立花左近将監宗茂 (高橋統虎) の実父、高橋紹運のことに触れる前に、かれの出身一族である
『吉弘』 家について語らねばならぬと思っている。
系図を書けば
大友 能直__親秀__(大友宗家)
|_田原 泰広__(田原宗家)
|_(九代)_吉弘 氏直_鑑理__鎮信__統幸
|_鎮理(高橋鎮種)_統虎(立花宗茂)
という具合になるのか。わかりづらいが、このうち右下の右から二人めが 高橋紹運である。
田原 (たわら) 氏は、南北朝時代においては大友支族ながら足利将軍家から特別に感状を受けるほどであったため、しぜん独立の気運が高かったであろう。大友宗家がこれを牽制したかったのは当然といえよう。
そこでさらに田原の支族である 『吉弘』 氏を重用したのではないか。
この系図に書いた 吉弘氏直以前はわからない。が、この氏直から4代にわたり、紹運もいれれば4人が大友氏のために戦死している。 (上図の黄色い名前)
いくら主家であり本家とはいえ、いち一族、それも部将クラスがこれだけ戦場で命を落とすのは異常ではないか。冒頭 「全国的に・・・」と書いたのはこんな一族を小生は知らないからである。
氏直は、大内氏が豊後に侵攻してきたさいに勢上ヶ原にて討ち死にしている。『豊後の武将と合戦』ではそのときかれは19歳、初陣であったとしているが、それでは子・鑑理との年齢差がおかしい。兄であるということかもしれない。 仮説ではあるが、父・氏直と長兄・氏理 (うじなお:仮名) 二人ともに討ち死にしたということかもしれないと思ったりする。
鑑理は唯一戦場で死んでいないが、肥前方分、対秋月・毛利・竜造寺戦とその活躍は一族の他の誰よりも実績を残している。
鎮信は、日向高城において討死。
その子 統幸 は、関が原において西軍に付いた
よく、高橋紹運を 「あっぱれ、向背常ならぬ戦国の世において主家に最後まで殉じた忠義の将」 という方がいる。無論そうであるとは思うが、彼の生まれ育ったこの一族を見てくるとそれ以前にこの一族の元来持ち合わせたものや血の滾りというものを感ぜずにはおれない。