観劇の夕べ。。。
昨夜は、新橋演舞場の夜の部、2演目めの「どんつく」、3番目の「酒屋」だけ見に行ってきた。
ちょうど会社が終る6時過ぎに出て、東銀座へと。

団十郎と三津五郎の踊りが絶妙な「どんつく」、仁佐衛門の色気があふれた顔が何ともいいし、福助さんの芸者っぷりも得意芸だけに、見ていて楽しかった。
「酒屋」は、今の時代にこりゃないわよ、ていうあまりにかわいそうな女性のお話だけど、「野崎村」といい、この作品といい、福助さんは男の不当な仕打ちにも黙って耐える、切ない女の心情を表現するのが上手いです。
ハジける演技させると、これまた凄いノリっぷりで、豹変しちゃうところも、大好きな役者さんなんだけど。
でも、心配だったのは、客席にかなりの空席が目立ったこと。
歌舞伎座閉館のときの熱狂ぶりはどこへやら、あのとき、お金使いすぎたのか(私もそのひとりナリ)、歌舞伎ブーム去りぬ?と疑いたくなってくるような空気が。。。
でも、これから歌舞伎座も新しくなることだし、この機会に、歌舞伎のあり方を再考してもらいたいわ。
まず、1回の公演に3つも4つも演目をかけないで欲しいの。大体歌舞伎ファンは年配者が多いので、見る時間が長いと疲れるだけ。
しかも,古典ものは集中力が必要だから、それが3つも続くともう頭ぼーっとなっていくだけ。せっかく高いチケット買っても、席で居眠りしてる人いっぱいいるのがそれを物語っているでしょ?
だから、この際、3部制にして、2演目ぐらいで区切る。当然チケットも安くする。
同時に、かける演目にもっと工夫を凝らしてほしいの。
同じ作品が1年の間に2回以上かかることも珍しくない。
これはどういう配分をしているんでしょう。
同じ作品は新作と違ってセリフが役者の間に浸透しているので、かけやすいってこともあるでしょうけど、同じ演目が1年も立たずして出てくるのは、いくら人気演目でも、どうか、と思うときがある。
歌舞伎は日本を代表する素晴らしい文化。
孫の代、その子供の代へと続いていって欲しいので、廃れないために、歌舞伎に携わっている方々の意識変革、危機意識の再認識、しっかり現実を見ていただきたいな。
ちょうど会社が終る6時過ぎに出て、東銀座へと。

団十郎と三津五郎の踊りが絶妙な「どんつく」、仁佐衛門の色気があふれた顔が何ともいいし、福助さんの芸者っぷりも得意芸だけに、見ていて楽しかった。
「酒屋」は、今の時代にこりゃないわよ、ていうあまりにかわいそうな女性のお話だけど、「野崎村」といい、この作品といい、福助さんは男の不当な仕打ちにも黙って耐える、切ない女の心情を表現するのが上手いです。
ハジける演技させると、これまた凄いノリっぷりで、豹変しちゃうところも、大好きな役者さんなんだけど。
でも、心配だったのは、客席にかなりの空席が目立ったこと。
歌舞伎座閉館のときの熱狂ぶりはどこへやら、あのとき、お金使いすぎたのか(私もそのひとりナリ)、歌舞伎ブーム去りぬ?と疑いたくなってくるような空気が。。。
でも、これから歌舞伎座も新しくなることだし、この機会に、歌舞伎のあり方を再考してもらいたいわ。
まず、1回の公演に3つも4つも演目をかけないで欲しいの。大体歌舞伎ファンは年配者が多いので、見る時間が長いと疲れるだけ。
しかも,古典ものは集中力が必要だから、それが3つも続くともう頭ぼーっとなっていくだけ。せっかく高いチケット買っても、席で居眠りしてる人いっぱいいるのがそれを物語っているでしょ?
だから、この際、3部制にして、2演目ぐらいで区切る。当然チケットも安くする。
同時に、かける演目にもっと工夫を凝らしてほしいの。
同じ作品が1年の間に2回以上かかることも珍しくない。
これはどういう配分をしているんでしょう。
同じ作品は新作と違ってセリフが役者の間に浸透しているので、かけやすいってこともあるでしょうけど、同じ演目が1年も立たずして出てくるのは、いくら人気演目でも、どうか、と思うときがある。
歌舞伎は日本を代表する素晴らしい文化。
孫の代、その子供の代へと続いていって欲しいので、廃れないために、歌舞伎に携わっている方々の意識変革、危機意識の再認識、しっかり現実を見ていただきたいな。
蛙の足あと。。。。。
これは、私の本棚に大事にしまってある本、「蛙の足あと」、私の母方の祖父が書いた自叙伝です。

