エルトン·ジョン -スカイラインピジョン(ライアン·ホワイト君のお葬式にて)1990年
エルトン・ジョンこと、レジナルド・ケネス・ドワイト(1947年生)は、
4歳からピアノを弾き始め、その音楽的才能は、顕著にずば抜けており、
神童と言われていました。
10代になるとバンドを組み、ある日、イギリスの音楽週刊誌、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載っていたミュージシャン募集広告に応募しました。
そして、同じく応募してきた、後に生涯の音楽づくりのパートナーとなる
詩作の天才バニー・トーピン少年と出会うのです。
やがて、二人は揃って1968年、DJMレコードにソング・ライターとして入社。
デビューは『Empty Sky (エルトン・ジョンの肖像)―1969年』です。
エルトンが、ライアン君への追悼として捧げた上の曲は、このデビューアルバムの中の
一曲なんですね。
68、9年と言えば、ちょうどマイケルもモータウンでのキャリアを
スタートしようとしていた頃ですね。
マイケルとエルトンは約10歳の年の差、それぞれ英国と米国からですが、
ほぼ同じ時期に、二人はデビューしたのですね。

そして、約20年後・・
彼らを結びつけたのは、マイケルと80年代前半頃に出会って以来、
永く友情を築いたエリザベステーラーさんと言えるのではないでしょうか。
心ある人は、心ある人をつないでいくことになるのです。
純粋な愛の旗をしっかりと心に立てた稀に見る一人の少年へと・・・。。
彼女は、ごく早期に、マイノリティへの差別問題を人道的信念をもって、
訴え続けた人でした。
エリザベスは、モンゴメリー・クリフトやロック・ハドソン、ジェームズ・ディーンら、映画で共演した俳優たちと深い友情を結び、ゲイまたは、バイセクシュアルである彼らの
数少ない理解者だったのです。彼女自身も、暴力的な父とステージマザーに苦しめられた子供時代を乗り越えようとしてきたサバイバーだったのですから。
1956年、エリザベスは、モンゴメリー・クリフトが、彼女の自宅でのパーティからの帰り、車を大木に激突させ大怪我を負って血まみれの彼を抱き続けたといいます。
彼は、一命を取りとめ、負傷した顔面の整形手術をするも、筋肉の一部が動かなくなってしまい、以前の甘いマスクは戻らず、仕事が減り、失意のうちに亡くなります。
エリザベスは、葬儀で「彼は私の兄であり、私のいちばん愛した人」と述べたそうです。
また、彼女は、1985年に59歳でエイズで亡くなったロック・ハドソンをずっと変わらぬ友情で支えました。彼は、感染後、自分の真の姿を知ってもらいたいと同性愛者であることを公にした初めての映画人になりました。
エリザベスは、彼の死後、エイズ対策に乗り出すこととなるのです。
1955年に24歳で早世したジェームスディーンとは、遺作となった「ジャイアンツ」の撮影中、夜更かしして話し込み、生い立ちの苦悩に寄り添いました。彼は、母親の死後、牧師の性的虐待を受けていたことを彼女に打ち明けたということです。
このエリザベスのコメントは、彼女が死ぬまでオフレコにすることが約束され、2011年、79歳で彼女が亡くなるまで封印されていた話です。
1991年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートの会場にも足を運び、
彼への心ある追悼とエイズについてのメッセージを述べました。
ロック・ハドソンが亡くなったアメリカでは、エイズは見つかって数年しか経っておらず、エイズ患者は偏見と差別に苦しんでしました。彼女は、マチルド・クリム博士を中心とする少数の医学者とともに「米国エイズ研究財団am FAR」を創立し、アメリカ政府に対してエイズ研究の促進とHIV感染者、エイズ患者の支援を訴え、自らも援助資金調達のために奔走したのです。
このam FARのキャンペーンに協力し、ポスターになったのが、
あの「ライアン君」なのですね。
ライアン君は生後6日にして、血友病であることがわかり、血液製剤の輸血治療を受け、13歳の時に汚染血液製剤からエイズに感染し、学校を追われるなどの差別を受けますが、自らエイズ撲滅の広報活動に広く携わった少年でした。
彼は、マイケルジャクソンの大ファンでしたが、エルトンのファンでもありました。
彼は、「グッド・モーニング・オブ・アメリカ」にゲスト出演し、会いたい人は?と聞かれ、「エルトン・ジョン」と答えました。
たまたま番組を観ていたエルトンはライアンのことを知り、すぐさま、amFARに出席できなかったことを謝罪する電話をライアンにしたことから交流が始まり、大切な友人になりました。
エルトン・ジョンは、ライアンがエイズで学校を追われたことに対する裁判で勝利した1986年頃から彼が亡くなるまで約5年間の付き合いでした。
エルトンもマイケルも最期の最期までライアンに付き添っていました。
彼らは、ライアンのよき理解者でした。
1990年、マイケルのジャケットに包まれて天国に旅立ったライアン君に、
エルトンは手紙を書きました。
親愛なるライアン、
私たちが初めて会った時のことを、とてもよく覚えています。恐ろしい病気にかかった若い男の子、けれどあなたは素晴らしさの典型でした。
あなたは、自分の体と、その苦悩をもたらした病気と、あなたが受けた汚名に対し誰をも決して非難しませんでした。
コミュニティの学生、先生があなたと両親を避けて、脅して、学校から追い出したとき、あなたは憎しみの言葉でなくあなたの年齢より以上に、わかる言葉で応えました。あなたは、彼らは単に彼らがエイズについて知らなかった、だから怖かったのだと言いました。
輸血を通してエイズになったことで、メディアが「罪のない犠牲者」としてあなたのことを報道したとき、あなたはそのレッテルを拒絶して、何千ものHIV陽性の女性と男性との連帯において代表となりました。あなたは、エイズのすべての犠牲者が無実であるとアメリカに思い出させました。
