”Bersukaria”史跡巡りウォーキングツアー1(スラバヤ⑥) | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

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2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ

もともと、なぜインドネシア最後の旅行がスラバヤなのか?


インスタでスラバヤ情報を探していたら同じ会社がスラバヤでもウォーキングツアーをやっていました

レギュラーのコースでも10以上設定されています。

これを熟読してGoogle Mapに落とし込むだけでも、ツアーを頼まないで観光はできますが、効率良く回れるのと、多少内容わからないと史跡巡りはおもしろくない!


だいたいスマランの時は勉強になったし、エピソードもおもしろかった


Google Mapで行きたいところはマークしてるので、二つのコースに絞って悩んだけど、聞いてみたら片方は距離が長いということだったので、小さいエリアで回るほうを選んだ

スマランやスラバヤはプライベートにしても安い!

2~6名で1グループRp299000

事前に申し込んでアレンジしてもらい、前日に担当ガイドからWAで集合場所など連絡がきます

英語の場合は+100000


その時全部わかってませんが、なんとなく概要つかんで後で調べたらいい

【Rute Europ】

Gedung Internatioのとなりの公園からスタート

1850 年に建てられた 
Gedung Internatioのとなりの公園からスタート
11月10日はインドネシア「英雄の日」で、デモや集会もあるし、”Indonesian Hero's"のポスターなどもインスタでもあがります。
その『英雄の日』ができる発端になった場所です。

 1945年10月25日にスラバヤに上陸した連合軍の本部として使用され、
10/28からこのビル周辺で三日間の激しい戦いが起こりました。
そこでマラビー将軍(この人も事件のことも初めてきいた)が死亡した
一つ一つ調べた事を書くと長くなるから、ここはまとめて書くから詳細は割愛しますが..

建物は現在、PT Tjipta Niaga と PT Aneka Niaga によって管理されていると言われていますが、このオーナー?が2024の選挙に出るらしい

この裏に今はPlasa Telkom Garudaがありますが、昔から通信連絡会社で、戦いの時に向かいのGedung Internatioから爆弾が投げられたらしい
ここの敷地内には古い公衆電話が並んでます。
今は使えませんが、昔はここに電話をかけに来ていたこともあるらしく、若者がレトロな背景で写真撮影するスポットになっているそうです。
Gedung Internatioのとなり、公衆電話の向かい側にはMuseum De Javashe Bank(ジャワ銀行博物館)があります。

今回は入りませんでしたが、直接その場で申し込めばいいような気がする。

今回もともと見に行こうと思っていたJumbatan Merah
この橋が建設されたのは1743年。VOCとマタラム王国の間で領土分割の協定合意で、北部はオランダの領土で南部はマタラムの領土となり、それを行き来する唯一の橋となりました。
そのため、この川が貿易と物流の拠点になり商業の中心地となりました。
1890年頃から木製から鉄製の欄干に変わっていきますが
橋の土台は補強されてますが、もとの木製の橋の上にコンクリートが舗装されてます。

1945年のGedung Internatioからの戦いでは、マラビー准将がのった車はこの橋で車ごと爆破されたとありますが、実際はGedung Internatioの前で爆破されたらしい。

橋の名前"merah”はこの橋の周辺で流された血からきているそうです

このJumbatan Merahを渡って東側は
【Jl.Kembang Jepun】で昔は日本人の花街があったことから名前がつき、道路の名前がそのまま残っています。

じゃかるた新聞からでてる【日本人が見た100年前のインドネシア】
この本にその当時の日本人社会の様子やこの通りの写真などがのっていて、この通りも見てみたかった
今は中華風の門があります。
❮Kya kya❯と書いてますが、
スラバヤの有名なチャイナタウン エリアの 1 つです。 
2003 年から 2008 年まで夜市として使用されていました。
 「インドネシアで最大のフードコートを建設する」という目標で作られましたが、実際にな五年で夜市は終了してしまったそう

Bersukaria walking tourでも[Kya kyaルート]もあります。

Kalisosok Suroboyo
このKalisosok刑務所(カリフィグル地下刑務所?ともいうのかな)はVOC時代1750年に建設され、1940 年~1943 年の日本占領時代の期間に、多くのインドネシアの独立運動家が収監された。

 後にインドネシア共和国の大統領になったスカルノもこの刑務所に入ったことがあるそうです。

今は中に入ることはできませんが、高い塀と有刺鉄線はそのままで、建物の窓には鉄格子がはまっています。
中に広い庭もあるそうですが、外からは見えません。
重要文化財になる前は、小部屋がたくさんあることから、トラックの運転手や労働者などに、安値で貸部屋のKosとして使っていたこともあるらしい
 
ガイドを聞いただけでは全部理解できないから、案内文や石碑など撮影しといて、書きながら調べて復習&記録保存してるので悪しからず...
長くなるからパート2に続く...

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