根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

以前、たいへんお世話になった 城郭談話会

 

毎月、例会が開かれているようですが、11月8日に特別例会が開催されるとのことでしたので、最近出無精(debusyou)だったのですが、福山より 備陽史探訪の会 中世部会長様がおみえにならせられあそばされるということであったので畏れ多くも畏くもご一緒させて頂くことに致しました。

 

特別例会は5回目だったらしく、私自身は3回目の参加です。

場所はマグロでお馴染み近畿大学。以前は近鉄長瀬から歩いたのですが、JR俊徳道からバスが出ていたのでこれを利用、便利。

 

例会のテーマは

「最新の縄張図作成技術と城郭研究の未来」

 

城平面図=縄張図を作成する身としては大変興味深い内容です。

以前から赤色立体図に代表される地形図を城平面図に利用することやその是非が語られてきたので、それ等を改めて纏め直す良い機会であったと感じます。

気になったことを、箇条書きにします。

 

* GNSS(GPSに代表される衛星位置情報)

を利用した図面作成

 

「でもお高いんでしょ~?」と思ったが、

 10万円はしないという。

後日、城郭放浪記さんにこういうものを使う

かを訊いてみたが、

「自分で距離を測らない図には興味がない」

とのことであった。

 

* 赤色立体を使用して、上に現地踏査した

  遺構をトレースする方法

 

新人の学芸員に書かせたら、途轍もなく拙い

図ができた(笑)

この方法だと誰でも描けるとは思っていたが、ある程度の素養は必要らしい。

ただ、赤色立体を見、かつ図を書く人なら誰

でも思いつく類のもので、ことさら

「○○式(発表者の所属自治体)モデル」

というのは如何なものだろうか。

 

「談話会」には何十年も図を書いておられる方が多く、新たな摂図方法に否定的な、いわば「足で測らねば意味がない」人たちが多く、否定的な意見が多いかと思っていましたが、おおむね好意的だったようでした。

 

左・5年前に摂った図  右・赤色立体図 

丹波国天田郡 猪崎城

ようは現地確認と客観的な遺構評価ですね。

 

あと、『攻城ルートのシミュレーション』とか「守り手の人数」等の話が出ていたが、確かにこれらを考えるのは楽しい。しかし、研究者の方がそれを言うのはどうだろうか?とは思う。

 

どんな良い考えであってもそれは築城主体者の考えではないし、客観性が低いのだから。

さて、利神城

 

まあ、この名称については疑問でもあるのですが、これで通っているため今更変わらんかなとは思っていますが。

数年前、同じ場所で調査報告会があったのですが、そこでも言われてました。

 

今日はポスターにもあるように整備計画の策定記念ということでまず、薮田先生、山上先生、西形先生の講演がありました。

山上先生は城郭談話会でもお世話になった尊敬する研究者です。

「利神城は全国の支城のなかでも卓越した石垣を持つ城」といわれて目から鱗でした。

「高く、狭い山上でバックヤードの取れない立地で10mの高さの石垣は“野心的”である」と。

また、土木工学が専門の西形先生が「城の石垣は現代土木工学的には認められない」

と言われたのは印象的でした。

先生が利神城に登った時、二の丸東の石垣をみられて、「すぐ保護ネットを掛けるべき」と看破しそのとおりにしたが、手当空しく当該箇所が今年夏に崩れた…ということに驚きました。

 

聴視者として来られた三木市の宮田先生は「土木工学の専門家から城のことを聞ける機会は貴重」とおしゃっておられましたが激しく同意です。

 

ぼくはもっと土木の人が城にかかわってくれればいいなと思っていましたが、改めて思った次第です。

今日はこちらに来ております。

開演前にちょい寄りの早瀬城。上月城の北にある小丘にあります。

 

城 というにはあまりに小さいが、土塁囲みの郭を有することで注目されています。

お昼は以前もとおかさん、堀切さん、だおさんと訪れた「焼肉 新さよ」にてホルモン焼きうどん

 

一人前¥700でガマンした自分を褒めてあげたい…たぶん3人前はいける。おいしかったです。

窪川をあとに佐川へ 麓の青源寺は絶賛紅葉中

12年前、アメブロのぐるっぽのオフ会で訪れました。そのときは町の向かいにある松尾城に行ったのですがこちらには寄らず、あとで山内家の支城が別にあることを知って、ずっと来たいと思っておったです。

