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『混一疆理歴代国都之図(混一図)』
『興亡の世界史09 杉山正明 モンゴル帝国と長いその後』講談社 98頁より
表紙の『古地図』はモンゴル(大元国<ダイオンウルス>)時代のもので、名称は『混一疆理歴代国都之図』(こんいつきょうりれきだいこくとのず)です。これ自体はヨーロッパまで含む世界地図であり「阿魯尼阿」(アルマニア=ドイツ)、「法里昔」(パリス=パリ〈フランス〉)が記述され、他にもフラグ汗が収めていたアゼルバイシャン地方「麻那哈」(マラーガ)、「撤瓦刺渓」(ダブリーズ)、中東においては「八合打」(バグダード)や「馬喝」(マッカ=メッカ)、東アフリカの「麻哈苔采」(モガディシオ)などがあります。時代的には、四種の写本に基づき各種データから導き出した年代はおよそ1313~1318年ごろ(下限)、また十三世紀末から十四世紀になって地中海域に勢力を広げたアラゴン連合王国の姿が推知されることなどから、上限は1290年代以前には遡らないことが明らかになります。
画像の参考書にも示されているように、この最先端の世界地図は各地で写本がなされています。
・中世と近世における日朝史
中世から近世初期へかけての日朝関係を特徴づけるものは、倭寇と豊臣秀吉の朝鮮遠征である。倭寇は、鎌倉幕府が倒れて南北朝対立の戦乱がつづいた時期に発生し、対馬、壱岐、松浦を根拠地として、朝鮮、中国の沿岸を荒らした。朝鮮に対する倭寇の本格的な侵入は一三五〇年からはじまり、高麗朝末から李朝初期へかけての約五〇年間猛威をたくましくし、高麗滅亡の一因になったとさえいわれている。
秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮側からいえばこうした倭寇を大規模にしたような侵略戦争であった。これは一五九二(文禄元)年四月から一五九三年四月にいたる「文禄の役」と、一五九七年(慶長二)年一月から一五九八年八月にいたる「慶長の役」に分かれるが、朝鮮では総称して『壬辰倭乱』あるいは『壬辰祖国戦争』と名づけている。前後七年にわたった戦争は日本国内にも大きな損害をもたらしたが、朝鮮側は比較にならない甚大な被害をこうむった。
莫大な数の人間が殺され、餓死し、あるいは捕らえられた。生き残った民衆の多くも、難民、飢民、盗賊となるほかなく、都の景福宮(王宮)をはじめ、おもな建物はほとんど消失し、活字、書籍、宝物、美術品が焼けたり日本軍に奪われたりした。日本軍は大勢の活字工、製紙工、陶工を捕えて帰り、それによって印刷、製紙、陶磁器生産を飛躍的に向上させた。
秀吉のあと天下をにぎった徳川家康は朝鮮との平和的な関係の回復につとめ、一六〇七(慶長一二)年、国交回復に成功した。徳川幕府と李王朝のあいだには朝鮮から派遣される使節を通じて礼物交換をおこなう制度ができ、対馬の宗氏を窓口とする貿易も再開された。「通信使」呼ばれる朝鮮の使節団は一六〇七年から一八一一(文化一八)年までの二〇〇年間に一二回来日した。
毎回五〇〇人に近い人数で構成された使節団は、美しく行列をかざりたて、釜山から対馬、下関、兵庫を通って東海道をくだり、江戸城で将軍と交歓して帰った。幕府はこの使節団の歓迎を鎖国体制下における将軍一代の盛儀、内外の権威を誇る行事として重視した。それは朝鮮の文化をとり入れる機会とも考えられ、江戸文化にも大きな影響をおよぼした。
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 44~46頁より
・江戸時代の朝鮮観まとめ
次回は、日韓併合そして日本の朝鮮統治について述べ、国連や朝鮮戦争、ジュネーブ会議など近現代を紐解く上で重要な「戦後史」につながる形で、南北朝鮮の実像に迫っていきたいと思います。
<参考資料>
・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会
・『興亡の世界史09 杉山正明 モンゴル帝国と長いその後』講談社
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