前回の記事

 

‐シリーズ『日米同盟』の正体 その4(「中国封じ込め」作戦の経緯)‐

 

 

今回は、ぜひ日本のリベラルの方々にも認識していただきたい内容としてお話します。

 

アメリカはインドシナ半島での苦境対策をねるため、1964年6月1、2日、ホノルルに外交・軍事首脳を集めて異例の会議を開いたり、現役の将軍テイラーを駐南ベトナム大使に任命するなど、南ベトナムにおける劣勢挽回に必死になっていました。

 

しかし、去る1月のフランスの対中国国交回復(1964)や、パキスタンの対中国境、通商、航空協定締結などの契機に、SEATO自体のタガが緩み、セイロン、カンボジア等が相次いで離米中立の方向に傾斜しつつあるとき、日本━韓国を結ぶ『極東ライン』だけは、より一層確実に抑えておく必要に迫られていました。

 

6月3日、韓国の朴正熙政権が「戒厳令」に踏み切った翌日にさえ、大平外相は参議院外務委員会で答弁し、

 

「日韓会談は相手の情勢によって便宜的に考えてはならない。日韓間は分別をもって国交正常化しなければならない根本的立場があり、我が国からは会議を打ち切ることは考えていない。会談の場面で、韓国政情が反映してくれば、政府としてはその局面で対処すれば必要で十分である。過去の会談は実質的に進んだときも停滞したときもあり、韓国政情が会談に無関係だったとは思わない。今後いまの情勢が交渉にどう現れてくるかわからないが、日本政府としては、日韓会談というパイプを堅持し、日本側から会談を中断するようなことはしない」

 

と、日韓会談に対する執念を示しました。

 

日韓会談が、アメリカの極東戦略上の必要性と、日本独占資本の海外進出欲求との交錯点に位置すること。

 

つまり、日韓関係が、その実態として「米日韓」関係であることは、軍需品の導入に関する次の事実が象徴的です。

 

日本の「防衛庁調達」「納入額」において、その上位を占める石川石播磨重工業(現・IHI)、新三菱重工業、三菱電機、日本電機、丸紅飯田(現・丸紅)、伊藤忠商事などの独占資本がこぞって「対韓経済協力」に参加しているばかりではなく、韓国(南朝鮮)再進出に狂奔する独占資本・企業のほとんどが自衛隊から軍需発注を受け、調達物資を納入している現実です。

 

現在(1960年代当時)、韓国に対して、在日米軍調達本部(APA)によって供給されているのは、トヨタ自動車の兵員輸送車、新三菱重工業の戦車などであり、「数万台の新車輛」が日本において製作され、いずれも進行形で納入されていきました

 

1963年7月韓国空軍が、「戦力増強のためにF104を含むF100型級の最新型機を導入する」ことを決定しましたが、F104は日本の新三菱重工の製品であるように、セメントその他の戦略物資や武器・装備在日米陸軍調達本部を通じて、韓国へ持ち込まれていたのです。

 

 

1949年の中国革命の成立によって、翌年50年には朝鮮戦争が起こりました。

 

朝鮮戦争は、アメリカが国連の名において、朝鮮の民族統一事業に武力で干渉した戦争であったと同時に、それは中国革命への反革命的性格を帯びています。

 

※当時の朝鮮問題に関する記事

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その1‐

 

 

上述の雰囲気の中で行われた第一次日韓会談は、その朝鮮戦争遂行の過程で、アメリカが「日本と韓国」の緊密な結びつきを必要として開始されたものでした。

 

それが第六次日韓会談の場においても、「中国封じ込め」政策の遂行上の必要性から、アメリカによって促進されていることで、ただ初期の会談と違うのは、米極東戦略に加えて、日本独占資本の対韓進出の欲求と、政治的・経済的に行き詰ってきた韓国朴正熙政権による、日本の経済「援助」への希望が絡み合っていることです。

 

参考図書のさらなる追記として、1964年10月半ばにおけるソ連フルシチョフ首相兼党第一書記の解任、中国の核実験成功などの事件を経て、今日、第七次日韓会談が行われていますが、その関係で、アメリカの極東基本戦略が根本的に変更されたことは考えられません。

 

ただ、南ベトナムにおけるアメリカの威信が急角度に低下しつつあるため、対インドシナ政策における根本的再検討がなされる可能性がなされる可能性が強まっているので、それとの関連で極東情勢の展開にスピードが加わることは十分に予想されるでしょう。

 

韓台条約の成立に続き、佐藤内閣の韓国ならびに台湾政権に対する政治的・経済的姿勢が積極化しつつありますが、これも米極東政策の動向と無縁ではありません。

 

(『1964年12月24日初校にさいして』から参考)

 

【註釈】

 

⑮読売新聞、1964年6月4日

 

⑯思想界、1963年10月号

 

⑰東亜日報、1963年7月20日

 

(『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房 一三〇~一三一頁より)

 

 

以上のように、現代においても、過去の事実にとの『共通点』が見い出せないでしょうか。

 

そうです。北朝鮮の「脅威」と、中国の「海洋侵出」という名の元に、日本と韓国、そして両者の「上に立つ」アメリカとの関係、この「三位一体」の構図が、日本の敗戦~冷戦開始以来「ただの一度も」変わったことがありません。

 

ゆえに、単なるネトウヨとの対抗策として、「韓国と仲良くすればいい」だけの話では済まないのです。

 

それでは、『今までの東アジアの構図』とまったく変わりありません。

 

本当の意味で、アジア地域の平和と安定を求めるために、私たちが目指さなくてはいけないことは、日韓それぞれが大国のくびきから脱し、「脅威と思わされている相手」と、しっかりコンタクトを取り、それらと積極的に関わることによって、その誤解から抜け出すことです。

 

既に韓国は、文在寅大統領が『南北首脳会談』でそれを実行していますが、日本もそうした流れを意識し、「過去がどうであったか」を認識していくことによって、自らの置かれた立場が、本当にアジアの平和と安定に寄与していたのかと、単に特定の国の言いなりとなって、自分たちの国は「平和国家」としてやっていったつもりだが、実際の状況は、それとはかなり遠い位置にあって、地域の脅威の生成に手を貸していたという意識を持つことから始めなくてはいけないでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

 

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