前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その3(遅れすぎた朝鮮との接触)‐

 

 

1823年に、ジェイムズ・モンロー大統領が「モンロー主義」として知られるようになった声明を出して以来、アメリカは地球全体で数え切れない国の事件に積極的に介入した。1946年の設立以来、特に中南米とカリブ海で、不安定化キャンペーンあるいは徹底的クーデターを通して、アメリカ介入で、CIAは重要な役割を果たしてきた。

 

1954年から2002年の間の,一ダース余りのCIA介入を見直しは、ベネズエラで一体何が展開しているかもしれないかの示唆に富んでいる。

 

グアテマラ、1954年 - CIAはユナイテッド・フルーツ社を支持し、ハコボ・アルベンス大統領に対し、いわゆるPBSuccess作戦を開始し、グアテマラ市に爆弾を投下した。

 

ハイチ、1959年 - CIAは傀儡独裁者フランソワ・デュヴァリエを打倒するための大衆運動を止めるため介入した。ある報告によれば「100,000人以上の人々が殺害された」。

 

ブラジル、1964年 - CIAはアメリカ多国籍企業に課税すると脅した民主的に選出されたジョアオ・ゴラール大統領に対するクーデターを支持した。

 

ウルグアイ、1969年 - CIA工作員ダン・ミトリオーネはオペレーション・コンドルの一部として治安部隊に拷問を教え込んだ。CIAは軍事独裁政権を据えたフアン・マリア・ボルダベリーが率いたクーデターを後押しした。

 

キューバ、1961年 -1959年のキューバ革命のあとの、 CIAに支援された亡命キューバ人による失敗したピッグズ湾侵略を監督した。フィデル・カストロを殺害するCIAの再三の試みが失敗した。

 

ボリビア、1971年 - CIAはフアン・ホセ・トレス大将に対するクーデターを画策し、猛烈な独裁を押し付けたウゴ・バンセルを据えた。

 

チリ、1973年 - CIAは、サルバドール・アレンデ大統領に対するアウグスト・ピノチェト大将のクーデターを支持し、17年続く独裁を押し付けた。

 

アルゼンチン、1976年 - CIAは、ペロン主義者を打倒する汚い戦争の一環として、クーデターで、ホルヘ・ラファエル・ビデーラ大将を就任させた。

 

エルサルバドル、1979年 - CIAは、オスカル・ロメロ大司教(1980年2月)と4人のアメリカ人修道女(1980年12月)の暗殺で頂点に達した大衆反乱を恐れて、1979年のクーデターを支持し、1984年、CIAはホセ・ドゥラテ選挙運動の資金を調達した。

 

グレナダ、1983年 - CIAは、1981年にマルクス主義政府を不安定にする取り組みを始め、83年、約1,000人のアメリカ人学生を守るという口実で、アメリカ海兵隊員がこの島を侵入するに至った。

 

パナマ、1989年 - CIAは長年の工作要員で麻薬密売者マニュエル・ノリエガを打倒するために「大義名分」作戦を計画し、一般人3,500人を殺害した。

 

ペルー、1990年 - CIAは、自ら国家情報院局長と命名し直し、議会を解散して、最高裁判所裁判官を閉じ込めたアルベルト・フジモリの大統領選挙を支援した。

 

ベネズエラ、2002年 - CIAは、クーデターの企てで、ウゴ・チャベス大統領を短期間退位させた反乱派陸軍士官連中を支持した。

 

CIAは同様に、地域で、多数の他の政治、軍事作戦に関係していた。

 

マスコミに載らない海外記事 『メイン号を忘れるな。ベネズエラでのCIA介入』より

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/cia-09e0.html

 

 

アメリカの「裏庭」で起きていることが、とおく太平洋を越えた「極東」でも起きている。

 

1958年4月15日、第四次日韓会談が開始された。

 

途中『沢田発言』②で反響を呼んだが、2年後の1960年李承晩政権打倒をめざす『四月革命』によって、事実上中断しました。

 

南朝鮮(韓国)民衆が、反李承晩で決起していた時期は、ちょうど日本国民が安保条約の改定に反対して立ち上がっていた時期に照応していました。

 

②『沢田発言』

 

一九五八年六月十一日「朝鮮懇談会」主催の集会の席上、第四次会談の日本側主席代表沢田廉三が、要旨次のような発言をした。

 

「日清・日露の両戦争はいずれも日本を脅かす勢力が朝鮮半島に進出してきたので、これを鴨緑江の外に押し返した戦いであった。われわれは三度立って三八度線鴨緑江の外におし返さねば先祖にたいし申訳ない。これは日本外交の任務である。日韓両国間に横たわる目前の諸懸案を解決するということもあるが、三八度線を北にかえすということに努力しなくてはならない。しかし、だからといって、軍備の少ない日本は武器をとって三八度線を北方にかえすということはできないが、外交と政治により三八度線があってもなきものとする」

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房 202頁より

 

 

 

『A級戦犯 岸信介 巣鴨プリズン』より

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12043128632.html

 

1958年10月14日、岸首相がNBC放送記者セシル・ブラウンに「朝鮮と台湾は日本の安全にとって絶対必要だ」と言明したが、これは北東アジアにおける三国民衆をいたく刺激しました。

 

