根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

先日清書した宇津城に行ったとき、メインはこちら。

デカンショ街道から天引を園部方面へ。日吉ダムから道風神社~前坂を通って。

洛中を車で通りたくなかったので…。

なぜこの城が気になったかといえば…

 

櫓台ですよ、櫓台!

今年の「中世城郭セミナー」のテーマですよね。

 

「土壇」ですけどね。櫓がそこに建っていたかどうかなんてわかんないじゃん。

まあそのほかに横堀、土塁…どれも「あるのはわかっていたが想像以上」でした。

画像ではよくわかんないですね、あるある。

城はほぼ単郭ですが、土壇abcdと付随する土塁に囲繞された主郭の他に、三面に横堀+土塁の帯曲輪

そしてその外にも犬走状の帯曲輪。流れた土が下へ流れることを考えればここも上部と同じようであった可能性も。

で、いまの踏み跡(道?)はあるのですが、どれも土塁を越えていて、とても往時の道であるとは思えません。これをどう理解すべきか…

 

主郭の切岸は1~2間ほど。この要地たる高所を護るに相応しい遺構群であるといえます。

好きな言葉で表現していいのなら「トーチカ」を充てたいのですが、果たしてそれが適切か、どうか。

 

静原城や八木城に頻繁に行っていた頃になぜ行かなかったのか…。

 

後悔しきり。

先月行った宇津城

ここは知っていたが、そう「行きたい欲」をそそられる程ではなかった。

連郭式の、ありがちな山城に見えたからだ。

一昨年周山に行くときの通り道であったので多少興味が湧いた。

先月「城跡研究会」で、福島克彦氏の『織豊系城郭の地域的展開』を読み合わせたときに出てきた。

周山城マスター・堀口健弐大先生と行こうといっていたのだが、先生は先に行かれたようだ、残念。

堂ノ庭城を訪れたときも途中であったため帰りに寄ったことは述べた。

ここを拠点に山國荘(北桑田郡京北町)・弓削荘(同美山町)を抑え、織田軍明智隊に抵抗した国衆・宇津氏の城で、落城後明智氏によって改修されたことが『兼見卿記』に述べられている。

そのことを示すように、規模は小さいながら周山城に似た石垣を見ることができます。

赤色立体図 南西から登ると良いことがわかる。

摂った図を清書してみました。

主郭は北に土塁があり、南と西に虎口を設け、石垣の大部分は虎口付近に築かれます。

北の窪んだ部分は気になりますが、天守台?だとすれば土塁は邪魔かな?

東虎口の脇にも窪みがありますが、ここが『兼見卿記』に書かれた井戸かな?

兼見卿記の記述が天正九年四月なので、少なくともそれまでは使われていたことが推測されます。

主郭Ⅰから南のⅡeへ降りる坂虎口は下が二段の石積になっているのでどういう登り方なのか気になります。

主郭東の虎口からは北のⅡへ降りていたのでしょうがね。

ⅡからⅢへも東から降りていますが、降り口は段になっています。

Ⅲ北は城域の端部で空堀に描かれた図をみますが、いう程堀切っていない印象です。

余田城静原山北乃城 の主要部の端部も窪んではいるが“大掘切”って感じではないので、この地域の特徴的なものなのかもしれないですね.

 

まぁここは切岸だけで8mあるのでそれでよかったかもですが…

 

ということで周山城が発掘中ということなのでその次はぜひここを調査してほしいですね。

堂ノ庭城のあと、氷上郡の東中城に行こうと思っていたのですが、図面を摂るための赤色立体図のデータが印刷できず道も迂回するため、帰り道の途中のここに行きました。

紡錘形の山容が見事な 宇津城

放浪記さんのHPでは、東の谷を北に登る道があると書いていましたが、なぜか神社から直登する、キツイ。

登ると想像以上の石垣が!あるのは知っていたが。

ちゃっちゃと図面を摂り、帰りはゆっくり北側から上記谷筋を迂回しようと進んだのだが…

これ、全部茨です。知らずに突っ込んで絡め捕られちまいましたw

こっちから登っていたらヤバかった…。

とはいえ下りの直降も半端なくキツイw

ずっと来たいと思っていた 堂ノ庭城

櫓台・横堀・土塁が見事!

一町四方に満たない小城ではありますが岸もしっかり立てて、すばらしいデス。

ただ、道路が狭くて危険です…京のお方々はわたいに道譲らせるの好きなんどすなぁ~。

城趾研究会の第二回縄張図講習会に行ってきました。

一回目はこちら⇒リンク

 

京都市の嵐山にある 嵐山城

講師が不評なためか、参加者は仲良し四人組のみw

 

主催のF氏によると世界一写真に撮られている城だそうだ。

画像は登山道より嵯峨野方面

お城はオオアジな造りのようにみえ、岸も緩い

比高も300m近くあるので作り込む必要も無いのかなと。

「嵐山城」という名前につられて登って来たラテン系観光客がアタマを抱えていたらしい。

 

ぶっちゃけボクもさほど食指が動く城では無かったのですが…

広島県福山市を中心に備後国内外で有意義な活動をされている備陽史探訪の会

 

