また銀行ですが、見ごたえあるMuseum Mandiri | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

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2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

Kotaエリアはナンバー規制が終わった時間に行くと所要時間が短いので、10時半〜11時に現地に着くように行くのがスムーズだと思ってますが、

意外に電車が使える!と最近思っている。

行きの時間は車と変わらないけど、帰りが【時間が読める】

一度Angke駅を使ってみたけど、Kotaから駅までの道があんまり良くないのと、細い道を使う。
周りはパサールで、車は入れないので、バイク限定になる。

Kotaに距離的に近いのはKota駅ですが、
Kampung Bandan駅でチカラン線から乗り換える必要がある。
このKampung BandanとKota駅は一駅だけど、本数が少ない!
着いた時間によると思うけど、30分近く待たないといけない時間だったので、Kampung Bandan駅からバイクで8分を選択

Kampungってくらいだから、改札でたらカンプン内。アプリで呼べなくはないと思うけど、住宅地の真ん中だからそこでスタンバってる地元のojekを使うことになる。

まぁまぁ歩いて大通りまで出れば、車も呼べるけど、道路の進行方向的に逆向きなので、Ojekで逆走が正解。
両方試して、Angke駅が使いやすいと思う。

以前は渡るのがめんどくさかったKota駅の前のバスロータリーはなくなって、広場になってます。

その前にあるのが
Museum Mandiri 
この建物は1929年に建設が始まりましたが、もともとはオランダが本社のオランダ貿易公社、別名オランダ貿易(NHM)の1828年開設のバタビア支社でした。
NHM (Nederlandsche Handel Maatschappij) 商社は、1824 年にウィレム 1 世によって低迷したオランダ経済を回復するため設立されました。
1830 年以降、強制栽培政策で生産されたコーヒー、砂糖、インディゴなどの商品の購入、発送、出荷、販売が NHM の主な業務となっています。

  NHM Bataviaは、外国の貿易代理店を意味するFactorij(工場)として知られています。 

インドネシアの独立後、NHM は国有化され (1960 年)、その後 Factorij ビルに本店を構える Bank Exim に発展しました。
1960 年に政府が外国企業を国有化したあと、この建物は所有権が変わり、1968 年から 1995 年まで輸出入銀行 (Bank Exim) の本店として使用されました。
隣のMuseum Bank Indonesiaよりちょっと遅い建築になりますが、オランダが建てたもので、建物も見所の一つだと思う
ステンドグラスの写真左側は月桂樹の葉に囲まれたバタビア市 (ジャカルタ) のシンボルです。
  中央は、海運のシンボルである錨が付いたNHM社のロゴです。
 右側は、オランダの都市アムステルダムのロゴ。
入ったらすぐ、たくさんの窓口がある銀行らしい作り
インドネシア銀行より、こっちのほうが重厚感あって、昔の銀行感ある気がする

1933年のこの銀行のホールの写真(開業の時かな?)

窓口の内側、銀行の業務が行われる側です。
古いタイプライターや刻印機などの展示がありますが、銀行の雰囲気そのままのところに入れます。

Chineesche Kast
植民地時代以降、華人は特にお金を管理したり賢いことで知られています。インドネシア銀行でもキャッシャーは中華系が行っていたとありましたが、ここでも中華系従業員のための特別な Chineesche Kast (中国人のレジ係の部屋) で業務にあたっていました。

金庫への階段と 財務記録や重要な書類を保管するための小さな金庫

NHMのレジ係になるのは簡単ではなく、親、兄弟、関係者など、裕福で社会的地位の高い保証人が必要でした。

 Chineesche Kastでは通常、計算はできてもオランダ語を話せるわけではないので、中国語も話せるオランダ人が1名通訳として配置されます。

 中国人従業員のほとんどは、専用の部屋を持つレジ責任者を含め、Chineesche Kas側で働いています。  
ポンティアナックの「貿易会社トンエク」の株券
資本金 / 600,000.-
8000株に分割 
この会社は物流商社で、本社がポンティアナック。
ラテン語と中国語で書かれた株券は
1908 年 1 月 23 日付の証書で、1908 年 3 月 18 日のオランダ東インド総督の許可がある、Khoen Foeng という名前の会社取締役によって漢字の切手が貼られた証書

強制栽培制度 (Cultuurstelsel) について
この博物館でもオランダ統治時代の歴史についての説明があります。

強制栽培によって多大な利益を得て、経済は改善し、借金を返済して、減税、インフラを整えることができ、オランダ本国に送金もできた。
 理論的に強制栽培制度は地元にも利益があるはずだったが、実際は地元農家は自分の作物を作ることができず、時間と労力はオランダの作物だけに使われた。
 1860 年にペンネーム<Multatuli>によって書かれた小説『マックス ハヴェラール』が出版されました。 この小説の中で、植民地政府のやり方がいかに抑圧的で腐敗していたかを描いている。 
それとは別に、フランセン・ファン・デル・プッテというプランテーション所有者が書いた『Suiker Contracten』(砂糖契約書)というタイトルのパンフレットが出版されました。 これら 2 つの著作は、オランダの自由主義グループの武器となりました。 彼らは文化祭制度の廃止を求め、オランダ東インド政府に民間投資を開放するよう求めた。

ここも1998 年 10 月 2 日にマンディリ銀行が誕生してから現在までの歴史や銀行業務の移り変わりなどの展示はありますが、インドネシア銀行博物館ほど多くない

昔の雰囲気がそのまま残ってたり、銀行の感じが見られるし、
銀行らしい中庭
金庫室もそのまま

木製貯金箱
 木製貯金箱は、銀行における最初の貨幣保管システムで、レジ係の間で現金を運び、レジ係長に預けるためにのみ使用されます。 
木材が選ばれたのは、鉄に比べて材料が入手しやすく、安価であるためです。 この木製の棺は、ネーデルラント・ヘンデル・マッシャッピイ銀行(NHM)、ネーデルラント・インド・ハンデルス銀行(NIHB)、エスコンプト銀行などの前身の銀行で広く使用されていました。

 建物内のほとんどを開放してるので、作り込んだパネル説明やデジタル映像はないけど、歴史の説明も「ほぉーびっくり」ということがある。

2階に上がる階段の踊り場のステンドグラス
この建物で最も大きなステンドグラスは、NHM の第 10 代会長ファン•アールストからの寄贈です。
ファン・アールストはNHMバタヴィアで働いていたこともあり、1933 年に NHM 事務所が開設されたとき、彼は感謝の気持ちと記念品としてステンド グラスを贈りました。
ステンドグラスの装飾は、オランダの四季の風景を表現していて、これを見たオランダ人従業員が祖国を思思い出し、癒されることを意図しています。 
いやぁこんなじっくりステンドグラス観察することなかったなぁ
一番上の小さいものは、
1595 年に初めてインドネシアにオランダが来てから1 年後、4 隻の商船艦隊がバンテンへの上陸に成功しました。 
ステンドグラスの中央には、スパイス探索の旅に参加した4隻の船、デ・アムステルダム号、デ・ホランディア号、デ・モーリシャス号、デュイフケン号に囲まれたコルネリス・デ・ハウトマンの姿が描かれています。
こっちにもお土産やさんもあります。
個人的には、どっちかというとこちらのMuseum Mandiriの方が、見ごたえあるように思う。

Museum Mandiri
9:00〜15:00
昼休憩なし


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