スハルトの作った施設はデカイ!9▪30事件とPKI反逆博物館 | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

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2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

Google Mapで❮museum❯と検索して、興味あるところはマークしてあるんですが、なかなかフラッと行きにくい...


9.30事件関連施設

9/30には、やはりインスタなんかでもこの日の投稿が多かった。

この事件、ホントのとこはどうなの...?

みたいなところもあって、ちょっとややこしいし、

インドネシア独立後の出来事だから、本読んでもさら~っと流し読みしてあまり知らない。


今は博物館も休みだし、他のことを調べる時間あるので...

切実に生活道具ないのもあって、久々にKJ Perabotに行く時にセットで回る!


Monumen Pancasila Sakti

Google Mapで検索すると出てきます。
ものすごい立派な門で、横にレリーフ
↓変わった敷地の作りだなーって思ってましたが、行ってみないとわからない。
ここで車を降りましたが、ここは単なる入口だった!

細長い敷地のところはただただ奥まで伸びる長ーい道路。
ここをすぎるとお金を払うゲートと窓口があります。
一人Rp5000
なんやろーなーこのスペース。
いるー?

また有料駐車場もバカでかい!
ワルンとかKiosとかあるので、なんか別の遊び場でもあんのかな?と思ったけど、ただただ駐車場

【9.30事件は】
(陰謀説とかいろいろあって、本当のことはわからない部分はありますが、博物館にある説明をもとに書いてます)
国軍と共産党の権力闘争、スカルノ大統領の経済政策の失敗にともなう国内の混乱、マレーシアとの対立による国連脱退など、国際的なインドネシアの孤立などがあり、
インドネシアPKI 幹部は、自分たちの理想である共産主義をインドネシアで実現するためにクーデターを起こす。
 PKI の最初の反乱は、1948 年 9 月 18 日にマディウンで始まりましたが失敗。

1965年9月30日深夜、ジャカルタでインドネシア共産党の議長からの指示を受けた大統領親衛隊第一大隊長率いる部隊が軍事行動を開始。

ハリム空軍基地の空軍作戦司令部に拠点を置いたこの部隊は、10月1日未明までに、陸軍の高級将校6名をそれぞれの自宅で殺害、または瀕死の重傷を負わせた。

  • 陸軍司令官アフマド・ヤニ中将
  • 陸軍司令官第二代理スプラプト少将
  • 陸軍司令官第三代理マス・ティルトダルモ・ハルヨノ少将
  • 陸軍司令官第一補佐官シスウォンド・パルマン少将
  • 陸軍司令官第四補佐官ドナルド・イザクス・パンジャイタン准将
  • 陸軍査察部長ストヨ・シスウォミハルヨ准将
この六名を殺害
この事件対するスハルト将軍による首謀者・共産党勢力の掃討作戦があり、これを契機に東南アジア最大のインドネシア共産党は壊滅し、スカルノが失脚。
ここから共産党狩りと華僑大虐殺につながっていく
目についたとこから入ると、8から入ることになる。
【遺品と血痕の部屋】
この遺品室には、殺害された六人の英雄が残した品々、特に彼らが亡くなったときに着ていた血痕のついた衣服が保管されています。 
その他に、死後解剖結果や、遺体から発見された銃弾、その他革命英雄たちの私物も展示されている。

名前を聞いたことはあるとおもうアフマド-ヤニ将軍

クーデター後10/3にクーデター司令室があったハリム空港に近いジャカルタのハリム空軍基地近くのLubang Buaya(この場所)にある井戸に投げ込まれている六人の将軍と将校が一人発見されました。

遺体は共産党の若者たちにナイフやこん棒などで拷問された後、古井戸に投げ込まれた。

井戸から発見された故人の持ち物

遺体は深い井戸に投げ込まれたせいもあり回収が難航し、井戸に潜るために使われた酸素ボンベもここに展示されています。
井戸から引き上げているところの写真もあります
10/4にすべての死体の回収が終わり、10/5革命の英雄の遺体を陸軍司令部からカリバタ英雄の墓まで運ぶために使われた戦車

8から6の建物は繋がってます
6の【MUSEUM PENGKHIANATAN PKI (KOMUNIS)】
PKI (共産主義) 反逆博物館
正面はこちら
中は、

インドネシア独立宣言後、共産主義地下組織がインドネシア青年軍(API)やインドネシア青年軍(AMRI)などの組織や青年組織に参入し始め、1945年11月に、ぺかロンガン地域に共同闘争機関を設立したところからの共産党との戦いの重要な出来事をジオラマで説明しています。