 

訪れると、比高130mほどの山上に中世城郭の遺構が公園化による破壊を受けながらも残っており、とくに主郭北東の石垣は圧巻です。斜面がキツ過ぎて上手く撮れていませんが…。

そのほかにもその西の、穴蔵のような櫓台や土塁囲みのトーチカっぽい郭など素晴らしい城跡でした。

 

藪で全周に畝状空堀群を巡らせた西の出丸に行けなかったのは残念でした。

土佐古渓山城なう

織豊の陣城を思わせる東の曲輪と

石垣づくりの主郭と櫓(天守?)台

スバラシイ!

 

放浪記さんに感謝です。

 

古渓山城のルーツ、窪川城(放浪記さん図ではとても良さげ)にも行きたかったのですが、山が高くとても直ぐに登れそうではなかったので断念だんねん。

 

このあと佐川城に行く予定やったけんですね。

 

佐川城に関してはあまりに◯◯◯であったため別に記したいと思います。

言わずと知れた現存12天守のひとつ

市街地から見上げると思った以上の威圧感

生まれた場所から最も近い現存天守なのに58年、城好きになってからも46年かかっちまった

 

石垣も各年代の各種をみることができます。

総石垣でないのは丘自体が急斜面だからなのでせふ。

 

あんど

予土国境の城として室町期から元和まで存続していた

…だってさ!

此処も落ち着くわぁ〜

石垣が出土したという情報だったが…

…うん、ドンマイ

 

まあこれだけの範囲をほぼ全面発掘し、成果を表示していることはスバラシイの極みです。

 

麓の小学生の研究発表も良かったです。

所用により生家へ。もう一年経つのか…

今回も未踏の気になるお城へ寄って参りました。

 

山陽自動車道をひた走りまず門司城へ

遺構が全くといっていい程残っちょらん。

これくらい?あと主郭逆サイドにも少し。

 

その後、中津城を経て

 

同市内、上伊藤田城へ

最近、中津市や、堀切凡夫さんの発信により中津市域の城が気になっておりまして、特にここは堀切さんにお薦め頂きました。

とても良い遺構で行ってよかったです。

ここを先日近大で開催された城郭談話会の特別例会で紹介された「飛騨市式」図面作成で図化しようと考えています。

ぼくがプロ野球の試合を最も多く観戦した球場は今は無い。

 

聴き始めたラジオの影響で高3位から南海ホークスのことが好きになった。

前年に新大分球場でロッテvs南海というカードが開催されたが全く食指が動かず。

それを一年後には後悔するから人生はわからないものである。

 

きっかけは、今は無き紳々氏が、南海の遊撃手・久保寺選手の急逝を伝えたときであったか。

その後、『真夜中のなか』という番組で野本利幸氏の喋りを聴き影響を受けた。

奈良県の大学に入ると、本拠地である大阪球場には何度も通った。

そういえば入試のときに二軍の球場である中百舌鳥にも言ったなぁ…。

 

狭く、スタンドは急斜面であり、周囲も汚いという話であったがそこまでマイナスイメージを持つことはなく、試合を観る度にワクワクしていた。

 

2年間で10度ほど、片道1時間電車に揺られて行った。

 

ところが、2年生の秋、学祭の準備をしているととんでもないニュースが流れてきた。

 

南海ホークスは親会社がダイエーに変わり、本拠地を福岡に移す…という。

 

哀しいという気持ちもあったが、九州にフランチャイズを移すということで当時は前向きな気持ちもあった。当時はね。

 

当時、球場があった場所はいまは「なんばパークス」になっており、ショッピングセンターのなかにピッチャースプレーととホームベースの形を残す。6年前に見に行ったのだがこれを見つけるのに相当歩きまわった。

 

その近くにあるエレベーターで7Fに上がると南海ホークス記念館がある。

大変狭く、訪れる人も少なかったが、一日じゅうでも居たい…センチメンタルな空間である。

駅ビルの書店によく寄る。

先月は髙田さん編・著の『中世城郭の新論点』を購入したので、新たな購入を自重しようと思っていたのだが、気になっていた黒田基樹先生の『羽柴秀長とその家臣たち』が出ていたので捲ってみると、あまりに良さげであったので買ってしまった。

↑大和郡山城 天守台

何が良かったって、青木勘兵衛・加藤作内・小川孫一郎 といった面々が、一時大和羽柴家の与力であったことを知れたことであろう。彼らはここからまた羽柴宗家直臣になり国持大名クラスへとなっていく。羽柴和州家が出世街道になったのか?

