日本の近代彫刻の草創期、明治末から大正時代に肺結核で命を奪われた芸術家のひとりに中原悌二郎(1888~1921)がいる。

 

 中原は北海道の釧路に生まれたが叔父の養子となって旭川で育った。やがて画家を志望して友人と東京に出て貧乏に耐えながら白馬会研究所や太平洋画会研究所で画の勉強をし、中村彜や鶴田吾郎ら多くの友人を得た。

 

 1908 明治41年にはヨーロッパから帰国した彫刻家荻原守衛(碌山)を中村とともにしばしば訪ね、相馬夫妻とも知り合い、彫刻とロダンへの関心を深めていった。やがて1910年の守衛の突然の死に会い彫刻家になる決心をしたという。この辺の事情については中原自身が次のように書いている。

 

「最初洋画より彫刻に転じるに至った動機は丁度明治四十一年頃でした。故荻原守衛氏が仏蘭西から帰ってこられたのに遇い、其の作品を見まして非常に感激し、屡々同氏を訪問して、芸術上に関する種々の教訓指導を受けました。此の時に私は彫刻に対する芸術的観念を得たものと言ってよろしいのです。そして非常に彫刻を愛好するに至りました。尚又私は同氏を通じてロダンを知りました。是が又私に恐しい感激を与えたのです。ロダンの力強い熱情的な芸術は、私の心を躍らせ、全く私の心を捕えてしまったのです。」 (「彫刻家になった動機及びその態度」 1916年10月 『彫刻の生命』 所収 中央公論美術出版 1969年2月)

 

 やがて1918 大正 7年には新潟県長岡出身の伊藤信(1892~1954)と結婚して日暮里に新居を構え、平櫛田中・石井鶴三らと彫刻の制作に励んだ。中原の代表作であり、日本近代彫刻の秀作の一つとされる 「若きカフカス人」 が制作されたのは翌1919年のことだった。(写真)

 

 

 

 

 

 中原は新宿中村屋の相馬黒光の紹介で知り合ったロシア西部のコーカサス地方出身の青年ニンツアをモデルに、中村彜のアトリエで頭部の彫刻制作を始めたのだが、その途中でモデルを嫌がったために未完成の作品になってしまった。その辺の事情は妻の信が後に著書 『中原悌二郎の想出』 に次のように書いている。

 

「八月に入りまして、中原はこのニンツアをモデルに頼んで、ちょうど中村さんが水戸の方へ転地して居られて、留守の画室を借りて、そこで制作する事になりました。…一週間ばかり過ぎた時でした。画室から帰ってまいりました中原が申しますには、ニンツアが近頃モデルになるのを嫌だなどと言い出して困るというのです。…(ニンツアは像を毀すという)…未成のその像を見ているうちに、ニンツアの虚無的、野性的、破壊的な内部をさながらに現わしているようなその肖像に…(本当に壊すかもしれないと思い)…それでその像は未完成のままで打ち切り、「うっかりして、毀されでもしたら大変だから、持って来てしまったよ」 そう言って、その原型を家に運んだ中原は、早速、石膏にとりました。…しかしその石膏も、家に置いては、ニンツアの眼にふれる危険がありますので、直ぐにブロンズ屋に移されました。」 P.129-132

 

 これまで何回か紹介した新宿下落合に保存されている画家中村彜のアトリエでは彼の代表作 「エロシェンコ氏の像」 などが描かれたが、彫刻家中原悌二郎の代表作 「若きカフカス人」 制作の舞台にもなったことはあまり知られていないかもしれない。アトリエの前の庭は中村や中原の友人たちが何回も友情に満ちたささやかな宴を催した場所でもあった。

 

 結婚してわずか 2年 3か月で中原悌二郎と死別した信だが、彼との思い出を書いて出版するばかりになった所を戦災で原稿が失われてしまったという。1945年 5月のことである。しかし信は諦めずに再び原稿を書き上げた。彼女の悌二郎への深い思いに心打たれるが、生前に出版することはかなわず、それが実現したのは彼女の没後26年余の1981 昭和56年だった。(写真、彫刻の写真も同書から)

 

 なお明治末から大正時代に彫刻家を志した青年たちは(もっと後の世代の人たちも) まだロダンの作品の実物をほとんど見ることができなかった。写真を見て想像するか、帰国した人の話を聞くかだったが、彼らに特に大きな影響を与えたのがロダンの言葉をまとめた本の翻訳書だった。中原悌二郎の先の文章の一節に次のようにある。

 

「ロダンを愛好する私にとって、其の思想なり物の見方なり、及び彫刻上の手法に就いて、多くロダンの影響を受けて居るのは已むを得ない事なのです。此の彫刻上の手法については、高村光太郎氏、木村荘八氏等の翻訳になったロダンに関する著書の中に、ロダン自ら出来るだけ細かに、出来るだけ具体的に説明して居ります。是等の著書は、私の反復愛読して居る処のものなのです。」(「彫刻家になった動機及びその態度」)

 

 ここにある著書とは高村光太郎の 『ロダンの言葉』(1916年11月 阿蘭陀書房)と木村荘八の 『ロダンの芸術観』(1914年2月 洛陽堂) のことだろう。これらの本が彼らに大きな影響を与えたことはかつて小文 「彫刻家のバイブル」 で書いたことがある。

 

 なお、中原悌二郎の彫刻作品は25点だが、自ら毀したものもあり現存するのは12点。そのすべてが北海道 旭川市彫刻美術館に収蔵されている。また1970年の第1回中原悌二郎賞受賞の木内克(よし)の多くの作品をはじめ、以降の受賞者の作品もたくさん収蔵しているので、この美術館は非常に充実した近現代日本彫刻の美術館ともいえよう。

 

 

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