中世部会の杉本会長がほぼ新発見し、図を起こされた遺構を巡る踏査会があり行ってきました。

「日笠丸」は東に堀切があり、村尾城側の出城ではないか。

また「ミタノヲ」は西の尾根筋を警戒していることから村尾城を攻める側の陣城ではないかと推察されているようです。

探訪の会の山手銀山城平板測量のとき、同行させてもらったボクが数時間で簡易図面を摂ってるのをみて、杉本氏も同じ方法で図を摂り始めたのだとか。

 

僕のやってきたことで誰かに影響を与え、それが成果になるなんて凄く嬉しいです。

「ミタノヲ」と仮称する曲輪群は削平は甘いが周囲の切岸は、村尾本城ほどではないが割としっかり切っています。

「ミタノヲ」北端の折れを伴った切岸。

ほぼ全周に帯曲輪状の段があります。

特に南北両端は横堀状になり、そこから降りる竪堀も。

5㎞を4時間で踏査し、眩暈がするほどでしたが、根性で歩き切りました。

そのあとは神辺城へ。

村尾城の畝状空堀群と神辺城の矢穴のある石材、瓦片が思ったより落ちておる。

神辺城って、主郭周辺だけが石垣だと思ってましたが、より多くの石で築かれ、その殆どを転用されたのではとあらためて思った次第。

 

ちなみに「村尾」は中世、「神辺」は慶長期の福島氏支城で名称を使い分けてます。同じ城ですが。

越後村上=本荘 と同じですね。

さて、15日に行ってきた西脇城発掘調査報告会

この城のことは今回の報告会の予告投稿で初めて知ったことは既に述べた。

 

『兵庫県の中世城館・荘園遺跡(1984)』において、いまの城址碑のある場所↓にあっただろうことは推定されていた。

 

それに異論…というか字限地図をもとに現・高瀬味噌付近100m四方の段丘上が西脇城であったのではないかと想定したのが藤原孝三氏(1994)・岸本一郎氏(1997)

南は段丘崖で西に谷が貫入する。

ここの北側の道路が無電柱化工事のため拡幅されることになり、調査がなされた。

 

西脇城の推定地が調査されたのは今回が初めてで、そのファーストコンタクトで見事に城遺構と思われる堀が検出されたのである。さらに推定の範囲と見事に重なる。

藤原・岸本両氏の慧眼には眼を見張るばかりである。

しかも二重の濠であったということで想像は広がるばかりである。

内側の堀幅7m弱、外側5m弱、深さは1.4m程だが、地山に遺構が見られないことから上部は削られていると思われ、深さはもっと深かったであろうとのこと。

この2本の堀が時期的・機能的に同じなのかどうかも要検討だそうだ。

両方とも堀底が箱堀状なので並立する気がしちょります。

画像は段丘の南面だが、高さはもっとあったのではなかろうか。

この城の規模について

一町(約108m)四方は東日本では守護所相当で、周辺の野村城や比延前田城と比べても格段に大きいそうである。

14Cに公家(久我家?)領になるとかいう話があったので関連も考慮されるとのこと。

下図は赤色立体図。青丸が今回発掘の西脇城推定地。

 

「西脇」という地名の起源について

 

この守護所相当の政庁(?)の西の脇のまちが地名の由来ではないかという説も。
 
それやったら城名は「西脇」ちゃうやん。

今日は西脇城発掘調査成果報告会に来ています。

 

で、以前より気になっていた西脇市の鳴尾山城へ。

「ナキヤマ」と訓むようです。

同市内の水尾城に似た構造の山城です。

石積みと堀切

薮酷く壁蝨も多く、図面は断念。暖かいからなぁ。

上記案内板は山下の弥勒堂にあります。

 

西脇城の事はこの報告会のお知らせで知りました。

段丘の小崖を利用した立地の館城のようです。

備中足守の川向い、鍛冶山城なう。

フォロワーさんと来ています。

倒竹が酷すぎて辟易としちょりましたが、

何と石垣!

主郭南西のセットバック&二度折れする隅部

予習不足とはいえテンション爆騰がりす。

 

また尾根という尾根に畝状空堀群が!凄い!

 

ただ、こんだけ竹が繁茂しているのに拘らず落葉が多く滑る!広葉樹何処あんねん!?

でそういうのって一部だけぢゃなく、城域全体がそうなので進行がままならず…

 

ぼくはここを赤色立体図で見たとき、高松陣における前ノ右大臣家御座所では?

と思ったのですが、

(鳥取包囲戦に於ける太閤ヶ成に相当するモノが高松近辺に無いと織豊城研で聴いていた)

そこまでの城址をこのままにしておくのはもったいなくありませんかねぇ、ねぇ、

漸く今年の初登城です。

是迄何度も下を通ってきた赤穂郡有年の八幡山(有年山)城

何度も通ったのに行かなかったということはあまり魅力を感じなかったということで…

南至近の鍋子城には2回、南東の鴾ヶ堂城には3回行っているというのに…。

 

しかしながら登ってみるとやはり良かったと思えるわけでして…

石積み、それに地元の方々の作ったお人形w

あと、土橋とその奥は横堀です。

なかなかな遺構。

 

食指が動かなかった城って、まず間違いなく

「もっと早く行っとけばヨカッタ」と思う。

 

この現象の名前を募集したい。