2025年3月31日 聖書箇所 ヨハネによる福音書6章22-40節
〇わたしがいのちのパン
本日の箇所は、イエス様が5千人に給食をされた後、湖の向こう岸カファルナウムに行かれた時のことです。群衆は舟にのってイエス様を追いかけてきましたが、彼らはイエス様が舟に乗ったところを見ていないため、どうやって湖の向こう岸に来たのか不思議に思いつつイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と尋ねます。イエス様が湖上を歩行してきて、途中で弟子たちの舟に乗り込んだことは、弟子達だけが知っていたからです。しかしイエス様はその質問に答えず、群衆がイエス様を捜している理由(もっと働かずして与えられるパンを食べて満腹したい、メシアなら奇跡で物質的な欲求を満たしてほしい)を伝えます。
その上で、イエス様は群衆に様々な表現で、ご自身を信じ、永遠の命を得ることを教えておられます。まず27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」「父である神が人の子を認証されたから」と。それに対し、群衆は人の子がイエス様のことを指しているのもわからず、「働く」という言葉をとらえ、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねます。そして、イエス様は働くとは何か神の業を行うとか、何かすることではなく、神がお遣わしになった者、つまりイエス様を信じることが神の業であると言われました(29節)。
しかし群衆は、モーセの時代のマナの奇跡(出16章)に結びつけ、信じるためには更なるしるしを見せてくれと要求します。結局群衆は、何度奇跡をみても、イエス様を信じないのです。信じるためではなく、今自分の肉の欲求を満たして、働かなくともパンを与え、ローマ帝国からの従属から解放する政治的メシア救い主を求めているだけだからです。イエス様が霊的な話をしても、聞いても悟らない状態であるというのは悲しいことです。それでもイエス様は何度も繰り返されます。イエス様はわたしの父、つまり神様が現在、天からのまことのパンを与え、世に命を与えると言われ、神のパンは天から降ってくる(32-33節)、そしてご自身について「わたしが命のパンである」(35節)と言われました。
つまり永遠の命をえるために唯一することは、神様が遣わされた、天からの下ってきた命のパンである、イエス様を信じることです。ヨハネ福音書では、イエス・キリストのことを、言(ことば)と示しています。「はじめに言があった」(1:1)言であるイエス様が、わたしたちが生きる上で必要な命のパンであります。イエス様は荒野で「石をパンにかえろ」との悪魔の誘惑を受けた時、「ひとはパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と申命記8:3を引用していわれました。ヨハネの福音書では5千人の人にパンを与えた奇跡の出来事とつなげて、イエス様がいのちのパンであることを示されています。私たちは御言葉で養われて生きる存在であることを覚えていたいと思います。
〇信仰は神の賜物
次に37節「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 」とイエス様は言われました。父が私にお与えるになるとはどういう意味でしょうか。
イエス様を信じるかどうかは個人の応答という面がありますが、「父がわたしに与えて下さった人は皆、私のところに来る」37節とで言われていますように、父なる神様がイエス様に信じる人をお与えになるという意味です。なぜなら、6:44に「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることは出来ない」と言われているからです。神様が救いへと人を引き寄せて下さり、イエス様のところに来る、つまり信じるに至るということになります。そして、イエス様のところに来る人を、イエス様は決して追い出さないと言ってくださいます。つまり信じるという信仰さえも、神様の恩寵、恵みにより与えられ、信じた後もイエス様はわたしたちを見捨てないと示されているのは幸いです。
私たちは自分の意思や決断で信仰を持ったと思いがちですが、私たちを救おうと父なる神様が引き寄せてくださり、私たちはイエス様のところへ行き、信じるようになるということがここでわかります。エフェソの信徒への手紙2章8-9節)でも記されています。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。 」
信仰は自らの力で得たのではなく、神様から恵により与えられるとパウロは記しているとおりです。
〇神の御心
私たちは生活の中でよく、「御心ならば」という言葉を使いがちですが、神の御心とは何でしょうか。イエス様は全ての人に当てはまる神の御心とは何かを、ここではっきりおっしゃっています。
38-40節「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
神様がイエス様をこの世にお遣わしになった、派遣されたということが、ヨハネの福音書では何度かでてきますように、イエス様は神様の御心、意思を行うために遣わされた方であり、遣わされた方の御心・意思を行うために天から降ってこられました。そして神様の御心とは、イエス様を見て、信じる者が永遠の命を得て、終わりの日にイエス様が、信じる者を復活させることだとはっきり言われています。
究極の神の御心は私たちの人生で何があろうと、具体的には早くに召されるか、長寿を全うするか、何の仕事をするか、どんな病になろうとも、神様の御心は、終わりの日に私たちを復活させることであるということです。これが神様の御心であるという大きな視点wお理解しつつ、自分の願いや思いを神様に委ねて祈っていきたいと思います。
そして復活の体はどんなふうだろうと疑問に思う時、イエス様がそのことについてサドカイ派の人から質問されて言われています。復活の体は、めとったり嫁いだりしない(つまり結婚はない)、「天使のようになるのだ」と(マタイ22章30節)とイエス様は言われています。またパウロは1コリント15:42-49で復活の体は、朽ちない者に復活し、輝かしい、力強いものへと復活する、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活すると説明しています。復活の体については限られた情報しか聖書に記されていないですが、わかることはこの今の体とは全く違うということです。このように終わりの日に、新しい体へと復活し、永遠に神様とキリストと共に生きるという将来の保証が私たちの希望であり、今の世に生きる上での慰めとなります。
ヨハネ6章47-51節に「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
天から降ってきた生きたパンを食べるとはイエス様を信じることです。イエス様を信じれば、永遠の命が与えられます。イエス様は繰り返し、私を信じなさいと言われます。私たちの心の状態がどうであれ、イエス様のもとに行き、イエス様を信じる者は、決して見放されないと言ってくださることは大きな慰めであり励ましです。私たちはいつも信仰深くいれない弱いものだからです。そして私たちの内側には聖霊が与えられ、信仰を持ち続けられるように助けてくださり、祈りもとりなしてくださることは幸いです。私たちが御子イエス様を信じ、復活の体が与えられるという将来の希望を持ちつつ、今現在、私たちは永遠に命を既に与えられていることを覚えていたいと思います。その命は御子イエス様を通して持ち続けることができます。永遠の命を歩むとは、いのちのパンのみことばを味わい、イエス様に従って神様の愛で日々歩むことであり、私たちは御霊に導かれ、安心して全てのことを神様に委ねていきたいと願います。(引用 新共同訳聖書)