帰省ついでに臼杵へ
現存の卯寅口門脇櫓が初、畳櫓が昨年に続いての公開ということで行って参りました。
まずは大分市河原内の天面山城へ朝駆け
ここはあの名作『天面山にて』がうまれた場所で、アレ以来二十数年振りの訪問になりやす。
以前の記憶より良い城であったと実感。
臼杵城は何十回と訪れていますが、佳きです。
今回公開の二つの現存櫓以外にも多くの情報を知ることができました。
昨年12月19日に山名氏城址保存会の谷さんと宵田城・水生城周辺の他城を廻る計画を立てたのですが、その日今季初の大雪で断念しました。
そのリヴェンジということでⅩのフォロワーさん二人をお誘いして行ってきました。
集合前に宵田城に朝駆け
昨年より更に主郭北の石垣が見易くなっており。
集合後、水生、竹貫のさらに西にある八代城へ
ここはほぼ知られていないですが、実際に行ってみると高い切岸に深い堀切、導入も考えられた様子(むろんこれは現状からの想像でしかありませぬが)がすばらしい城でした。
凄い土の城が多い但馬地方でも上位に入るのではないでしょうか。
お昼はここ。かつて全国四百店舗あったチェーン店の唯一残ったハンバーガー屋さん。
お昼のあと、国分寺城へ。
ここは思っていたより大味で、堀の使い方もちょっと不思議な感じがしました。
国分寺・八代とも open-hinata で見ていきたいと思ったのですが、実見するとやはり思ったよりスバラシイ城で大満足でした。
ただ、凄すぎて時間を考えて図面を摂っていない…。
今日は備陽史探訪の会の踏査会にお邪魔することになっております。
美作経由で備中新見へ
勝山の高田城へチョイ寄り
石垣造りの虎口が発掘されたようです。
その後新見へ
楪(ゆずりは)城は新見市の北にある山城で備中兵乱における三村氏・毛利氏の重要な城であったといいます。
備陽史探訪の会では幾度かに分けて備中兵乱に関連した城を踏査していたらしく、今回もその一環であったようです。
講師は岡山の たかまるサン。
因みに楪城の名は城域に楪(譲り葉)↑が多くあったためで、史料等の呼称は新見要害というのが正しいようです。
上写真にある赤い葉はモミジのなかでも春から赤い「ノムラ」という種類ということ。
あと城内にはシャガも多く、もう少ししたらもっと綺麗になるでしょうね。
備陽史探訪の会の中世支部会長は庭の専門家ですので教えていただけます。
実はここはずっと行きたかったのですが、なかなか行けずにいました。
クルマを停めた場所から主郭まではさほどでもなかったのですが、そこから三ノ丸という南端まで1㎞下ると、折り返し主郭まで登らなければいけなかったのです。
それも皆さんと行くことで苦にならず、たいへん楽しい踏査となりました。
一人だと疲れは倍増したことでしょうね。
昨年末、思わぬ事が出来し、予定しなかった帰省をすることとなりました。
で、鉄道の乗り合わせの間、珍しいモノが見えたという府内城へ。
昨年の大雨によって土塀が崩壊し、そのなかから煉瓦上の土塊が露わになったということ。
土塊は土塀の構造材とみられるが、類似の工法で造られた城の土塀は現存例が少ないとのこと。
当初、塀の屋根に雑草が茂っていたことから「管理不行き届きやん」とか思っていたのですが、以前の地震のときにこの塀は傾いていたとのこと。
まあ、そのときに修理しておけばよかったのですが、それでは今回のような発見はなかったので不幸中の幸いと申しましょうか…。
↑外側からの画像
壊れた塀の南延長上のコーナー、西之丸南西隅櫓。空襲で焼けたコンクリートでの再現だが、これに連なる塀は現存だったのですね。
下は東側の帯曲輪、こういう解説板が各所に設けられています。
この帯曲輪は三ノ丸へと繋がっており、R197号の南にも往時の石垣があります。
あまり紹介されていませんが、レッキとした城遺構…で…いい…筈…
下図のa位置
さて、昨日行った美作国岩屋城…攻めの為の陣城
天正十二年、毛利方に与したこの城を宇喜多氏が二万の軍で攻めて周囲三里の土塁や砦で囲んだ…と昨日も書いたのだが…
天正十二年は宇喜多も毛利もおなじ羽柴陣営やったやん?何で戦してんの??