祖父がこの本を幾つのとき書き上げたのか今調べてみたら、何と90歳!
卒寿で現役の長唄の会を催したぐらいですから、元気ではあったけど、ほんと、既に気持ちが老け込んできた私もあやからないといけないわ!
私もこの本を見習って、せめて2人の孫たちに、私の育った時代のことをエッセイに書いて、いつか自費出版しようと思ってるの。その前段階で始めたのが、このブログというわけです。。。
祖父の仕事は邦楽師。2人の息子、つまり母の弟たち(私の叔父さんたち)も、みんな邦楽師。
私の父の家も、建築家の父以外は全員邦楽師でした。
父の父、つまり私の父方の祖父は、十世・田中伝佐衛門という名前で、母方の祖父のお師匠さんだったわけで、まあ、この結婚となったのね。
だもんで、幼少期のみぎり、私の回りは、み~んな、鼓や大鼓(おおかわ)や太鼓を演奏するお仕事という、ちょっと特殊な環境だったかも。
小学校に入っても、そんな仕事の人はいなかったしね。
母方の祖父の家は、青山で隣り合わせ。
毎日のように、お弟子さんに稽古をつける音色が響いてきた。
子供の頃の楽しみは、長唄の会や日本舞踊の会で出演者たちが出す巻物(要は引き出物だけど、私たちはみんなマキモノって呼んでた)。
演奏する祖父や叔父たちにも配られ、それを祖父がお土産に持ってきてくれる。大体甘味のものが多くて、どら焼きだったり、最中だったり、美しい生菓子だったり。
届くのは、会が退けた後だから、深夜と決まってる。
寝ててもおじいちゃんに起こされる。
でも、眠かったけど、なんかシアワセだった。今、振り返ってみても、とっても甘やかな想い出。。。
ときには、酔っぱらって上機嫌の祖父が寿司折を片手にやってきて、そういうときも無理矢理起こされて、食べさせられるの。
こっちは半分寝ぼけ眼で、味などわからないけどね。
でも祖父は自分が買ってきたものを孫が食べているのを見るのが好きで、ご機嫌、酔っているから余計にニコニコしていて、とてもいい顔をしていたわ。
下の写真は、祖父と祖母です。
小さいので、拡大して見てくださいな!


