吉弘左近太夫鎮信
祖父は左近太夫氏直、父は伊予守鑑理、弟は弥七郎鎮理、のちの高橋鎮種~入道して紹運
息子は 嘉兵衛統幸
いずれも武辺を以て知られた猛将一族である。
そのなかでもかれは、地味である。あまり知られていないのではないか。
博多代官、あるいは立花山城督時代に大内氏の一族・左衛門尉輝弘を見い出したといわれる。しかし左衛門尉は父の代から豊後にいたとされ創作と思えるが、そういう話が出るくらい博多との関わりが深かったと考えられないだろうか。
直後の毛利を九州から駆逐した立花山城の戦い~多々良浜の戦いでは華々しい活躍をしている。
しかしながら地味なイメージがついてまわるのは、周りの一族があまりに派手すぎるからであろうか…少々可哀想。
博多代官などの文官的役割も与えられていたからではないか…と思っている。猛将一族のなかの能吏、という気がしている。
父親・伊予守の功績を考えれば日向・高城攻めの総大将でもおかしくないが、そうはなっておらず、負け戦の上戦死したことがかれの武辺としての評価を下げているのであろうか。
だが、息子の嘉兵衛統幸の見事な生きざまを見ると、オヤジである彼もまた吉弘一族に恥じないひとであっただろう。