好意をよせられる | ester-chanのブログ

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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 私たちの住む町は「益子焼」という陶器で有名で、観光客の方々が週末や陶器市開催時に来られます。先日も私の友人が遠くから訪問して下さり、町を案内した後カフェでお茶をしました。そのお店を出る時にお店のオーナーと立ち話で、益子には10年前にご夫婦で移住しお店を始めたと言われていました。「いつから益子に?」と質問され、私たちが益子教会に5年前に移住したことを話すと「この町に教会があるんですか?教会の建物とか素敵ですよね、東京に住んでいた時近所に教会がありました。今度行ってみようかしら」と言って下さったので、名刺をお渡しし、いつでもお立ち寄り下さいと伝えました。まだまだ、町の人々の間で教会の認知度が低いのですが、教会が気軽に立ち寄れる場所として、何かの集いの場所として利用されるようになり、「教会さん」と好意を持たれるようになればと願います。

 下記の聖書の箇所は、キリスト教の教会が出来たばかりの頃の、教会堂という建物もなく、個人の家に集まって礼拝していたイエス・キリストを信じる共同体の様子が記されています。まだ初期キリスト教がユダヤ教から分かれていない時で、従来通りユダヤ教の神殿に参っており、地域の同胞の人々から好意を寄せられていたことがわかります。そして、「主は救われる人びとを日々仲間に加え」られたとありますので、主イエス・キリストが教会に仲間を送って下さり、そしてその共同体は心を一つにして、パンを裂き(聖餐式)、礼拝し、食事を共にしていたようです。教会とはそもそも神様に呼ばれた人々が集まる共同体(エクレシア)であり、神様を礼拝し、聖書の言葉が語られ、イエス様がするように言われた「パン裂き」をするところであると改めて思わされます。

 その後教会では、どうやって人々にキリストの福音を伝えていくかと宣教の方法が話し合われてきています。教会が教会内の活動だけでなく、社会とどう関わっていくべきか、社会的活動、慈善的活動、文化センター的活動を通してなのかと、各教会の歴史や地域性、時代の要望を考慮して模索されていることでしょう。いずれにしても、教会が教会外の人から好意を持たれるのは大切なことだと思います。一方で、将来、信仰を貫くこと自体が地域社会から「好意」ではなく、「敵対される」迫害の時代が再び来るかもしれません。しかし、聖書の使徒言行録を読みますと、迫害されて散らされても、その散らされた場所でキリストの福音が普通の人々によって(必ずしも伝道者とか牧師によるだけではなく)伝えられ、信じる人々が仲間に加えられ、教会が広がっていくという現象が記されています。つまり、人間の計画、計算や予測を超えたところに聖霊が働かれ、信じる人が起こされて教会に加えられていくことは神様の御業であり、人の功績や力ではなく、神様の恵みです。このように基本的に伝道は神様が主導の業ではありますが、その活動に私たちを参与させて下さり、欠けのある人間の私たちを用いて、神様の宣教の業をなさるということに「神様は素晴らしいなあ」と、ますます感謝と礼拝を捧げていきたいと思います。

「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」 使徒言行録2章46-47節 (引用 新共同訳聖書)