歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ
  • 22Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その16(反植民地闘争を繰り広げた義兵たち)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐・「朝鮮全土」に拡大する義兵運動『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188頁より‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐先の明成皇后(閔妃)暗殺につぎ、日本による植民地化が「目前」と迫る『日露戦争』において、朝鮮民衆の反日義兵闘争は再び活発になりまじめていた。まずは、江原道原州<ウォンジュ>での、元容八<ウォンヨンパㇽ>義兵部隊の蜂起をはじめとして、1905年には、江原<カンウォン>・忠清<チュンチョン>・京畿<キョンギ>・慶尚<キョンサン>北の一帯に、義兵の蜂起が相次いだ。『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93※第一次日韓協約(協定) https://www.unamwiki.org/w/%EC%A0%9C1%EC%B0%A8_%ED%95%9C%EC%9D%BC%ED%98%91%EC%A0%95(%EC%A0%84%EB%AC%B8)※第二次日韓協約(乙巳保護条約) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EC%82%AC%EC%A1%B0%EC%95%BD※第三次日韓協約(韓日新協約) http://m.blog.daum.net/dsgim2/12737616?tp_nil_a=2『第二次日韓協約』にあたる、大韓帝国を日本の「保護国」とする条約締結が強要されるや、それを契機として、義兵闘争はいよいよ全国的規模で、本格的に再燃しはじめるようになります。※衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>について‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐『衛正斥邪思想』にもとづいた老儒生たちの「条約」に反対する「上疏(じょうそ=事情や意見を書いた書状を主君・上官などに差し出すこと)」や、憂国の憤死は、それ自体として日本の侵略に対する有効な反撃とは必ずしもなりえなかった。しかし、侵略と、それに手を貸した李完用らの売国的官僚、いわゆる『乙巳五賊』(乙巳保護条約に賛成してしまった5人の大臣を指す)への、全民衆の憤りをますます高め、反日蜂起を促すキッカケとなった。『대한제국의 매국노들<大韓帝国の売国奴たち>』 ※翻訳文字は筆者註https://ebackman.tistory.com/517首都の市民や学生たちは、撤市(承認の抗議閉店)・同盟休校などで、その意思を表明しました。1906年に入って、忠清南道・全羅道に活躍した、閔宗植<ミンジョンシッ>・崔益鉉<チェ・イㇰチャン>らの義兵蜂起は、日本軍隊の武力弾圧の前に後退を余儀なくされた。儒生に率いられたこれらの蜂起は、なお農民大衆との結合が弱く、軍事上・戦術上の弱点もぬぐいきれていなかった。しかし、この二つの蜂起は、その後急速に拡大し、継続する義兵の全国的蜂起の狼煙(のろし)であった。同じころ、慶尚北道で運動を展開しはじめた平民出身の申乭石<シントㇽソッ>に日着られる義兵部隊は、「反侵略」と同時に「反封建」の要求を結合させ、農民大衆との結びつきを深めるなかで、機動的な「ゲリラ戦術」を駆使し、闘争を長期にわたって持続させた。このように、義兵闘争の発展した「新たな段階」を示す芽が、すでにあらわれていました。『군대 해산<軍隊解散>』(韓国民族文化大百科事典より)http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E00065981907年8月から9月にかけ、日本がおこなった「韓国軍隊の解散」は、これに反対する朝鮮軍人の蜂起をうながし、これまでの義兵闘争の人たちと結合させ、運動全体のパラダイムシフトを進める契機となった。同年8月1日、解散のために結集させられた在漢城(現ソウル)の各部隊兵士たちは、日本の一方的要求に対して暴動をおこし、武器を奪って、激しい市街戦を敢行した。首都における「軍人たちの蜂起」は、解散を控えた地方の部隊にも波及させ、兵士らは相次いで決起し、既存の義兵に合流します。以後、義兵闘争は1907年段階で「朝鮮全土」に拡大し、それとともに運動は質的にも成長を遂げることになります。『朝鮮末期における義兵たちの活動図』(明成皇后暗殺1905年~乙巳条約締結1907年まで)※義兵長人物名の翻訳文字は筆者註https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=valentineme&logNo=90175795323&proxyReferer=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Furl%3Fsa%3Di%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dimages%26cd%3D%26ved%3D0ahUKEwiG4vrxm-PkAhVbQd4KHcQlCo8QMwhPKAUwBQ%26url%3Dhttp%253A%252F%252Fm.blog.naver.com%252Fvalentineme%252F90175795323%26psig%3DAOvVaw1XcUIjQghXyxVBdzqj-eOY%26ust%3D1569200059134643%26ictx%3D3%26uact%3D3義兵蜂起は拡大すると同時に、「相互に連携」を強めていき、一時は全国的な連合を見せはじめた。