佞 | 根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

田原紹忍 諱は 親賢 (ちかかた)

大友宗麟の二番目の正室である 奈多夫人 の実の兄である。 従って大友義統の叔父に当たる。

かれは宇佐八幡宮の分社である奈多八幡宮の宮司である奈多家から、ほど近い武蔵(現・国東市)の今市城主で田原家の分家である田原親輔の養子になる。

白石一郎氏の小説、『火炎城』 には加判衆 (大友家における、徳川家の老中のようなものと理解している) に同年代がいない五郎義鎮をみて奈多氏が兄を推薦したことになっている。あるいはそれに近かったのかもしれない。

以後、国東の領地に加えて、宇佐郡妙見岳城を与えられ、宇佐衆を統括し 豊前方分 (守護代のようなものか) として対毛利戦に赴く。

かれを大友氏豊後除国の張本人というひとがいる。

 対島津戦の高城で大敗したときの大将であったから。

 妹の奈多夫人とともに反キリスト教の最右翼であり乍ら肝腎の宗麟の入信を止められてない。
   のみならず自分の養子二人とも洗礼を受けている。

このふたつに関しては、彼自身の問題というよりも主家である宗麟・義統親子の問題である。無論義統に対しては叔父としての監督義務もあったのではとも思うが、すべての責任を彼に押し付ける理由にはならない。むしろ主家に対して直諌をためらうものたちがかれに責任をかぶせた結果であると感じる。

石田治部に似ている・・・。

豊後は、宗麟のせいでキリスト教のイメージが強いが、“豊後仏国” と呼ばれるほどでなかでもかれらの本貫、田原・奈多のある国東の地は “六郷満山”(寺ばっかり) とさえ呼ばれている。かれらがキリスト教を毛嫌いするのは当たり前で、京都から来た養子・親虎はそこらへんがわかっていなかったのであろう。もう一人の養子は宗麟の息子で宗麟の一番のお気に入り・親盛である。末っ子は可愛いし可愛がるから親のマネをするのだろう。

ただ、実父である奈多鑑基やその跡継ぎで弟・鎮基の寺社領地横領については判じかねる。子供(兄姉)が宗麟の近くにいるから舞い上がった結果なのか、これも紹忍を陥れようとした人のでっち上げなのか・・・。

 本社である宇佐八幡の領地まで横領するとは思えませんが・・・。

 紹忍についてはその後、大友氏の豊後除国後同じく大友旧臣宗像鎮続ともにの直入郡竹田・岡城の 中川氏 の与力 (便宜上の組下で、政権直属の家臣) とされたが、関が原の折は西軍に付いた旧主・義統に参陣する。

 かれらが中川氏の軍旗を持ち出し石垣原に立て、敵軍の将・黒田如水が 『中川氏西軍に加担した』 と江戸へ報告したことからつい最近まで黒田家と中川家は絶交状態であったという。

 このことも戦陣の習いで紹忍が悪いとは思わない。如水と中川の意思の疎通の問題である。 中川家 (マンザイ師とは無関係) は、『戦陣の習い』として紹忍・宗像の大友加担を了承している。美談ではあるが軍旗管理は中川家の手落ちであるといえる。

 むしろその責任を取らされる形で西軍・臼杵城(太田氏) を攻め、その途中で関の町に火を放ち早吸日女神社の社務所を焼き、怒った神主・関作之丞によって中川氏が大敗、中川家の大将・中川平右衛門が討ち死にし、総崩れの中で紹忍も討ち死にする。

 ここをみると・・・どうも・・・戦は下手だったのではないか・・・

 いや、それでも彼を庇ってあげたいと思うのはやはり豊後人の血か・・・。