宗魚 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

 豊薩戦争において、またそのなかで歴史的に名高い 『戸次川の戦い』 において重要な役割を持つ

 鶴賀城 

 大分市の南、戸次 (へつぎ) 地区の、大野川氾濫平野と南の山地を隔てるように屏風状に連なる山の上に位置している。

 鎌倉期の大友氏豊後入国のときに既に大友入国に反対する大神一族の阿南弥次郎家親が籠ったという。

 要地でもあり、要害でもあったろう。
 
 まあ、城に関してはまた訪れたときにゆっくり書くとして…

 利光 (としみつ)氏は、主だった大友系図には書かれていないが、豊後大友大友初代・能直の三男・親家がこの城を与えられ一帯の地名である 「利光」 を称したといわれる。

 薩摩軍・島津家が豊後に攻め入ったときの城主は  鑑教 というひとである。入道して 宗魚 
 諱 (いみな) には 『鑑』 の字が使われている。=大友義鑑の偏諱授与であろう。
 
 宗魚さんは、島津氏が攻め入ってきたときは筑前にいたという。おそらく戸次道雪か、高橋紹運に与力していたのであろう。




 宇目・竹田方面から薩摩勢が攻めてくれば府内へ行くのにここを通るであろうし、府内 (義統) と臼杵 (宗麟) との連絡をする上でもここがポイントになる。

 で、慌てて筑前から戻ってきたわけだが、彼が帰ったときには鶴賀城は島津又七郎家久 (DQNぢゃなほう) 二万の兵に囲まれ、人質を出して和睦・降伏したあとであった。

 かれは気骨があったのだろう。帰城するや人質奪回を企て、和睦で油断している島津勢に斬り込む。
 気骨というより卑怯という気もせんでもないが・・・。

 宗魚の留守を守った統久は、はじめから宗魚の戻るまでの方便としての和睦であったという説もある。

 その証拠に島津に出した人質は宗魚の子であると偽った牧宗之介という若者であった。かれはこのとき島津勢に斬られている。

 自分はころころ寝返るくせに人の寝返りは許せない島津軍は怒って攻め寄せるが、地の利もあり人の和も合ったのであろう。

 攻城二週間、二万島津軍は一割強の戦死者を出すという損害を蒙り城攻めを諦める。

 ただ城側も三分の一に当たる千人の死者を出した上に、巡回中の宗魚本人もスナイパーの矢 (または鉄砲) に射抜かれ戦死してしまう。

 一説にこの籠城戦での戦死者は両軍あわせて六千人であったという。それを信じるのなら筑前岩屋城を上回るスコアである。

 その後詰めにやってきたのが、仙石権兵衛を軍監とした猿太閤派遣の四国勢で、援軍の到着を待たずに鶴賀城を包囲中の島津軍に攻めかかり、惨敗を喫したのはよく知られるところである。

 援軍が敗れて散ったので島津軍はそれを追って豊後府内・臼杵へとなだれ込む。城は落城しなかったとこれまで聞いてきたが、Wikipedia先生によれば降伏・開城したともいう。

 OBS発刊 『大分歴史辞典』 では、宗麟が城兵の功を称えた上で臼杵に収容したという。

それは落城といえなくもないが、戸次川での太閤援軍壊滅の時点でこの城の役割は終わったといえよう。

 で、宗魚はわざわざ筑前より戻って戦死者を増やしただけであったのであろうか。そのまま降伏していればこれだけの戦死者は出さずとも済んだであろうし、自らも撃たれることは無かったことであろう。
 

 経過だけ追ってみれば、高橋紹運に比するべき奮戦、忠義であったといえるであろうが、やはり子孫が大名になって残らなかったことが紹運との違いであろうか。

 せめて戸次川の戦いまで生きていて戦に加わるか、あるいはもっと華々しく落城していればよかったのか。
 
 どっちにしても華々しく散ったということでは長宗我部弥三郎信親にオイシイところを持っていかれている気がする。

 大分の頃の、たくさんいる友人知人の “利光” さんのことを考えながら書いてみた。