従弟 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

ホントは日根野織部正よりもこっちが先だったかな・・・
伊豆守 竹中源助 隆重 (重利とも) 

この源さん、高名な半兵衛重治のイトコであるが、半兵衛が若くして平井山に没するとまだ20歳そこそこで半兵衛の息子 “ションベン漏らさず怒られた” 左京重門の後見をし竹中氏を束ねた。

そこで羽柴筑前の眼にとまったのだろう、重門とは別に美濃長松で三千石。
壬辰倭乱で大友左兵衛督改易後は豊後高田一万三千石に封じられ大名に列す。

高田城に入ったとされるが、田原氏が籠って大友氏に抵抗した鞍掛山城に、明らかに在地系 (大友・田原)
ではない石塁造りの城跡が存在する。ここを築いたのはこの源さんであるという説がある。
本拠ではなかったにせよ端城か、詰の城として築いたのではないだろうか。

また 『播磨灘物語』 では、隣国の黒田如水とは半兵衛の縁で仲がよく、
かれと中津の商家で茶を啜っているときに石田治部挙兵の報を受け、行動を共にしたとなっているが、これはあやしい。
上方で、西軍として行動している資料がいくつかあるので、多少この辺の判断は難しい。

まあ、戦後は豊後府内三万五千石 (うち一万五千石は預かり地とする説あり) となり府内城へ入ったのは栄転であったと見てよいであろう。

で、福原右馬助改易により途中になっていた、その石高に不相応 (福原右馬12万石に対し源さん3.5万石) な豊後府内城の築城工事を再開し、これを完成させたとなっている。

仲のよかった加藤肥後守清正がここを訪れ、天守から北側の砦丸を賞賛したとあるが、これは北の丸のことであろうか、三の丸外の西北隅・船奉行屋敷であった気がする。

天守も、福原氏が築いたものが三層という記述があることから、連立式四層天守は竹中氏によるものであろう。

さすがは竹中コウムテンのダイクの源さん である。