あなたが有名人になったとき、たとえあなたの唯一の願望が普通の人生を送ることにだったにもかかわらず、あなたはエイズ流行について国を教育する機会を受け入れました。
ライアン、私はあなたが世界を1990年以降、あなたがどんなにそれを変えたかわかっていることだろうか、知っているだろうかと思います。
HIV感染者の若い少年と少女は、学校に通って、彼らが通常の生活を送るための薬を飲みます。アメリカの子供たちは輸血を通してもはやその病気にかかりません。あなたが苦しんだ侮辱と不正は、現在の社会ではもう大目には見られません。
ライアン、最も重要なことはあなたは、奮い立たせました。そして、それはエイズからの救命の処置に通じていきました。
1990年、あなたが死んだ4か月後に、議会はライアン・ホワイトCare条例を可決しました。そして、それは現在毎年20億ドル以上をエイズ医療と50万人のアメリカ人の治療に提供します。
それにより今日、HIVの無数の人々は、長い、意味のある人生を送ることができうるのです。
あなたが彼らのうちの1人でないことは、私の心を悲しませます。
あなたが死んだとき、あなたは18歳でした。
そして、あなたが病気だったとき現在の処置が存在しさえすれば、あなたは今年38歳であるでしょう。それについてアメリカがあなたに深い同情と思いやりのメッセージを示してくれることが重要だと思う、そして私は毎日これについて考えます。
ライアン、あなたが生きていたとき、あなたの話はエイズについて国家の話し合いを起こさせました。しかし、過去20年におけるすべての進歩にもかかわらず、対話は弱まりました。
私はあなたが今日ここにいるならば、あなたがそれを復活させようとしているだろうということを知っています。
そのとき、5万人以上の新しい感染症が毎年アメリカ合衆国にあって、流行はほとんどすべての人口統計学のグループに球を投げ続けます。
私は、あなたがオバマ大統領によって約束されたが、まだ成立していな国立HIV/エイズ戦略を大きく要求しているだろうということを知っています。
私は、あなたが若者と交流し接触しようとするだろうということを知っています。私は、あなたが社会のはずれに住んでいる貧しい人々を含むHIVで苦しんでいる誰でも、助けるために疲れを知らずに働くだろうということを知っています。
今日、アメリカ合衆国の特定の地域において、エイズの一部の貧しい人々が処置を受けるための待機者リストにまだ置かれていることは、あなたを悲しませることでしょう。
あなたの政府が、異性に活発なティーンエイジャーを含む、ウイルスに感染する危険性が高いHIV予備軍の人々と、弱い人々を手伝うために十分にまだ達していないことは、あなたを怒らせます。エイズがアフリカ系アメリカ人の主要な死因であることは、あなたを動揺させてしまうでしょう。
病気にかかっているかもしれないアメリカ人が恥ずかしさで診察をしないことも、感染を増大させる上、何十万人ものHIV陽性のアメリカ人があなたの名前で治療を受けているとしても、20万人以上が彼ら自身のHIV陽性の可能性を知らないことはあなたを失望させるでしょう。
新しい感染症の半分が25歳以下の人々であると考えられています。それなのに、多くのティーンエイジャーが学校の化学的ベースのHIV予防策プログラムにアクセスしないことはあなたを失望させます。
ライアン、私はとてもとてもあなたがいなくて寂しいです。あなたがライリー病院で死んだとき、私はあなたのそばにいました。
以来毎日あなたといます。あなたは、私を、私の人生を変えて、あなたがしていた仕事をやり続ける気にさせました。あなたのためでもあり、20年後の今も私はまだエイズに対して闘い続けています。
我々があなたがとても勇敢に、そして、美しく戦った深い思いやりの思いを達成するまで、私は休まないと誓います。
あなたの友人、
エルトン
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ライアン君との交流、そして彼の死は、エルトンにとって大きな転機となりました。
エルトンジョンは、ライアン君をはじめ、1980年代暮れから1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くしていたのです。
そして、ライアン君をサポートしていた80年代後半、エルトンは深刻な薬物中毒とアルコール依存に悩まされ、自殺未遂を繰り返していたそうです。
そして、エルトンは決心をします。
「何かしなきゃならないと思ったんだ。僕はそれまでいつもネガティブ思考で、
自己嫌悪に陥っていた。でも思ったんだ。ありとあらゆるものを手にしていて、
何が不満なんだ?どうして人生に否定的なんだ?って。
理由はただひとつ、ドラッグだった。
ドラッグをやっているともっと欲しくなって、最悪な気分になって、
人生そのものが悲惨になる。人生が嘘と欺瞞に満ちてしまう・・・
決心したんだ。この状態から抜け出せたら、他人のために生きようって。
僕にもポジティブなことができるってことを証明したかったんだ」
そして、1990年、エルトンは、ドラッグとアルコールから完全に決別するため、薬物とアルコール依存の更正施設に入所し徹底的な治療を行いました。
施設を出て心身ともにクリーンになったエルトンは、明らかに以前よりも力強く、前向きな姿勢で音楽のみならず社会活動に取り組むようになりました。
1991年にフレディがHIVで急死した際も追悼コンサートに、エリザベスと同じく、エルトンも駆け付けたのでした。
1992年以降シングルの全収益を自ら設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」に寄付するようになったのです。
つづく・・・