民芸運動の指導者柳宗悦は、1957年12月に雑誌 『心』 に 「日本の眼」 という一文 を寄せて、東京の国立近代美術館の月刊ニュース 『現代の眼』 について、「現代の眼」 が 「西洋の眼」 であるのに大いに反発を感じると言い、なぜ 「日本の眼」 を標榜しないのか、「日本はもう 「日本の眼」 に確信を持ち、それを世界に輝かすべきだと思われてならぬ」 と、「日本の眼」 についての柳の考えを縷々(るる)述べている。ながいこと民芸(民衆的工芸)の美の発見と創造にかかわり、思索を深めてきた柳宗悦の所説には説得力があるが、しかし、私は 『現代の眼』 は 「西洋の眼」 であってよいと思っている。

 柳がこの文章を書いた頃、即ち国立近代美術館が開設されて 『現代の眼』 が発行されるようになった頃は、実は多くの日本人がはじめて身近にヨーロッパの近代美術=西洋の眼に接することが出来るようになった時期だった。それ以前は外国に行くことの出来た極めて少数の人を除けば、ヨーロッパの美術は主として写真か画集でしか見ることのできない世界だった。近代の絵画や彫刻に直接ふれることによって 「西洋の眼」のなんたるかをはじめて多くの日本人が学ぶことの出来る時代がやっと到来したのだった。だから柳の主張は時代の状況からすれば適切とは言えないので、当時は 「西洋の眼」 と 「日本の眼」 の両方を必要としていたのだと言えよう。

 柳が 「日本の眼」 を書いた1957年は昭和32年だが、この昭和30年前後はヨー ロッパ近代美術と日本人との関係が大きく変化した画期的な時期だった。東京の京橋に国立近代美術館が開館したのが1952(昭和27)年12月、松方コレクションが返還 されて上野に国立西洋美術館が開館したのは1959(昭和34)年6月で、この結果絵画 ばかりではなく彫刻家ロダンの作品もたくさん鑑賞することが出来るようになった。 これより早く1952年1月には京橋にブリヂストン美術館が開館、その前年1951年の11月には神奈川県鎌倉市に県立近代美術館が開館して 「セザンヌ・ルノワール展」 が開かれている。さきの 『現代の眼』 が創刊されたのは1954(昭和29)年12月である。 このように昭和30年前後には、これまで岡山県倉敷市の大原美術館くらいしかなかった近代美術館がやっといくつか誕生してヨーロッパ近代の美術がわれわれの身近な存在となったのである。その後バブル期に全国各地に近代美術館が開設されて欧米ばかりではなく日本の近現代美術も身近になってきたが、最近は不景気の影響もあり財政や運営で深刻な転機に立たされている美術館が多くなっていると聞く。日本の文化面での底の浅さを痛感するばかりだ。
 

 
 奈良や京都の古建築と仏像に親しんでいた私がヨーロッパ近代の美術にも関心を深めるようになったのは、まさに上にみた近代美術館開設の時期と重なっていた。ブリ ヂストン美術館で出会った左手を前に伸ばして立つロダンの少女像(立てるフォーネス、 大理石)に感動したのは私の若さ-年齢のせいであったかもしれないが、やがて近代美術館や西洋美術館に通っては自分なりに 「西洋の眼」 を感じとっていった。

 『現代の眼』 創刊号の表紙を飾った写真は荻原守衛(碌山)の彫刻 「坑夫」 である。 ロダンの彫刻に感動し、ロダンに学んだ碌山が日本に持ち帰った数少ない滞欧作の一つで、日本近代彫刻の確かな一歩を示す作品だった。当時この 「坑夫」 と代表作 「女」 がすでに国立近代美術館に収蔵されていたかどうか記憶は定かではないが、おそらく近代美術館で碌山の作品のいくつかを見たのだろう。私の碌山への関心は深まってい った。碌山の故郷である信州の穂高町に碌山美術館が出来る何年も前のことである。当時は碌山についての研究書などはなく、碌山没後に編まれた遺文集 『彫刻真髄』(1911年刊)と、縁の深かった新宿中村屋の女主人相馬黒光の書いた 『黙移』(1936年刊)を上野の国立図書館で読んで碌山に近付くことくらいしか出来ず、碌山の作品をもっと見ようと思ったら信州の生家を訪ねるしかなかった。


 
 
  古い手帳を調べてみると私がはじめて碌山の生家を訪ねたのは1954 昭和29年の8月で、このときは一人で生家を訪ねた後に木曽馬籠の藤村記念館に足を伸ばし、恵那山(2190m)にも登っている。藤村が長編 『夜明け前』 で 「山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。」(序の章)と書いている馬籠は、この頃はまだ観光地化していないで古い宿場の面影を残していた。恵那山へは背丈ほどの笹をかき分けるように登った。また一夜を過した神坂峠近くの山小屋では草鞋のような五平餅をご馳走になったのを覚えている。今は中央自動車道の恵那山トンネルが神坂峠の下を通っているが、古代には西からの官道は神坂峠を越えて伊那谷に抜けていたという。

