傳人 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

 このブログテーマ・『豊後武将列伝』 では、主に大友氏配下の武将達を、ぼくなりの解釈を以て、知らない方々への導入になればと思って紹介してきた。

 従って、所謂、奸佞 だとか、裏切り者 だとかといわれる人たちであっても、「かれらなりの言い分」 があるのでは?という視点を持って書いてきたつもりである。

 しぜん、好き嫌いが反映される。

 だから、今回紹介する 入田親誠 (にゅうた ちかざね) については、「嫌い」 という感情が先立って、ここで採り上げようという気にならなかった。

 豊後の守護大名・大友氏の同紋衆(支族)であり、玉来(現・竹田市)の都賀牟礼城の城主、肥後阿蘇や日向高千穂にもそう遠くない。

 かれは、タイトルにもあるが高名な、大友五郎義鎮 (宗麟) の傳人 (めのと=付き人・後見人) であった。

 にもかかわらず、五郎の父親 (義鑑=よしあき) の後添え (継母=塩市丸の母) と組んで、五郎を廃嫡し、塩市丸を大友家の跡取りにしようとしたらしい。
 傳人であったかれは、五郎の尋常ならざる荒破天振りに嫌気が差し、そう義鑑に薦めたらしい。

 有名な 『二階崩れの変』 の原因が上記のような経緯であるといわれる。

 この 『変』 は、五郎の廃嫡を、政務実行者の奉行衆に指示を出したところ、奉行らが反対し、怒った義鑑が奉行を誅殺するが、生き残った奉行らに逆襲を受け、塩市丸はとその母は即死、義鑑は暫くして亡くなったというもの。

 この場合、奉行衆は、五郎の派閥と見てよい。もしくはその派閥が仕組んだこと、或いはそれを五郎自身が糸を引いていたと考えるのが最近の傾向のようである。⇒リンク

 入田親誠が、なぜ傳人なのに、反・五郎派になったのかがわからない。普通は傳人といえば、織田上総介における平手政秀のようなもの、若様絶対という認識がある。

 上記の “荒破天” だから…という理由だけでは説として弱い気がするし、めのとを抱きこむという、塩市丸の母が高度な政治を使ったのかもしれない。

 しかし奉行衆を抱きこんだ五郎義鎮の方が上手だったということか…。

 今、調べてみると親誠は、他の奉行衆と同じく五郎派であった。しかし主君を手にかけた罪を問われ、他の奉行は斬られ、かれは肥後の岳父・阿蘇惟豊のもとに奔ったという。

 この説ははじめて聞いたが、今までと180度違って興味深い。

 もし、五郎が裏で糸を引いた上に、実行犯を証拠隠滅ヨロシク処分したとすれば、大友宗麟というひとははとんでもない奸物、あるいみ大物であろう。

 追討の将は、戸次鑑連 (のちの 立花道雪 ) ・親誠の婿である。鑑連は、身内だからと疑われることを恐れ、(或いは新しい主君に気に入られようと) 自ら追討を買って出たのだという。阿蘇惟豊は、親誠を斬ってくびを大友氏に届ける。舅にも婿にも見放されたわけだ。

 また親誠の子、義実はこの事件のあと逐電するが暫くして帰参。しかし、天正豊薩戦争 の折、大友家を見限り、そのまま島津に附いて、日向に領地をもらっている。

 いまは事実関係だけを羅列してみた…結局これらを繋げるのはいまのところ想像力しかない。

 いずれにしてもかれがいなければ、あの事件がなければ、大友宗麟という人は今残るように有名でありえたか…と考えたとき、かれの与えた影響は非常に大きかったといえるのではないか。

 いろいろ検討の余地はありそうである。