前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その13(繰り広げられた集会やデモ)‐

 

 

・自民勝利、広まぬ『日韓会談』の重要性

 

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)指導部の機敏さにくらべ、日本の安保批判勢力は、日々進展する情勢の展開に有効に対応しきれない弱点を露呈した。

 

 

『第6回参議院議員通常選挙』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99

 

1962年6月7日公示以来、翌7月1日投票第六回衆議院通常選挙の闘争に入りましたが、その選挙運動も日韓闘争と巧みに結合し得なかった。

 

選挙結果を見ての通り、自民党の安定性は変わらず、日本としても『ひとつのレール』から外れることはありませんでした。

 

60年安保の行動もむなしく、そうなった主な原因は、日韓会談反対運動が、日本国民全般に広く深く伝わっておらず、したがってまた安保国民会議を本格的に動かすまでに至ってなかったことに尽きます。

 

韓国(南朝鮮)の政情に混迷が生じるや、それが日本人に「追い打ちのチャンス」として映らず、むしろ日韓交渉は停滞するであろうという「楽観的な材料」として受け取られた。

 

それは米日支配層(エスタブリッシュメント)が、どのような「ねらい」をもって日韓会談を推進しようとしてるのかという本質問題━「韓国」の政情不安定によって日韓会談は中止されるのではなく、そうなればなるほど、米日支配層は急いで「韓国」にテコ入れ(政治的・経済的)をして、極東における所期の軍事的、経済的目的を達成しようとする米日の一貫した意図━の理解が大衆的になされていないことの反映だったと、参考図書の畑田氏は指摘されます。

 

※所期‐期待すること。また、期待するところ。

 

7月1日の参議院選挙が終わり、同月17日には池田改造内閣が成立。つづく19日の改造後初の記者会見で、池田首相は、政暴法再提出、日韓会談促進、私鉄運賃値上げ、大学管理制度改正などの政策を公然と打ち出した。

 

 

・リベラル各団体の行動記録

 

1962年8月4日から第四一回臨時国会がはじまり、「日韓予備折衝」第一回会談が8月21日からスタート。この段階においてもなお、日本における日韓会談粉砕闘争の推進体は、中央においては在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)日本共産党および日朝協会にとどまっていた。

 

地方には安保共闘組織が指導性を発揮し、社会党も、前年の1961年12月15日付けで学習シリーズ第十七集として、『日韓会談』というパンフレットを発行。その後も版を重ねて、日韓会談反対にかなりの力を注いでいました。

 

1962年8月30、31日の中央委員会で「日韓会談の即時中止を要求する」特別決議を行ったが、大八回原水爆禁止大会の「混乱」を理由に、共産党との関係が悪化したため、同党を含む広範な統一行動としてたたかう姿勢は期待できなかった。

 

また在日朝鮮人たちは、八・一五における日本植民地からの朝鮮解放17周年記念集会を、事実上「日韓会談中止」を要求する行動として、中央や地方で一斉に開きました。中央では、日比谷公会堂に3500人の在日コリアンが集まって、日韓会談反対の気勢をあげた。それに引き続き、1962年8月29日には、東京在住の在日朝鮮人1000人が集まって日韓反対の決起集会を開催しました。

 

つづく9月9日(クー・グー)の朝鮮民主主義人民共和国創建14周年記念日にも、同様に在日コリアンたちは日韓粉砕の決意を固めました。

 

一方、共産党中央委員会は、1962年8月24日、またしても安保国民会議に対し「日韓会談粉砕の統一行動を展開するために国民会議幹事会を招集する」ことを申し入れる一方、実際には自ら民青と共催して、同年9月11日、東京の日比谷で『日韓会談粉砕、生活擁護総決起大会』を開き1万人を結集した。

 

これは参議院選挙後初の大規模な大衆行動として、日韓会談粉砕闘争の大きなのろしとなりました。息もつかず翌9月12日のアカハタは「日韓会談反対のため『安保反対、平和と民主主義を守る国民会議』の共闘を即時無条件で再開しよう」という主張を掲げた。

 

さらに日朝協会は、1962年9月の一ヵ月間『日韓会談粉砕期間』と定め、その内の9月12日には東京九段で同協会主催の日韓会談即時打ち切り要求大会を開き、地方代表を含め800人の参加を見ました。「日朝協会独自の集会」に800人の活動家が集まったということは画期的と見られた。

 

※日朝協会について

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その3(遅れすぎた朝鮮との接触)‐

 

日朝協会の呼びかけにこたえ、この月間には中央・地方で各種団体が独自に日韓会談反対の行動を開始。まず総評が、1962年9月10日(9月の粉砕月間)に国民会議を中心とした日韓会談粉砕の「統一行動」を盛り上げることを決定して注目された。

 

安保国民会議も、すっきりした行動方針を打ち出すまでに行きませんでしたが、同月間(日朝協会決定)の9月6日には幹事会を開き、日韓会談粉砕の統一行動について協議しました。

 

翌7日には、日朝協会、日中国交回復国民会議、全建労、日本平和委員会、民生などの代表は、外務省で大平外相と会見し、日韓会談即時打ち切りを要求。9月26日には、母親大会実行委員会が、日韓会談を打ち切るべきだと、外務省に陳情した。

 

また大衆的には、東京で9月10日『日韓会談粉砕、沖縄開放促進(当時は米占領下)』を目標に掲げた中野区民集会が、社・共・中野平民共闘の「共催」という形で行い、地方では、9月8日に山口県民会議が、3000人の代表を集めて『日韓会談粉砕・東北アジア軍事同盟反対山口県民集会』を開いたのや、9月21日には京都平民共闘主催の日韓会談粉砕京都大集会が、円山公園で3000人規模で開催されました。

 

そのように、全国いたるところで、安保共闘組織主催の日韓会談粉砕の集会が実施され、これらの動きと相まって、共産党はまたしても1962年9月25日のアカハタにて「安保共闘の全国代表者会議を開け」という主張を掲げ、同月28日に中央委員会幹部会が「全人民にたいし、日韓会談粉砕の大統一行動を訴える」を発表。つづく31日には、重ねてアカハタが「日韓会談をめぐる緊迫した情勢と安保共闘再開の急務」という主張を書きました。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

ブログランキングに参加しております。

皆さまのご支援が頂けるとありがたいです

(下のバナーをクリック)

 

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村