祖父がこの本を幾つのとき書き上げたのか今調べてみたら、何と90歳!
卒寿で現役の長唄の会を催したぐらいですから、元気ではあったけど、ほんと、既に気持ちが老け込んできた私もあやからないといけないわ!
私もこの本を見習って、せめて2人の孫たちに、私の育った時代のことをエッセイに書いて、いつか自費出版しようと思ってるの。その前段階で始めたのが、このブログというわけです。。。
祖父の仕事は邦楽師。2人の息子、つまり母の弟たち(私の叔父さんたち)も、みんな邦楽師。
私の父の家も、建築家の父以外は全員邦楽師でした。
父の父、つまり私の父方の祖父は、十世・田中伝佐衛門という名前で、母方の祖父のお師匠さんだったわけで、まあ、この結婚となったのね。
だもんで、幼少期のみぎり、私の回りは、み~んな、鼓や大鼓(おおかわ)や太鼓を演奏するお仕事という、ちょっと特殊な環境だったかも。
小学校に入っても、そんな仕事の人はいなかったしね。
母方の祖父の家は、青山で隣り合わせ。
毎日のように、お弟子さんに稽古をつける音色が響いてきた。
子供の頃の楽しみは、長唄の会や日本舞踊の会で出演者たちが出す巻物(要は引き出物だけど、私たちはみんなマキモノって呼んでた)。
演奏する祖父や叔父たちにも配られ、それを祖父がお土産に持ってきてくれる。大体甘味のものが多くて、どら焼きだったり、最中だったり、美しい生菓子だったり。
届くのは、会が退けた後だから、深夜と決まってる。
寝ててもおじいちゃんに起こされる。
でも、眠かったけど、なんかシアワセだった。今、振り返ってみても、とっても甘やかな想い出。。。
ときには、酔っぱらって上機嫌の祖父が寿司折を片手にやってきて、そういうときも無理矢理起こされて、食べさせられるの。
こっちは半分寝ぼけ眼で、味などわからないけどね。
でも祖父は自分が買ってきたものを孫が食べているのを見るのが好きで、ご機嫌、酔っているから余計にニコニコしていて、とてもいい顔をしていたわ。
下の写真は、祖父と祖母です。
小さいので、拡大して見てくださいな!

おばさんトーク炸裂!
昨日の夜は、近所のお友達を招んで、夕食&トーク会!
自治会で同じ役員をした仲の彼女は、やはり今年の7月に実家のお母様を亡くしたという、私と同じ体験をしたこともあって、そんな話やら、彼女の息子たちやおヨメさんの話などを聞いて、いろいろ盛り上がる。
お酒はほとんどイケない彼女、なんと、この夜は、2人で350ミリのビールひと缶という、かわいらしさだったわ!
ハンバーグとポテトサラダ、ごま豆腐と揚げナスの和え物、お酢の物、アボカトディップとイギリスパン。
この献立、写真を撮り忘れました。。。↓(でも、下の写真みて!)
6時から始まり、しゃべり通しで、解散したのは11時近くでした。。。
写真は今朝のお弁当。
昨日の残り物で全部すんじゃった。。

自治会で同じ役員をした仲の彼女は、やはり今年の7月に実家のお母様を亡くしたという、私と同じ体験をしたこともあって、そんな話やら、彼女の息子たちやおヨメさんの話などを聞いて、いろいろ盛り上がる。
お酒はほとんどイケない彼女、なんと、この夜は、2人で350ミリのビールひと缶という、かわいらしさだったわ!
ハンバーグとポテトサラダ、ごま豆腐と揚げナスの和え物、お酢の物、アボカトディップとイギリスパン。
この献立、写真を撮り忘れました。。。↓(でも、下の写真みて!)
6時から始まり、しゃべり通しで、解散したのは11時近くでした。。。
写真は今朝のお弁当。
昨日の残り物で全部すんじゃった。。

