名前は知ってる英雄タムリンの博物館 | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

道路やエリアの名前にもなってるし、銅像もあるからもちろん名前は知ってますが、

どんな人かは知らなかった。

Mohammad Hoesni Thamrin

(MH Thamrin タムリン)

まずは独立のことから~と思ってたので、なかなかこの人までたどり着かなかった。

Museum MH Thamrin 
タムリン博物館

タムリン博物館は、インドネシアの独立闘争の歴史を伝える博物館として、1986年1月に開設されました。

市議会議員、第2副市長、フォルクスラードのメンバーでもあり、オランダ植民地主義時代にジャカルタの庶民を助け、Betawiの英雄と呼ばれるM.H.タムリンによって寄贈された建物です。

タムリンの祖父は英国人実業家で、ホテルを経営していました。
インドネシアの現地妻との間の息子が10歳の時に亡くなります。
子供はプロウスリブ地区の役人である母方の叔父モハマド・タブリーの養子となり、タムリン・モハマド・タブリーと名前を変える。
タムリン・モハマド・タブリーは、預言者ムハンマドの子孫であるサイードと呼ばれるアラブ人の子孫が数多く住んでいるクタパン地区出身の女性と結婚した。
 タムリン・モハマド・タブリーが1894年にバタビア地区の副検事長に就任したとき、息子のモハマド・ヘスニー・タムリンが生まれました。  
バタビアに住んでいて、ヨーロッパ人との混血という典型的なBetawi人ということになります。
しかも最初からお金持ち
建物は 20 世紀初頭に建てられ、最初の所有者は、 メニール・デ・ハースというオランダ人で、オーストラリアから輸入された果物の保管場所や、食肉処理場でもありました。
 その後、土地と建物はMHタムリンが購入し、建物はより大きく広々とした部屋に改装されました。
  
テラスにあったテーブルセット
MH タムリンは、インドネシアの独立闘争は政治だけでなく、インドネシア文化を通じて民族精神や国民性を育成しなければならない、【偉大な国家とは文化的な国家である】という考えで、
(Museum Sempah Pemudaに出てきますが)青年会議の前は、民族ごとの活動でBetawi団体【PEMUDA KAUM BETAWI 】を結成して活動していた。
 そして1927年12月17日、国民闘争運動を動員する取り組みとしてインドネシア国民政治協会コンセンサス(PPPPKI)の設立に参加した
⇛青年の誓い会議が1928年

第一回インドネシア人民会議のジオラマ
このジオラマは、現在 MH タムリン博物館となっているコンセンサス ビル内で行われた第 1 回インドネシア人民会議が始まる前の様子です。
 第1回インドネシア人民会議は1939年12月に開催され、この会議で「議会のあるインドネシア」の必要性が訴えられ、連合旗として赤と白の旗、国歌としてインドネシア・ラヤ、統一言語としてインドネシア語が制定されました。

あれっ!?このくだり↑↑でもでてきたぞ??

1928年10月の青年会議で初めてインドネシアラヤが披露されて、1939年に国歌とされたわけです(実際にちゃんと制定されたのは1944年)

独立前から国旗と国歌があったってこと!?



「インドネシア・ラヤ」は、1928 年 10 月 29 日の青少年会議でヴァイオリンを使用して最初に演奏されたことが知られています。
会議で披露される前、この Pemoefakatan Building (現在のMH Thamrin Museum) でメンバーに紹介されたということです。
  
 このスラカルタスタイルのBlangkonは、1939 年にスラカルタで開催された第 2 回インドネシア国家政治協会の会議中に MH タムリンが使用してました。
(タムリン家からの寄贈品なので本物)
 MH タムリンたちは、この建物を地域教育の場として、公立大学だけでなく文化について学ぶ場所にしました。

Betawi人のM.H.タムリンは、Gambir Pasar Malam (ジャカルタフェアの前身)でBetawi芸術パフォーマンスを支援したと言われています。

Betawiの伝統家屋の特徴の玄関前のテラス


MH タムリン邸捜索のジオラマ
Jl.Sawah Besar No.32にあったタムリンの家で、死ぬ数日前にオランダ植民地政府(PID)は、日本軍に情報を提供した容疑で家宅捜索をうけた。
タムリンは重度の糖尿病で寝混んでいましたが、 捜索の結果、1941 年 1 月 自宅軟禁の判決を受け、許可なしには誰も家に出入りすることが許されなくなり、病気が悪化し、1941 年 1 月 11 日に亡くなりました。
霊柩車
植民地時代にオランダ高官の葬列に使用され、インドネシアの闘争指導者の数人の葬列にも使用された葬式用の馬車のレプリカです。
 

 タムリンの功績として、

彼は人々のために学校や保健施設を建設し、街灯を設置、チリウン川からの洪水が頻繁にあって首都の機能が麻痺することから、マンガライの水門と運河を建設するように政府に働きかけた。


オランダ植民地時代、バタヴィアの社会で先住民族は、ヨーロッパ人や東洋の外国人よりも下位の下層階級でした

ヨーロッパ人や中華系のコミュニティにはそれぞれ専用のサッカー場があり、マレー人とベタウィ人からなる先住民族だけがスポーツ場を持っていなかった。

ヨーロッパ系のサッカー場には【先住民族と動物は立入禁止】と書かれて使用もできなかった。

1932年に先住民のためのサッカー場(Voetbalbond Indonesische Jacatra)を建設するため、資金と自分の土地を寄付し、インドネシアで初の先住民族のサッカークラブができました。現在のStadion VIJ Petojo

【大統領令】

Sdr.Mohammad Hoesni Thamrinは、生前、祖国と国家への献身的な気持ちから植民地主義に反対する活動を率いていた為、インドネシアの指導者として功績を考慮すると、国家から感謝されるべきであると考える。

タムリンの追悼の為、 1957年に国家の英雄とされた。


国民の英雄って、何人もいるんちなですが、象徴的に言ってるのかと思ってましたが、大統領令で認定されるものとは知らなった!

今まで、Thamrinって英雄ってくらいだから、てっきり将軍だと思ってた

 

これで、サッカー場と水門を見に行くという目指す目的地ができた


Museum MH. Thamrin

Jl. Kenari 2 No.15, RW.4, Kenari, Kec. Senen, Kota Jakarta Pusat, Daerah Khusus Ibukota Jakarta 10430 インドネシア

 月曜日休館

8:00〜16:00

一応外国人価格の入場料が設定されてますが、KITASあればローカル価格ではいれます


にほんブログ村 海外生活ブログ ジャカルタ情報へ
にほんブログ村">にほんブログ村 海外生活ブログ ジャカルタ情報へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村">PVアクセスランキング にほんブログ村