①から順番に見るなら博物館正面から入って見てください。

ひとつひとつに説明がついてます。
 ドアの外から発砲された銃弾は、1発がAH・ナスティオン将軍の妻の頭をかすめ、もう1発が胸に当たって傷を負った。
 ナスティオンはすぐに別のドアから飛び出し、家の横にあるイラク大使館と接するフェンスの壁に登った。
ナスティオンは壁を飛び越え、誘拐犯は発砲したが命中しなかった。
子供が撃たれたのを見たとき、彼は戻るつもりでしたが、将軍の妻は逃げて助かるように合図した。 

六人の将軍を捕えて殺害する、まさにこの場所で起こったことまでジオラマで見ることができます。
大きな建物2つ分、ジャカルタ市内のどの博物館より大きい
何箇所か飲み物とお土産売ってる売店もあります。
買ってしまいそうになる。
それにしてもこのスペースは何するんやろーってほど広い。

外には、旧 G 30 S/PKI 拷問所
ここは等身大のジオラマで、まだ生きている 少将R・ソエプラプト、TNI少将S・パーマン、TNIソエトージョ・シスウォミハルジョ准将、Cziピエール・アンドレアス・テンデアン中尉の4人は拷問の後殺害される
このすぐ横に
捕らえられたり、殺害後投げ込まれた井戸があります。
立派な囲いと屋根で保護されてます。
死の井戸
深さ12m、直径75cmの古井戸に頭を下にして入れられた後、バナナの茎、ゴミ、乾いた葉で井戸を交互に覆い、最後に井戸の上部を土で覆いました。
遺体を隠したあと彼らはその場所の周りに別の穴を掘り更にカモフラージュしました。

結構細い穴、大人の男性だと詰め込まれてる感じ...

Tugu Monumen Pancasila Sakti terletak (パンチャシラサクティ記念碑)
この記念碑は死の井戸から45m(インドネシア独立の年1945にちなんで)に作られました。

ガルーダパンチャシラの像がついた17mの壁(独立の17日)を背景に9•30事件で殺害された6人とナスティオン将軍の像が立っています。
この記念碑が立っている台というか、人が立っている場所も17m×17mで、そこから庭に降りる階段が7つあります。(殺害された7人を象徴して)
ほんまにこの数字にちなんだものづくりの発想、インドネシアに多いニヤリ

Rumah Dapur Umum
9•30事件中に 7 人の将軍らを拷問し殺害するPKIの活動を支援するために使用した家を保存してあります。

PKIがルバン・ブアヤ村(現在のパンチャシラ・サクティ記念碑の所在地)を制圧する前、周囲では昼夜を問わず大規模な戦闘訓練が行われていたため、この場所に住んでいた周辺住民を退去させた。
もともと衣料品行商として働いていたアムロー夫人の家でしたが、9/27に家と財産が守られるという約束で、一銭も受け取らず家を出ました。
PKIの戦闘員に食事を提供する場所として使用された。

数日間避難した後、住民が戻ってみると、 家の中がめちゃくちゃになっていて、家具の一部が破損したり紛失したり、庭に散乱しているのを見ることになった。


Rumah Pos Komando 指揮所

この家はルバン・ブアヤの居住者ハジ・スエブのものでしたが、
9•30事件の誘拐事件のリーダーが7人の誘拐に備えて司令部として使用していました。
9月30日0時、この司令部で作戦についての説明があり実働部隊が出動

PKI が革命の英雄たちに対してどれほど残酷だったかを忘れないよう、永久保存されました。


司令部の建物内には、ランプやミシン、ガラス戸棚など、当時の品物がまだ残っています。

テラスもあって、アムロー夫人の家よりもきれいな造りとなっています。


大学生のグループが多く見学に来てると思います。

駐車場が広いので観光バスなんかも何台も停められるし、Rp5000にしては見所満載の施設です。


入り口のチケット窓口か、敷地内の売店でこのガイドブックをゲット
ジオラマの説明だけでなく、ほぼ全ての展示物(中のも外のも)の説明が書いてある冊子で、ここ以外にある9.30関連施設の紹介ものってます。

タマンミニも近いですが、両方でかいのでこの2ヶ所をセットでまわるのはちょっと無理


▪Museum Penghianatan PKI (Komunis)
▪Monumen Pancasila Sakti
Jl.Raya Pd.Gede,Lubang Buaya ,Kec. Cipayung. Jakarta Timur

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