1907年末、李麒栄<イイニョン>を『一三道義兵総大将』として漢城(現ソウル)進撃を企てたことは、その戦略に妥当性を欠き不成功に終わったが、義兵の「全国的同盟」を示しています。さらに重要なことは、義兵の拡大が「より広範な大衆参加」を意味し、これを基礎に多くの「平民出身の義兵指導者」が生まれたことです。1908年における義兵闘争の最高揚期に、慶尚北道一帯で活躍した申乭石<シントㇽソッ>部隊、黄海・京畿道一帯の金秀敏<キムスミン>部隊、そして咸鏡南道一帯で活動した鉱山労働者出身の洪範図<ホンボンド>の率いる部隊などは、その典型です。彼らの部隊は、大衆と深く結びついて分散した小部隊による、有効なゲリラ戦を展開することにより、義兵部隊のなかでも「最強の勢力」を形成していた。それは農民大衆が、衛正斥邪派思想の枠をこえて、新たに前進しようとする過程に他なりませんでした。・対する日本の行動は・・・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 196頁より上述の義兵運動に、日本は圧倒的に優勢な近代兵器を持つ正規軍を動員して、鎮圧にあたった。特に、1907年以降は、それまでの「大討伐方式」から、小部隊編成の「ゲリラ掃討方式」に転換し、徹底的な弾圧をおこなった。このなかで「討伐」の対象は、もはや「すべての朝鮮人民」でした。数々の村を焼き払い、無差別な殺戮を繰り返し、併合前年にあたる1909年9月から約2ヵ月間、大量の兵力をつぎこみ全羅道一帯に「南韓大討伐作戦」を繰り広げた。これを境に、義兵の蜂起はしだいに退潮にむかいますが、その「根絶」などということはできるはずもありませんでした。1910年以後、義兵残存部隊はしだいに北の国境地帯に移っていったが、それは再起のための「根拠地の移動」、義兵運動から新たな独立軍運動への転換期でもありました。・闘争の総括『同』 181頁よりこの義兵運動は、日本の侵略と支配に「直接に大きな打撃」を与えたばかりでなく、他の形態の抗日運動にも積極的な影響を与えた。そしてなによりも、日本の朝鮮支配はいつもこのような「朝鮮民衆の全面的な反抗の脅威」にさらされ、軍事的・暴力的な支配を必要不可欠な要素とした。結果、それは「日本帝国主義の矛盾」をますます激化させ、その脆弱さを作り出すことになります。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 21Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その14(腐敗政治とのたたかい 発展する大衆の民権意識)‐・日露戦争と朝鮮の植民地化『러일전쟁 당시의 정치풍자 그림엽서<露日戦争当時の政治風刺絵葉書>』(韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EC%A0%9C%EA%B5%AD 「日本が朝鮮、満州、西比利を取れりと仮定せよ、之が福利を受くる者は、唯(た)だ政治家、資本家の階級ならんのみ、何の地位なく、些の資本なき多数労働者は、能(よ)く何事を為し得べき乎」 「否(い)な戦争は常に政治家、資本家の為めに戦はるゝのみ、領土や市場は常に政治家、資本家の為に開かるゝのみ、多数国民、多数労働者、多数貧者の与り知る所にあらざる也」 (『週刊平民』、一九〇四、八、二一「社会党の戦争観」)‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐『露日戦争』 (ナムウィキより)https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%811904年2月8日、日本陸軍の臨時派遣隊が、突如、済物浦(現インチョン)より上陸し漢城(現ソウル)へ向かった。翌9月、連合艦隊が同沖でロシア艦隊を奇襲した。10日の宣戦布告を待たず、こうして日露戦争が始まった。『Varyag and Korietz in Chemulpo』 (済物浦海戦より 出撃するロシア艦『ヴァリャーグ』と『コレーツ』)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A0%9C%EB%AC%BC%ED%8F%AC_%ED%95%B4%EC%A0%84#/media/파일:Chemulpo_Battle_Varyag_Korietz.jpgこの戦争は、朝鮮と中国東北地方の植民地支配を争った日露双方からの帝国主義戦争であり、その背後に「複雑な国際的列強間の対立と同盟」の関係をもった戦いでした。『日露戦争の状況地図』(赤い火柱は主要戦闘発生地/黒い点線矢印はロシア軍移動路/ピンク色の矢印は日本軍移動路) ※翻訳文字は筆者註https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%81戦局が日本に有利に進展すると同時に、1905年3月、社会主義者の幸徳秋水は、朝鮮で我が物顔に振舞う日本支配階級の実態を鋭く暴露しました。