射性物質の除染のために福島に向かう。
3人は発電所内で除染を終えた後、壊れて動かなくなる…。

「その物語を、いつか私に描かせてほしい。
(福島の現状を見て)手塚先生は、きっと許してくださると思うんです」(文中敬称s略)

東京新聞 2013/4/19