アブラハムは神様の約束:「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」を信じ、義と認められました。しかしアブラハムが85歳の時、妻のサラは75歳で、彼女は夫から約束を聞いていても、人間的常識で自分が子を産める年齢ではないと判断し、当時の慣習に従って、自身の奴隷ハガルを通して、アブラハムの子供を産ませることを提案しました。そしてアブラハムもそれを承諾し、ハガルは妊娠しましたが、そのことでサラより優位に立とうとしたため(軽んじたため)、サラはそれを夫に「あなたのせいです…主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」と訴えました。
アブラハムとサラは神様の約束がなかなか成就しないため、人間的判断にて(当時の法的規定に従って)自分たちで行動をおこしました。その判断がアブラハム、サラ、ハガルの立場を複雑にし、さらに今後の民族の対立にまで発展するとは誰が想像できたでしょうか。彼らは神様のタイミングを待つことができなかったのですが、私たちはアブラハムの失敗を簡単に反面教師として受け取れない弱さを持つ者です。高ぶるハガルも悪いという見方もありますが、奴隷という立場で主人に従うしかないハガルが気の毒です。そもそも奴隷制度自体が神様の創造された人間の関係に反するもので、人が人を所有し意のままに取り扱うことはあってはならないと言えます。現代社会でも様々な人間関係があります。親子関係、友人関係、職場の上司と部下、夫婦関係、教会の信徒と牧師。どんな立場であっても、他者を支配したり、見下げたり、自分を高めて高慢になるのは罪であると言えます。もちろん、子が親を敬って従ううことや、組織上でのリーダーシップに従うという面は秩序として必要ですし、神様は秩序を軽んじられる方ではないことは聖書で示されています。それを前提とし、各々神様から与えられた役割があるとしつつ、パウロは「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」*といっていることを、心に留める必要があると思います。
ハガルはサラから辛く当たられて、耐えきれなくて荒れ野へ逃げます。誰も彼女を心配して追いかけてくる人はいません。アブラハムも、サラの「好きなようにするがよい」と見捨てます。しかし、神様はハガルの苦悩とこの先どうしたらよいかもわからない状態を知り、主の御使いを通して声を掛けられました。主の御使いはハガルに「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と言われました。ハガルは奴隷の自分を誰も大切に扱ってくれない、見捨てられた者と思っていたのに、自分のことを見ていて下さる神の存在を知り、励まされ、その神の言葉を信じて、虐げられるのを覚悟でサラのもとに戻っていったのではないでしょうか。神様はご計画における約束の子ではないとしても、アブラハムとサラの不信仰ゆえに苦しみを受けたハガルとその子イシュマエル(「神、聞かれる」の意)のことを一つの民族として祝福して下さる、情け深い、愛の方であると思わされます。こうしてハガルは砕かれた時に初めて、主を知るようになりました。ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」と言いました。私たちも、私たち一人一人を愛し、顧みてくださる方の御名を呼び(礼拝し)、イエス・キリストの十字架に示される、神様の深い愛に感謝しつつ、全てをより頼んでいきたいと思います。そして、アブラハムが86歳の時に、ハガルはイシュマエルを出産します。
*「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」ローマの信徒への手紙12章9-10節