 

ただ、小川孫一郎(のち土佐守)に関しては、「慶長庚子の乱において戦後改易されその後の動向は不明、すぐに死去したと思われる。」と書かれている。

小川土佐は確かに一時は改易されたものの、姉婿一柳監物の嘆願により次男・壱岐守が豊後日田を与えられたのは確実である。

黒田先生ほどの方でもこんな見落としをするんだ…

 

まあ、土佐守祐忠~左馬助祐滋(長男?)が改易で壱岐守光氏が新規取り立てとみれば上記理解でいいのかもしれんが…

 

それと羽田長門・横浜一庵の石高は二万石くらいで、従来ぼくが信じてきた五万石はなかったらしい。

大和羽柴家の筆頭は桑山修理の三万二千石で、ついで与力以外だと藤堂与右衛門・横浜一庵の二万石、杉若無心一万九千石ということらしい。

 

その藤堂与右衛門のことを小一郎古参の重臣で、軍事・外交に重要であったとしつつも、築城の名人とは書いていない。

のみならず紀伊粉河(猿岡山)城主とも赤木城築城者とも書かれていない。

当然大和郡山城や和歌山城の築城奉行を務めたなんて話は書かれていない。

 

ぼくは、その後の経緯(江戸期に大大名になった)から動向の史料が残っているだけで藤堂が大和羽柴家中でも序列上位にされることに釈然としてなかったのだが、重要人物であるのは間違いないらしい。


来季の大河ドラマでも羽田長門や一庵法印のほうが与右衛門より目立つと嬉しいと思ちょったんじゃがどうもそうはいかないようである。

 

それでも俗説に引っ張られず、淡々と史料で動向を追いかける姿勢はさすがである。

しかしながら『高山公実録』は使っていいの?成立江戸後期だよねぇ?

 

ちゃんと他史料との付け合わせはしているようだがどうも気になる…。

きっかけは昨年夏の覇権アニメ(俺視点)『負けヒロインが多すぎる!』のキャラクターデザイン=原作小説での挿絵担当。

その後、未視聴だった『リコリス・リコイル』はこの春一気見した。これらのキャラデザを担当したのは

 

いみぎむる 氏

 

とにかくキャラクターがカワイイ。LINEのスタンプがあれば乱獲するぐらいである。

 

そのいみぎむる氏が注目されたのは、アニメ化もされた『この美術部には問題がある』

 

この作品はずっと気になっていたが、アニメが dアニメストアで視ることができると知り、原作漫画が LINEマンガで公開されていて見始め、弩嵌りてしまった。

 

ボクが学生時代美術部であったのもあるだろう。作品の舞台は中学だが(注1)、高校とかで美術部に入りたかったぼくとしては、『マケイン』と同様(注2)グダグダだった中高部活動が変わったのではと考えている。

 

そういった自身が身をつまされる事情を抜きにしても絵はカワイイし内容も面白いし未視聴の方はお薦めです。

 

ただ、『この美』以降、原作するマンガが出ていないのが気になる(読みたい)。

しかしながらそのおかげで『マケイン』『リコリコ』の彼のキャラクターに出逢えたわけだから痛し痒しといったところか。

 

ソロになったesq三谷氏に対して「スタ☆レヴィに残って欲しかった」「ソロの彼の音が聴けて嬉しい」という意見が両立するのに似ている。

 

才能があるひとは凡才の2倍3倍の時間を与えて欲しいと思う。アタマカラッポの政治家の時間を分けてもいい。

 

(注1)通った中学校の課外部活動は運動部だけであった

(注2)『マケイン』に嵌ってからよく考える、通った高校の文芸部は女子2人であった。

     (だからなに?)