さて、昨日行った美作国岩屋城…攻めの為の陣城
天正十二年、毛利方に与したこの城を宇喜多氏が二万の軍で攻めて周囲三里の土塁や砦で囲んだ…と昨日も書いたのだが…
天正十二年は宇喜多も毛利もおなじ羽柴陣営やったやん?何で戦してんの??
てのがこの陣城群を知ったときの感想であります。
羽柴による領境決定 → 美作一国は宇喜多領 → 美作国内の親毛利派が反抗 → 宇喜多が鎮圧
その反乱の最も大きなものがここ岩屋城の攻防 であったとのこと。
岩屋城を囲む三里の攻囲のなかに、人為・自然原因により残っていないものもあるが大きな十二の陣城とそれを繋ぐ土塁・堀のほか小さなトーチカ(土塁囲み)が多数あり、たいへん貴重であるとのこと。
楽万の上塁 の切岸と横堀
奇しくも一昨日、この岩屋城と攻囲陣城群の国指定史跡に向けての調査会があったとのことで喜ばしいことです。
ただ、城を囲む陣城群の構築は多数の例があるが、この攻囲網ははとても城に近いのです。
果たして攻城の為だけのものなのか?岩屋城の外郭・惣構という要素はなかったのか?
という疑問が湧きました。
岩屋城本城にも行けていないので、気になったいくつかの砦を摂図しに行くとしませふ。