碌山美術館の入口から教会風の本館に向かう途中にこの作品があります。なんの説明もないので、なぜここにあるのか、どんな作品なのか見る人には分かりません。台石に 「労働者」 「明治42年(1909)」 とありますが、立止まる人は少ないです。

 

  碌山はこの年の第3回文部省展覧会に 「北条虎吉像」 とこの作品を出品しました。北条虎吉は東京で商売をしていた兄の知り合いで、この作品は3等賞になり今は国の重要文化財となっています。「労働者」 は農夫をモデルに苦心して作ったようですがあまり評判にはならなかったようです。

 

 この展覧会の彫刻について高村光太郎が長文の批評を雑誌 『スバル』 に書いています。この雑誌は森鷗外が後援して北原白秋・石川啄木ら若い詩人・歌人が活躍した文芸誌です。「北条虎吉像」 について光太郎が書いています。

 

 「此の作には人間が見えるのだ。従って生(ラ ヴィ)がほのめいてゐるのだ。僕が此の作を会場中で最もよいと認める芸術品であるといふのは此の故である。」 と、そして 「労働者」 については問題点を指摘しています。

 

 「この作には確に生(ラ ヴィ)の片鱗がある。と同時に、確に大きな空虚がある。その片鱗と空虚とが瞬間毎に交叉して現れる。(中略) 僕はつひに其を背中の肩胛骨のあたりからかけて、頸、頭、頬杖をしてゐる右の腕の間に追ひつめてしまった。その片鱗は確かにこの部分に巣をくってゐるのである。此のあたりにはMOUVEMENTがある。TOUCHEを通じて其の奥に生きたものが見える。殊に顔面は確かである。と思ってゐる中に大きい体の方から空虚の雲がむらむらと湧いて来て、その好い感じを被ってしまふ。」 と、彫刻家の眼で親友の作を厳しく批評しています。(『高村光太郎全集』 第6巻)

 

 碌山は展覧会が終ると 「労働者」 の左腕と両足を切ってしまい、今見る姿になったそうです。果たして親友の厳しい批評に納得したからでしょうか?

 

 ところで会場でこの作品の絵葉書を買って友人に送った人がいます。石川啄木です。葉書には短くこんなことが書かれていました。

 

 「昨夜は失礼、今暁帰ってまゐりました、御安心被下度候(くだされたくそうろう)、明日から社にも出かけるつもりです、今日展覧会へ行って来ましたよ。 夕、 はじめ  金田一京助様」1026日付、『石川啄木全集』 第7巻

 

 帰ってきたのは妻節子で、姑との確執で子を連れて盛岡の実家に家出していたのでした。啄木には人生の大きな危機でした。帰って来た妻を誘って展覧会に行ったようですが、絵葉書には両手両足のある 「労働者」 の写真があります。当時啄木は朝日新聞社に勤めていました。

 

 かくて 「労働者」 の最初のようすを知ることが出来ますが、作者碌山の頭の片隅にはロダンの 「考える人」 があったのではと、私は想像します。もし 「考える人」 のように右ひじが左足の上に乗るならば無理な姿勢のために体全体が緊張します。それでは 「考える人」 と同じになるので右足に乗せた結果両足・左手が楽になってしまい、緊張は右上半身に集中します。これが光太郎の批判であり、碌山が手足を切った理由ではないかと私は考えますがどうでしょうか。