 碌山の生家へは穂高駅の手前の柏矢町(はくやちょう)駅で降りると近い。松本で大糸線に乗り換えて北へ30分ばかりのところだ。西には常念岳を間近にアルプスの山々が連なり、東に緩やかに傾斜した地形で、町の東の端を上高地から下ってきた梓川(犀川)が北に向かって流れている。生家は梓川に近い穂高町の矢原にあるが、この辺りには万水(よろずい)川をはじめアルプスの伏流水を集めた小さな流れがいくつもあり、平地には珍しいワサビの栽培で知られている。


 
 
 
 碌山の生家(写真)は静かな田園風景の中を東へしばらく歩いたと ころにあるごく普通の農家だが、瓦葺の離れに碌山の作品は大切に保管されていた。 雨戸を開けて通された離れは庭に面して廊下があり、部屋は3間半に2間半の広さで、そこに作品が並んでいた。部屋の中央には大きな 「デスペア」 が置かれ、その前には小さな机があって芳名録が置いてある。その奥には右から 「宮内氏像」 「女の胴」 「爺」 といった作品が並び、部屋の右手には奥から 「坑夫」 「銀盤」 「小児の首」 「北条虎吉像」 が置かれ、手前の本箱には蔵書や日記が収められていた。部屋の左手には奥から 「文覚」 「香炉」 「女」 「灰皿」 「米国友人の肖像(メダル)」 「労働者」 が並び、手前には戸張孤雁作の 「碌山母堂像」 が置いてある。私は部屋に上がりこんではじめて見る多くの作品をじっくりと眺めた。碌山は病気で急逝したために作品の数はそれほど多くはないが、その全作品がこのように大切に保管されているのは驚きで、家族の愛情を深く感じた。
 
 
 
 1910 明治43年4月に32歳の若さで碌山が亡くなると、しばらくはアトリエを改築した建物の二階に作品を保管し碌山館と称して公開していたが(アトリエは中村屋の近くにあった)、1916 大正5年に生家に移して訪問者に公開して今日に至ったという。私は好意に深く感謝して生家を辞した後に近くの墓地にある碌山のお墓(写真)に参り、中村屋主人相馬愛蔵生家の前を通って帰途についた。相馬家には、碌山がはじめて見た油彩画(長尾杢太郎画)の飾ってあった木造の洋館がいまも建っていた。
 

 
 この生家訪問から10年後に東京大森の古書店で碌山の遺文集 『彫刻真髄』 を入手することが出来たが、その本に一枚の新聞の切抜きが挟まっていた。それは一氏義良という人の 「碌山館を訪ふ」 と題した文章で、1933 昭和 8年10月1日の 『東京朝日新聞』 に掲載されたものだった。

 日頃碌山を敬愛していた訪問記の筆者はふとした機会に生家に作品が残っていることを知り、訪ねることになる。まず碌山の幼友達だった町長に会い、その案内で生家に着いた。
 ゆたかな中流以上の農家らしい。高いわらぶき屋根と、庭前の土蔵、納屋の一かたまりの前に車がとまる。門はない。雨の中を進むと、家から若い人が出て導いてくれる。本屋のすぐ奥に、狭い中庭を隔てゝ別棟の瓦ぶきの一戸建がある。十畳ばかりの、畳を敷いた純日本風の一室で、そのぐるりに荻原の遺品がならべてある。心を踊らしながら、われわれは靴をぬいで、縁から室に通った。
 「まづ、床の正面に飾られた故人の肖像(写真)にぬかづき、その左右にある遺愛の品々」 を眺めた。「左の地袋の上には、かれの一代表作である 「トルソ」 がくすぶっ て」 いる。「室の、他の二方に、壁ぞひに三四尺の高さのたなをしつらへて、そこへかれの代表的な作品が十点ばかり置いてあ」 り、「文覚」 「女」 「デスペア」 についての感想が語られる。そして、「こゝにある作品でもっともすばらしいのは 「坑夫」 であらう。」 「場中髄一の作である」 と 「坑夫」 を絶賛している。「われわれは作品の一つ一つに感激したが尚、室の天井に近い上部には、かれの油絵が七つ八つかけてあった」 とも書 いている。やがて町の助役をやっている碌山の長兄が帰宅して、故人のことや遺作保管のいきさつなどを聞くことができた、と書いてある。

 この訪問記は、碌山の作品についての感想はともかく、昭和初期の碌山館の様子を伝える貴重な記録となっている。そして最後に記された 「碌山のコレクションを生家に蔵するのもよからうが、もっとよい意味での現代的の方法によって、少くとも芸術の熱情にもえる若人たちにでも見させる意味で、穂高町か松本市かで、もっと公共的な、陳列館の施設はできないものか?と口を極めて勧説した。」 とある部分を私は特に意味深く読んだ。