いわゆる『日米新時代』が到来したという、日本国民の自尊心にむかえられるような宣伝文句を掲げながら、岸内閣がアメリカ当局との間に進めようとした安保条約の改定交渉は、誰しもが予想しなかった極東的、否、世界的民衆抵抗を呼んだと畑田氏は述べます。

 

なかんずく、当の日本民衆の闘争は、1960年の春を頂点として未曾有の盛り上がりをみせました。

 

これが『日米安保闘争』です。

 

 

国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日。当時国会前庭はまだ整備されていなかった。また憲政記念館が出来るのは12年後の1972年

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89

 

安保闘争(あんぽとうそう)は、1959年昭和34年)から1960年(昭和35年)、1970年(昭和45年)の2度にわたり日本でおこなわれた日米安全保障条約(安保条約)に反対する国会議員労働者や学生、市民および批准そのものに反対する左翼や新左翼の運動家が参加した反政府、反米運動とそれに伴う大規模デモ運動である。自由民主党など政権側からは、「安保騒動(あんぽそうどう)」[1]とも呼ばれる。

 

『安保闘争』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89

 

※『日米安全保障条約』の改定について

国内の大きな反対運動をが起こったが、5月20日に岸内閣は衆議院で強行採決、反対運動が続く中、6月19日に自然成立した。 この1960年に締結された条約を一般に新安保条約といい、さらに10年後の1970年に再改定されたので、現在の日米安保条約とはこの70年に改訂されたものを言う。

『日米安保条約改定/安保闘争 - 世界史の窓』より


https://www.y-history.net/appendix/wh1602-097.html

 

それに先立ち、1959年5月に開催された日朝協会の臨時大会では、日米安全保障条約改定交渉の即時打ち切りが決議され、日本の国会でも安保特別委員会における論戦は、新条約の条文にみられる「極東」の範囲とは何かをめぐり白熱化しました。

 

日本人による安保闘争をはげまして、中国民衆は、北京や上海など全国の主要都市で、100万~180万という大規模動員による群衆集会を連鎖的にひらいて共闘しました。

 

南朝鮮(韓国)では、あたかも日本民衆に呼応するかのように、学生たちを先頭とする反政府デモが高揚しました。日中朝三国の労働組合は、1960年5月2日に、アメリカ帝国主義をアジアから一掃することを目指して、ともにたたかうことを誓う旨の共同声明に調印し、アクティブな友誼を誓い合った。

 

安保闘争の波の中では、少なくとも「日韓会談反対」という叫びや言葉は、表面から姿を消していた。このことは、内容的に見れば、安保反対闘争は即「日韓会談反対」闘争でもありました。

 

その証拠に、安保闘争中は日韓交渉そのものは完全にストップして、いわゆる「日韓」体制の事実上の前進もありませんでした。新安保体制と日韓会談の関係を正しくとらえておくことは、日米新安保条約が成立した後の、日韓会談反対闘争を歴史的にどう評価するか━たとえば、安保反対共闘組織が、日韓会談反対という共同目標で再開されるかどうか、などの問題━をきめるうえで、極めて重要なことでした。

 

いわゆる安保闘争は、それ自体として歴史的な意義をもったに違いありませんが、日韓会談反対運動史の上でも、実質的にみて、計り知れない意義をもったといえます。あえていうならば、安保闘争は、名実ともに日韓会談反対運動が、それ独自の発展を遂げてゆく場合の前駆的役割を果たし、日韓闘争が国民運動化してゆくための土台を準備したと見えます。

 

 

話は『権力者たちの日韓関係』に移ります。

 

現在も、大手週刊誌や数々の言論の場で「反日」という文言を用い、韓国に掣肘の刃を向ける連中は、ひとえに「この時代の日韓関係」に戻るべきだと言える。

 

‐画像で振り返る『日本リベラルの愚かさ』 その2(朝鮮の永久分断を望み、アジア平和を拒む人々)‐

 

つまり、アメリカという絶対者(彼らは安全保障上の「パートナー」とするが)のもと、過去の経済的な上下関係を持ち出して、ある種の『上司的な立場』から、部下と捉える韓国に対して、あれこれ「文句」を言わせず付き従うべきだという、ちゃっちいな考えによるマウンティングだ。

 

実に無責任極まりない。

 

本当の主権や国益もアメリカに蔑ろにされた状態で、そうした問題にはこれっぽっちも目を向けず、取って付けたような右翼趣味や戦前的なもので、愛国情緒を気取ったところで、所詮はちゃぶ台返しのような「役立たず論」に過ぎない。

 

彼らのような、従米主義者のニセ右翼や、そこから「食べさせてもらっている」連中にとって、将来における日本の立ち位置だとか、アジアとの平和や和解について、一切考えるどころか、ひたすらアメリカ(軍産)に靡いて、私利私欲に走ることだけしか頭にない。

 

ハッキリ言うけど、これ「国賊」でしょ?

 

金に溺れて、良心も死に絶えた思考で、汚い欲を剥き出しにするところは、そこらへんにいる家族経営の独裁社長と変わりないと思いますね。

 

 

<参考資料>

 

・マスコミに載らない海外記事 『メイン号を忘れるな。ベネズエラでのCIA介入』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/cia-09e0.html

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・Cluttered talk blab blab blab 『My grandfather was a truly great man』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12043128632.html

 

 

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