祖父は美濃出身の勇将で、鎧・兜のデザイナーとしても有名な 備中守弘就 ⇒リンク
父親は、その祖父から別れて別家を立て、小田原役のあと信州諏訪高島に封じられ浮城を築いた 高吉
あの名城を築くということや伏見城築城にもかかわったことから、築城には一見識あったのであろう。
このときは三万八千石 (諸説あり) であったが、慶長五年戦役の直前、高吉が亡くなる。
彼は数え13歳でこの難局に、家康側に付くという “勝ち組” の選択をしたが、じいちゃんの備中守が西軍への内通を疑われ自害、勝ち組選択をしたにも拘らず下野壬生一万二千石へと減封になる。
東軍諸将で格下げされたのは彼くらいなのではないか。
![根多帖別冊 by えすくおやじ](https://stat.ameba.jp/user_images/20110728/08/esqi-oyaji/28/9b/j/t02200157_0500035711378331589.jpg?caw=800)
豊後府内で22年間過ごして、息子より長生きし後継者を決めぬまま死去、後継ぎが無く除封。
一説には幕府が決めた後継ぎを家臣が断ったといわれる。そんなことってあるの?
上記・蒼龍窟さんの記事を読んで、大分市上野が丘・大友館の南にある円寿寺にかれのお墓と説明の立て看板があったのを思い出して書いてみた。
そういう説明板があるということはそれなりに治世で功績を挙げたのではないか。(Wikipedia先生にはそう書いてあるんですけどね)
かれが後継ぎを決めていれば豊後府内藩の歴史は違ったものになっていたにちがいない。