 ところで1971 昭和46年に筑摩書房から出版された 『荻原守衛写真土門拳』 という大判の本がある。守衛の文章と土門の写真を組み合わせたものだが、不思議なことに土門の写真がいつ、どこで撮影されたものかどこにも記されていない。なぜだろうと思っていたら臼井吉見の大作 『安曇野』(1965年刊、筑摩書房)第1部巻末の 「作者敬白」 に 「土門拳氏にたのんで、碌山荻原守衛の生家に蔵されていた遺作の写真を撮ってもらったのは、戦争中のことであった。「荻原守衛」 と題する出版を考えていたからである。」 と書いてあるのを見つけた。とすればこの本には碌山美術館(建物)の写真が載ってはいるが、実は美術館が出来る以前に生家で土門拳が撮影した貴重な写真集で、臼井吉見の夢を実現したものなのかもしれないと思った。
 

 
 
 
 
 さて、はじめて碌山館を訪ねた後に馬籠に足をのばしたとさきに書いたが、そのときには脇本陣の蜂屋哲郎さんから藤村記念館(最初は記念堂といった)が建てられたいきさつをお聞きした。藤村の生前には小説 『新生』 に書かれたようなこともあったりして故郷での評判はあまりよくなかったが、1943 昭和18年に藤村が亡くなり村の代表として蜂屋さんが葬儀に参列して改めて藤村の偉大さに驚嘆し、郷土での記念事業を思いたったという。当時はせっかく馬籠を訪ねてきても何もないので失望して帰る人が見られた。そこでふるさと友の会を作り会員を募って資金を集めるのに奔走した。この結果1947年に藤村記念堂が開館したそうである。いまは馬籠観光の目玉として多くの人たちが訪ねてくるが、入口には、「血につながるふるさと/心につながる ふるさと/言葉につながるふるさと」 という藤村の言葉が刻まれている。しかし私には荻原碌山と穂高町こそがよりこの言葉にふさわしいように思われてならない(2004年2月、馬籠の属する長野県山口村の住民多数が岐阜県中津川市への合併に賛成し、翌年2月に中津川市に越県合併した)。


 
 
 
 信州安曇野の農村に生まれた守衛少年が彫刻家碌山になるまでのいきさつは、家族をはじめ故郷の人々との深いかかわりを抜きにしては語れない。村の先輩で後にパンの中村屋として東京新宿で成功した相馬愛蔵、妻良(黒光)、青年教育に情熱を注いだ内村鑑三の影響を受けた井口喜源治は私塾研成義塾の恩師である(穂高町に井口記念館がある)。それにキリスト教に傾倒したが後に日本最初の社会主義政党である社会民主党の結成に参加した松本出身の木下尚江などなど、こうした人々とのことはさきの 『安曇野』(全5部のうち1・2部)に詳しく描かれている。そしてだいぶ後になったが 「碌山館訪問記」 筆者の期待にこたえるかのように南安曇教育会に碌山研究委員会が1953年に設置され、多くの人たちの力を集めた碌山美術館が1958 昭和33年4月に開館 した。国立西洋美術館が開館する前の年である。この間に信濃教育会が 『彫刻家荻原碌山』 を上梓し、相馬安雄らの努力で彫刻の全作品が鋳造されて穂高町教育委員会に托された。
 
 
 
 
 
 開館時の 「碌山美術館の栞」 には、美術館の建設に尽力した彫刻家笹村草家人が 「私達の民間美術館」 と題して、「碌山美術館は二十九万八千八百七十六人の意志によって 北アルプス迫る穂高の町に生れた。これは我国近代彫刻の開拓者荻原碌山の作品その他を永久に保存し公開することを第一にする。それから、碌山と深い関係のあるすぐれた一群の芸術家の作品も合わせて保存し、その交流の渦を明にするものでありたい。 ……」 と書いている。日本ではじめての彫刻家の個人美術館の誕生である。

 穂高駅の北、線路際に建てられた教会風の美術館は、当初は周囲に植えられた樹木もまだ小さいためになにやら裸で寒々とした印象だったが、いまは成長した樹木が茂り、新館も建てられて内容も大いに充実し、開館当初の願いはほぼ実現したと言えよ う。近年観光地として賑わうようになった安曇野にあって碌山美術館が風格のある大きな存在となっているのは、誕生以前の様子を多少知っている私としては大変にうれしいことである。ただ、碌山の生家が1970年4月に失火により焼失したとの報には愕然とした。もし美術館が建設されていなかったらと思うと身の震える思いがした。 故郷の人たちの熱い思いにたいする美の女神の慈しみの現われだったのだろうか。(写真はすべて1961年 8月に撮影したものです)
 
 
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