無知のチ
ショパンのエチュードを開いて眺めていると集中力が自然と沸いてくるらしい。
さっきは書くことが中々出てこなかったのだが、今は沸々と思考が沸いてくる。
パパともママとも弟とも、じいちゃんともばあちゃんとも距離を感じる。
まるで見ず知らずの人にでもなってしまったみたいだ。
これも自己同一性拡散の症状の一つなのだろうか。それとも自分自身を受容していないからか。
その前に、自己の同一性が拡散した状態で自己受容って無理な話だろ!
受容する事が拡散状態を改善することとなるのか。これはもうエリクソン読むしかないのか。
しかし、心理学書を読んでいるときのあの孤独感と恐怖感は一体何なのだろう。
自分を押し込めて、自分の枠を超えて、何者かになろうとする自分。
変化したい、成長したい自分。
最初は力出しすぎて焦ってうまく進めなかったが、今は着実に歩いていくコツを掴んでいる。
去年の今頃も死ぬほどの努力してたのに、全く進めなかったんだよな。
今は一歩一歩進む感じと先が見える。
これはもうほぼ自己同一性の拡散は改善してると考えられるのではないだろうか。
勉強不足で知識不足だが、今の自分は・・
そうだ!あのトンネルに入る寸前に完全に土砂に埋もれて自分の姿を、
自分というものを見失ってしまったイメージがあったが、つまりそれは自己の拡散状態を現したものだったのだろう。
今はいる。しっかりと歩もうとしているもう1人の自分の姿が。
埋もれた自分が動くのを、トンネルの向こう遥かに続く明るい出口(新たな出発の地点なのであろう)を見据えながら
待っている新しい自分がいる。でも今まで閉じ篭っていた自分は中々動いてくれない。
傷つくことに恐怖し、あるいは怠心もあるのだろう。
うーん、どうすればいか。こういう場合は。
無理に閉じ篭る自分を厳しく律してもダメだ。
毎日を大切に、時間を大切にして生きていくことで自然と顔を出してくれそうだな。
目標はしっかりとある。それに向かうことが今は特に大切なんだ。
埋もれてしまった自分を、すぐ後ろで優しい様子の自分が見守っていてくれている。
大丈夫。自分を信じて。
怖がっていても仕方がない。
限られた人生、「自分だけの」とう言葉は自己中心過ぎるようで嫌いなのだが、
自分には必要な自己中心性が少なすぎる。他者中心性が強すぎるのもよくないのだろう。
必要な自己本位を身につけるためにも、毎日の生活習慣を立て直していこう!
それこそが、自己を立て直すこととなるはずだ。
ばしょうとそら
先日、美味しい洋菓子店を見つけた。
一つ一つのお菓子が大切に作られていて、手作りの温もりと熟練された技術の両方を持ち合わせた味わいに、
これだ!と感じた。
洋菓子でも音楽でも本でもそれらを生み出す人間でも、自分との共通を感じるものに出会ったとき、
何ともいえない嬉しさや安心感が体全体に湧き起こる。
「脳とクオリア」に出会った時のあの感動と胸の躍動は忘れられない。
あの時から何年経っただろう。
大学を辞めて、途方に暮れながらもお気に入りの大型書店の心理学コーナー
(今は自然哲学の棚に置いてある)でタイトルに惹かれ偶然手に取ったその本は、
一気に私の意識を引き込んだ。
面白かった。スラスラと字を追い、爽快な気持ちになった。
当分して、NHKの番組に出演しているのを見て「この人だ!」とテレビに丸かじりになった。
髪がモサモサして、顔もプチャっとして可愛いじゃないか!
子供に対する態度も自然で、人柄にも好意が持てた。
今はもうテレビや雑誌などでも引っ張りだこの時代の人となったが、
この人の存在は、自己実現への努力と、生きる熱意を教えてくれる。
月落ちる 芦田川にぞ 恋偲び
去年の末辺りだっただろうか。
夜の静寂した芦田川に月がくっきりと映っていた。
てらてらと妖しく光る川面に、まるで愛しいものに抱きつくかのように
月が落ちている。
川にかかる橋に歩を進めながら、恋に積極的な面のある自分を思い出した。
はっと自然と句が頭に浮かんだ。
5・7・5の限られた枠の中であるが、行き場をなくした感情が
全て綺麗に収まり、体外に排出されたかのようであった。
スッキリ爽快!
同時に、今の自分の境地に気付かされる。
まだだ。もっと、もっと、上っていこう。
スーパーでの買い物時に自分と同年代の恋人をよくみかける。
2人を包む空気はいつも絡み合っていて、他との異質さを感じる。面白い。
自分にもいつか大切な大切な愛しい人が現れるかな。
今の自分は一体どんな恋をするのだろう。
恋は私の現実を彩ったものに変えていくんだろうな。
その時、私のピアノはどんな音色を奏でるだろう。