テニスひじ。。。
6月に家の中を大々的に模様替えしたとき、大きなベッドを一人であっちの部屋からこっちの部屋へと運び、、そのときにかなり無理したのが祟って、右腕を痛めた。
そのまま湿布したりして、直るかと思っていたけど、どんどん悪化。
で、仕事場の近くの整形外科に行ったところ、「テニスひじ」との診断結果。
へえ、テニスなんかしたことないのに~。
難しい病名は「上腕骨外側上顆炎(じょうわんこうがいそくじょうかえん)」というそうで。
で、治療法はというと、懐中電灯みたいな形状のレーザーを自分で患部に当てる電気治療と、湿布。
痛い腕をできるだけ使わないでと言われたが、それは無理というもの。
ビール缶だってお米だって、何でもひとりで運ばないといけない、しかも、車で買ってくると、駐車場から団地の4階までは、大体6階分の階段を上ってこないといけないので、どうしたって腕使わざるを得ないでしょ。
孫を抱くのもよくないとか言われたけど、それは無視。
で、そんなこんなで3ヶ月近く、整形外科でお茶を濁してる感じだったけど、このままではダメと、昨日、一大決心(?)をして、仕事場の近くにある整骨院に行ってみた。
下町ゆえ、整骨院はほんとにいっぱいあって、この商店街だけでも3つぐらい並んでる。その中でも、女性スタッフのみというのでここを選んだが、いやあ、これがアタリだったの!
最初に腕2カ所に絆創膏のようなものを貼られて、そこから伸びているコードでレーザー治療。
そのあと、電気と超音波。これ、腕にビビっときて、治療されてる~って感じ。
超気持ちいい!
そのあとに、整形外科でやっているようなレーザーのピンポイント照射。でも、ここではセルフじゃなくて、ちゃんと先生が当ててくれるし、先端が熱いので、気持ちいい。最後に置き鍼を2か所に貼ってくれて、終了。
うわ、効いた!って感じ。
これをできるだけ毎日続けた方がいいらしいけど、1回でもかなりスッキリしたわ。
いいところを見つけてよかった!
来週から通いますわ!
PS:腕に貼ってもらった置き鍼は、お風呂入ってもとれませんって先生は言ってたけど、今朝、寝てる間に、くっちゃんにイタズラされて、気づいたときは既に遅し!
1コ行方不明です。。。


そのまま湿布したりして、直るかと思っていたけど、どんどん悪化。
で、仕事場の近くの整形外科に行ったところ、「テニスひじ」との診断結果。
へえ、テニスなんかしたことないのに~。
難しい病名は「上腕骨外側上顆炎(じょうわんこうがいそくじょうかえん)」というそうで。
で、治療法はというと、懐中電灯みたいな形状のレーザーを自分で患部に当てる電気治療と、湿布。
痛い腕をできるだけ使わないでと言われたが、それは無理というもの。
ビール缶だってお米だって、何でもひとりで運ばないといけない、しかも、車で買ってくると、駐車場から団地の4階までは、大体6階分の階段を上ってこないといけないので、どうしたって腕使わざるを得ないでしょ。
孫を抱くのもよくないとか言われたけど、それは無視。
で、そんなこんなで3ヶ月近く、整形外科でお茶を濁してる感じだったけど、このままではダメと、昨日、一大決心(?)をして、仕事場の近くにある整骨院に行ってみた。
下町ゆえ、整骨院はほんとにいっぱいあって、この商店街だけでも3つぐらい並んでる。その中でも、女性スタッフのみというのでここを選んだが、いやあ、これがアタリだったの!
最初に腕2カ所に絆創膏のようなものを貼られて、そこから伸びているコードでレーザー治療。
そのあと、電気と超音波。これ、腕にビビっときて、治療されてる~って感じ。
超気持ちいい!
そのあとに、整形外科でやっているようなレーザーのピンポイント照射。でも、ここではセルフじゃなくて、ちゃんと先生が当ててくれるし、先端が熱いので、気持ちいい。最後に置き鍼を2か所に貼ってくれて、終了。
うわ、効いた!って感じ。
これをできるだけ毎日続けた方がいいらしいけど、1回でもかなりスッキリしたわ。
いいところを見つけてよかった!
来週から通いますわ!
PS:腕に貼ってもらった置き鍼は、お風呂入ってもとれませんって先生は言ってたけど、今朝、寝てる間に、くっちゃんにイタズラされて、気づいたときは既に遅し!
1コ行方不明です。。。


生まれた場所。。。
ここはどこでしょう???