てのがこの陣城群を知ったときの感想であります。
羽柴による領境決定 → 美作一国は宇喜多領 → 美作国内の親毛利派が反抗 → 宇喜多が鎮圧
その反乱の最も大きなものがここ岩屋城の攻防 であったとのこと。
岩屋城を囲む三里の攻囲のなかに、人為・自然原因により残っていないものもあるが大きな十二の陣城とそれを繋ぐ土塁・堀のほか小さなトーチカ(土塁囲み)が多数あり、たいへん貴重であるとのこと。
楽万の上塁 の切岸と横堀
奇しくも一昨日、この岩屋城と攻囲陣城群の国指定史跡に向けての調査会があったとのことで喜ばしいことです。
ただ、城を囲む陣城群の構築は多数の例があるが、この攻囲網ははとても城に近いのです。
果たして攻城の為だけのものなのか?岩屋城の外郭・惣構という要素はなかったのか?
という疑問が湧きました。
岩屋城本城にも行けていないので、気になったいくつかの砦を摂図しに行くとしませふ。
正月、帰省してひさしぶりに卒業した小学校まで行ってきた。
母校は当時は「野津原東部小学校」と呼ばれていたが、いまは当時四つあった町内の小学校が統合され、「野津原小学校」となっている。
何度も書いたが、この小学校は肥後熊本藩の「お茶屋」があった場所である。
小学校がほぼ「御茶屋」の範囲と思われ、東西南北ともに100mほど。北と東は10mほどの段丘となっている。その下は福城禅寺から水路が巡っている。さらに外に七瀬川。
絵図によると段丘面以外(東と南)は堀になっている。
で、数年前にここが発掘され、堀が実際に出てきたらしい。
江戸初期は幅15m以上、江戸期中期以降狭められたらしい。
つまりこの御茶屋は摂津・兵庫城と同じような濠の変遷を辿っていたということになる。
ぼくが通っていた当時はここは給食センターや体育用具倉庫があったのでまさかこんな堀があったとは考えもしなかった。
未調査の南辺を発掘すれば絵図のような堀と屈曲した虎口が出土するのではないか。
清正公案件だけに石垣が出土したりして。
先週行った近江・坂本
今回出土の石垣が 明智十兵衛光秀の坂本城三ノ丸のものであるかについて考えている。
上記当日記事に「明智期の(坂本である)確率が高い」と書いたが、考えが変わっている。
城の石垣としては高さが圧倒的に足りないのだ。1mちょい。
現地説明会でも「往時も高さは石ひとつくらいは高くなるかも」という。背後が地山で遺構面であることからそう高くはならないであろう。
また、石垣面より2mほど内側に幅2mの薬研堀状の溝がある。これが城遺構であり得るであろうか?
そしてこの石垣に対応する堀の外側が見つかっていない。
つまりこの石垣は、坂本城築城以前もしくは廃城後の坂本の港町・宿場町の町境の石垣ではないだろうか、と考える。そうであればこの石垣に対応する堀の外側は無くて当然である。
まちの西側が湿地帯であったため、石垣で固める必要があったのであろう。坂本は穴太衆の本拠だから城でなくてもこれくらいの石垣は築くであろう。
薬研溝も、石垣から水が流れ出ることによる崩壊を止めるための排水溝であったのではないか。
では坂本城の三ノ丸はどうなるのか?
従来推定されていた三ノ丸の南西端は西の山の高さや四ツ谷川が天井川っぽいことが気になりここまで広がっていなかったのではないか。今回に先立つ二度の調査でもここは城外であったと推測されている。
ここで、天正六年に惟任日向が縄張したとされる高島郡大溝城を考える。これは本丸二ノ丸が城下全体からみて南東隅に置かれたように見える。仮想敵は浅井朝倉や越後勢だろうからそうなるであろう。
坂本城も同様に、三ノ丸(無理に「三ノ丸」という言葉を使う必要も無いが)は北に向かって広がっていたのではないだろうか。
坂本城がここに構えられた理由として、微高地(赤の部分=本丸)があり、南北に川があり守りや境界に利用することだったのではないかと。
だから、川の外側に広がり高地に隣接する南西(=H30から今回迄の調査地周辺)を城域に取り込むのは想像し難いです。
これさあ、訊こうと思っていて現説参加できず訊けなかったんだけど、「従来の城域」って、なんの根拠に基づいているのでしょうかね。