先週行った近江・坂本
今回出土の石垣が 明智十兵衛光秀の坂本城三ノ丸のものであるかについて考えている。
上記当日記事に「明智期の(坂本である)確率が高い」と書いたが、考えが変わっている。
城の石垣としては高さが圧倒的に足りないのだ。1mちょい。
現地説明会でも「往時も高さは石ひとつくらいは高くなるかも」という。背後が地山で遺構面であることからそう高くはならないであろう。
また、石垣面より2mほど内側に幅2mの薬研堀状の溝がある。これが城遺構であり得るであろうか?
そしてこの石垣に対応する堀の外側が見つかっていない。
つまりこの石垣は、坂本城築城以前もしくは廃城後の坂本の港町・宿場町の町境の石垣ではないだろうか、と考える。そうであればこの石垣に対応する堀の外側は無くて当然である。
まちの西側が湿地帯であったため、石垣で固める必要があったのであろう。坂本は穴太衆の本拠だから城でなくてもこれくらいの石垣は築くであろう。
薬研溝も、石垣から水が流れ出ることによる崩壊を止めるための排水溝であったのではないか。
では坂本城の三ノ丸はどうなるのか?
従来推定されていた三ノ丸の南西端は西の山の高さや四ツ谷川が天井川っぽいことが気になりここまで広がっていなかったのではないか。今回に先立つ二度の調査でもここは城外であったと推測されている。
ここで、天正六年に惟任日向が縄張したとされる高島郡大溝城を考える。これは本丸二ノ丸が城下全体からみて南東隅に置かれたように見える。仮想敵は浅井朝倉や越後勢だろうからそうなるであろう。
坂本城も同様に、三ノ丸(無理に「三ノ丸」という言葉を使う必要も無いが)は北に向かって広がっていたのではないだろうか。
坂本城がここに構えられた理由として、微高地(赤の部分=本丸)があり、南北に川があり守りや境界に利用することだったのではないかと。
だから、川の外側に広がり高地に隣接する南西(=H30から今回迄の調査地周辺)を城域に取り込むのは想像し難いです。
これさあ、訊こうと思っていて現説参加できず訊けなかったんだけど、「従来の城域」って、なんの根拠に基づいているのでしょうかね。