正解は、南青山6丁目にある、クロムハーツトーキョー。
実は、10年前まで、私の実家があったところ。
私が生まれた頃は、港区赤坂青山高樹町3番地、という長ったらしい地名でした。

60年も昔の青山のお話を少しーー
あの当時は、青山も原っぱがいっぱいで、水たまりにはミズスマシとかゲンゴロウとかも泳いでいたの。
当時、青南小学校があった通りは(今は高級ブランド店がズラリ並んでいるけど)、それこそお屋敷通りで、大きな家がいっぱい立ち並んでたわ。
いちばんのお気に入りは、アメリカ映画に出てきそうな素敵な白いおうち。それがジャズ評論家の小島正雄(この名前、何人の人が今知ってるかなあ?)の家だってことを教えてくれたのは、母だったかしら。
彼はとてもアメリカナイズされた素敵なダンディだったので、家を見て、さすがって感心したし、こんな家、とても私は住めないだろうなあって思ってた。
ほんと、今もそれって叶ってないわ。。。
我が家は根津美術館のすぐ近くだったけど、子供だった私は、大人たちが口にする「根津さん」のこと、完全にフツーの家だと信じてました。
そして、「根津さん」の庭には底なし沼があって、そこで子供が溺れ死んだというまことしやかなウワサまで流れたりして、ウブな私はそれを完全に信じちゃった。
当時、私にとって根津さんは恐怖の代名詞だったの。
青山通りには、その頃から紀ノ国屋スーパーがあったらしいけど、私たちが買い物するのはそんなシャレた場所じゃなくて、近所の八百屋やお肉やさん、魚やさん。
お豆腐やさんは独特の笛を鳴らしながら、夕方になるとやってくる。焼き芋やもよくやってきた。
家を出て1つ曲がると都電が走っている通り。今の「骨董通り」です。
あの頃は都電の線路が道の真ん中にあり、頻繁に都電が走っていたの。
渋谷に行くときは、都電かタクシーと決まっていて、母は何かというとすぐにタクシーを拾う人で、渋谷や銀座の映画館とかは、タクシーで行ったもの。
なつかしいなあ。
これから、少しづつ、幼少時代の東京のことや、邦楽師という家業についても、お話していきたいと思ってます。。。

正解は、南青山6丁目にある、クロムハーツトーキョー。
実は、10年前まで、私の実家があったところ。
私が生まれた頃は、港区赤坂青山高樹町3番地、という長ったらしい地名でした。

60年も昔の青山のお話を少しーー
あの当時は、青山も原っぱがいっぱいで、水たまりにはミズスマシとかゲンゴロウとかも泳いでいたの。
当時、青南小学校があった通りは(今は高級ブランド店がズラリ並んでいるけど)、それこそお屋敷通りで、大きな家がいっぱい立ち並んでたわ。
いちばんのお気に入りは、アメリカ映画に出てきそうな素敵な白いおうち。それがジャズ評論家の小島正雄(この名前、何人の人が今知ってるかなあ?)の家だってことを教えてくれたのは、母だったかしら。
彼はとてもアメリカナイズされた素敵なダンディだったので、家を見て、さすがって感心したし、こんな家、とても私は住めないだろうなあって思ってた。
ほんと、今もそれって叶ってないわ。。。
我が家は根津美術館のすぐ近くだったけど、子供だった私は、大人たちが口にする「根津さん」のこと、完全にフツーの家だと信じてました。
そして、「根津さん」の庭には底なし沼があって、そこで子供が溺れ死んだというまことしやかなウワサまで流れたりして、ウブな私はそれを完全に信じちゃった。
当時、私にとって根津さんは恐怖の代名詞だったの。
青山通りには、その頃から紀ノ国屋スーパーがあったらしいけど、私たちが買い物するのはそんなシャレた場所じゃなくて、近所の八百屋やお肉やさん、魚やさん。
お豆腐やさんは独特の笛を鳴らしながら、夕方になるとやってくる。焼き芋やもよくやってきた。
家を出て1つ曲がると都電が走っている通り。今の「骨董通り」です。
あの頃は都電の線路が道の真ん中にあり、頻繁に都電が走っていたの。
渋谷に行くときは、都電かタクシーと決まっていて、母は何かというとすぐにタクシーを拾う人で、渋谷や銀座の映画館とかは、タクシーで行ったもの。
なつかしいなあ。
これから、少しづつ、幼少時代の東京のことや、邦楽師という家業についても、お話していきたいと思ってます。。。