僻地診療の悲劇! | 「人の痛みがわかり、患者さんを身内の如く」を心がけている歯科医院です。

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「相手を思いやる気持ち」を大切に、
前向きに研鑽を積んでいきますので、皆さん御教授の程、お願い致します。

今日は時間の合間に、妻が歯が痛いとの事で診療しました。

僻地診療と言うと医師がよく取りざたされていますが、歯科医師も同じです。

今回は離島勤務の歯科医師が過労死により突然死に至るまでの軌跡を少しお話しいたいと思います。

彼は都内で開業していましたが、M歯科大学在学中から僻地診療に携わりたいとの希望がありました。

 激務の開業医の傍ら、休診日に通学、研究を重ねて、博士号を取得しました。

勤務先は観光客で賑わう小笠原諸島でした。

ここは、皆さんもご存知の様に、東京都に属していますが、定期便は五日に一度のペースで

あったと言われます。

平成12年に三宅島国民健康保険直営歯科診療所の歯科医師として赴任しました。

築30年の民家の借家を借り、まるでジャングルのような所での夫婦の新居がスタートしました。

チェアーは3台でしたが、使用可能な物は3台でレントゲンの現像機も使用不可能な状況での

スタートとなりました。

民家では

「新しい先生が来て診療を始めるそうだ」

との噂が広まり、正式な勤務が始まる4月までにもう予約は満タンで、

朝の6時に予約の電話があったり、自宅にまで押しかけてきて何とか、無理に入れて診て欲しい

とかの状況でした。

受付一名、中のスタッツフの人は一人でしたが、2名に増員してもらいました。

 予約などお構いなしに診療室に押しかける患者さんも日増しに増え、

外の車の中での順番待ちの光景も日々見られるようになったそうです。

 歯科医師はおろか、スタッツフ3名も昼食も取れない状況が連日続いたそうです。

一日の来院患者数は日増しに増え、昼食はおろか、トイレにも満足にいけれなく、

正にくたくたでの帰宅の毎日でした。

 私も若い時には凄まじいここ以上の患者数を診ていましたので、彼の大変さは身をもって体験して

いますので、痛いほどよく解かります。

 歯科医院の仕事で入れ歯などは歯科技工士さんか、ラボ(技工所)へ渡すかですが、

当然ここでは、一人の技工士さんがお見えになったそうですが、その方が退職され、後任のあてもなく

彼が歯科技工までしなければならない常態にたりました。

 朝5時半頃に出勤し、診療後や、土、日も技工の為に一日かんずめの状況でした。

私も技工をスタート時点ではしたことはありますが、その人数のクランケを診て、さらには、

とうてい体力的にすることは不可能と思います。

 では何故に彼はそれほど、がんばれたかと言うと、患者さんから

「先生がきてくれたから、何時間もかけて船でわざわざ東京まで行く必要が無くなり大変感謝している」

「先生にいれてもらった入れ歯で漬物が食べれる様になった」・・

等島の人に、感謝され、それを放り投げてはいけないという医師のモラルからであると思います。

 そして、三宅島の大噴火があり、最大級の噴火もあるにもかかわらず、島の人たちは

キャンセルせずに、慣れているので来院していたそうです。

 妻は「この場に及んで何故、あなたは、逃げないの?」

心の中で「歯科医師がそこまでやる必要があるのか?」と叫ぶんだそうです。

 巨大な噴石が落ちてきて身の危険を感じても彼は

全島避難指示が発令される寸前までもお年寄りの方が困るので、入れ歯を作っていたそうです。

避難先の内地でも借りの診療所を彼の個人的なつてで開設したそうです。

 そうこうしている内に村の財政難も手伝い、会議で

「東京には歯科医がたくさんいるので村で雇用しておく必要はないので、村民の帰島がきまったら

歯科医師も内地に帰ってもうおう」と言われて、退職を余儀なくされてしまいました。

復帰のめども立たなくなり、就職先を探し「島の歯科医師」の求人を探し始めました。

走行していると母島勤務を受けることになりました。

 五日に一度の船便でが唯一の交通手段であり、技工物がリターンするのに3-4週間もかかり、

型が合わなくなるとの事で彼は歯科医師としての使命感から、再び自ら技工を始めました。

 技工手当てが着くわけでもなく、診療実績に対する歩合給でもない状況での事です。

何とレセプト(診療報酬請求事務)までも彼が引き受けてやっていたそうです。

 医師の場合は自治医大からの派遣で内地研修の際には代診の医師が派遣されますが、歯科医師は

一人でなおかつ代診もいないので、彼は、村民に迷惑がかかるので、有給も使用しなかった

そうです。

また、就職時に役場から、「役場に苦情がくるので、急患は断らない様に」と言われたそうです。

奥さんのコメントでは

「じゃあ、やめて、帰ればいいじゃないか、と言われると思いますが、彼はあくまで、志を貫き通し

たい、じゃあ、だれが、変わりに村民を助けるんだ・・」

「帰れる人はいいなー」と都庁の職員や、学校の先生にいっていたそうです。

 日に日にかれは、多大なストレスと極度の疲労から夜も中々寝付けない状況が続いたそうです。

午前中の診療を終えて、ソファーに寝そべっていると、午後の診療の為に起こしても、

ぎりぎりまでおきれずにいたそうです。

 そして、ある日の夜「のどが痛い」というので、「先生を呼ぼうか?」

と尋ねると、「いいよ、このままねむれそうだから」

 翌朝「息が苦しい」・・・

10分もしないうちに先生が駆けつけてると、彼は先生の姿を見ると、そのまま、雪崩のように

崩れ去りかえらぬ人となりました。

 彼の妻の実父が開業医をされて、長年の僻地診療に対して医療功労賞を受賞したそうです。

その父様の胸のポケットには、彼の写真を忍ばせて

「00君が生きてあと10年島でがんばればこの賞が受けれたのに・」

最後に彼の妻の発言

「私どもは甘かったのは反省していますが委託、嘱託という身分で離島や、僻地の診療所に赴任される

先生は、その身分の不安定さを警鐘しておきます」

「わたしも、夫もDr.コトー診療所を夢見て三宅島、母島にいきました。しかし、この様な終末に

至ったことは残念でなりませんが、夫のはたせなかった島の歯科医師として島民の方々と家族の様に付き

合いながら、永住して幸せだったと思える後継者の出現を心よりまち望んでいます」。

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