『幸徳秋水』 (光文社古典新訳文庫より)http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/12/006557.html 「戦争の進行すると共に日本政府は朝鮮に手腕を伸ばしたり、陸軍大将長谷川某(それがし)は、戦勝国の余威を藉(借)りて京城(漢城=現・ソウル)を睥睨(へいげい=威圧しにらむ)しつゝあり、而して朝鮮官民の間には早くも之に対する不平不満の湧起(ゆうき=さかんに出ること)を免るゝこと能(あた)はざりき(=どうやってもできない)、即ち京畿道観察使崔益元(注)のごときは、之をもつて朝鮮の独立を危くするものと慨し、日韓議定書の破棄を上奏するにいたれり、『朝鮮の独立』これ独り朝鮮の問題のみに非ず、日露戦争の表面の理由は、実に露国の暴力を除きて朝鮮の独立を維持するに在りたれば也、故に義侠心ある日本人は朝鮮人の心を以て朝鮮独立問題を観ざるべからず、而して日本政府の成す所果して如何(いかが)、看よ駐韓公使林権助は昨九日(1905年3月━筆者)左の文書を韓廷(韓国の朝廷)に致したり」 「崔益鉉は日韓議定書に対して敢(あえ)て誹謗の言を試む、誠に善隣の交誼(親しい関わり)を破り国権を紊(みだ)さんとする者、又た許与(ホ・ヨ)は此上奏に参与したる証跡あり、共に官職を剥奪せらるべし、若し之を躊躇せんには、我は軍事上、相当の処分を為すべし」 「而して翌十日の夜日本の憲兵は崔益鉉(チェ・イクヒョン)、許与(ホ・ヨ)の二名を捕縛し、尚ほ、政府に取って不利益と認むべき韓廷官僚は陸続捕縛する筈なりといふ、此の如き日本政府の行動は果して『義戦』を誇称する日本国民の是認する所なりや否や、吾人(われら=幸徳ら日本の社会主義者)が戦争を以て侵略なりと言へるに対し、日本国民の多数は憤怒して曰く、否な正当防衛なり、朝鮮の独立を擁護する義戦なりと、故に義戦論者は、是非共吾人の質問に答へざるべからず」 『義戦論者に問ふ』※()は筆者註‐東アジアの今とこれから その4(国が滅ぶということ)‐結局のところ、ロシアとの戦争が「欧米列強からのアジア防衛を防衛する『義戦』」と称することによって、自分たちの侵略的本質から目を逸らそうと躍起になって、言葉を濁していることを、幸徳秋水らは当時から指摘していました。・ロシア敗戦の理由『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 19頁より先の大清帝国と同じく、ロシア帝国も時勢に取り残されたユーラシアの「旧式帝国」でした。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐ 一九二〇年のいくらか前、そしてすこしく後、ユーラシアに存した幾つかの帝国があいついで消えうせた。世界史上、まれに見る帝国消滅のときであった。 (中略) まず、すでにいくらか触れたロマノフ王朝のロシアである。ロシア帝国は、ヨーロッパ列強どうしによる史上最初の真正面からの総力戦・消耗戦が展開するなかで、ほとんどみずからすりつぶれるように崩れ去った。戦局の激化につれ、複雑・多様な構成の「帝国臣民」たちを無理矢理に戦場と工場へと駆りたて、空前の大流血を強いた。沸点に達した民衆・諸民族の怨嗟といきどおりにくわえて、もともと不十分な国内産業力が過重な負担をささえきれず、開戦から三年にして意外に呆気なく自滅した。 ユーラシア東方においては、いかにも強大さをよそおうことができたロシアは、壮大な見せかけとはことなり、その実、社会・経済をはじめ、いたるところに危うさをもろさをかかえた「張り子の虎」の旧式帝国であった。 それが一気に弱点を露呈して、王朝・国家・社会ともどもにシステム崩壊したのであった。『同』 18頁より『러일전쟁<露日戦争>』 (ナムウィキより)https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%81見かけは強そうだったけど、中身は「昔のまま」で、近代国民国家の「総力戦」の前に、オスマンやオーストリア・ハンガリー帝国も、同様の末路を辿ることになる。・朝鮮の「すべての主権」を奪った日本開戦と同時に、日本は韓国の『局外中立宣言』を無視して、朝鮮に兵をすすめ『日韓議定書』を押しつけた。1904年2月23日に締結された、この議定書は「韓国における日本軍の行動と軍事基地設置の自由を朝鮮に認めさせるもの」に他なりませんでした。『1904년 한일의정서 강제체결<1904年 韓日議定書 強制締結>』https://ideas0419.com/697同年5月末、日本政府は「韓国ニ対シ政治上及軍事上ニ於テ保ノ実権ヲ収メ経済上ニ於テ益々利権ノ発展ヲ図ル」という『帝国ノ対韓方針』なるものを決定した。ついで、『対韓施設網領』では、この基礎方針を具体化して「軍事・財政・外交・交通・通信機関の掌握から産業の支配」にいたる、全面的かつ系統的な朝鮮侵略方針を打ち立てた。『伊藤博文』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87この方針のもと、伊藤博文が特命大使となって朝鮮にのりこみ、これまでの韓国とロシアの条約を廃棄させ、ついで1904年8月23日には、いわゆる『第一次日韓協約』を締結させた。かくして、韓国は以後「外交・財政に日本政府推薦の顧問を招聘(しょうへい=まねくこと)し、外交上の重要案件はすべて日本政府との協議の上で決定することを義務」づけられた。日本は1910年に大韓帝国を完全に併合するまで、つぎつぎと「朝鮮の政治・経済のあらゆる分野に直接の支配」を強めていった。政治的には、まず財政・外交のみならず軍事・警察・教育などの「重要分野」に、日本顧問をおくりこんで、いわゆる『顧問政治』の支配をおこない、次いで1905年11月には、『第二次日韓協約=乙巳保護条約』を突きつけ、韓国の外交権を「完全に」奪い、統監府を設置した。さらに2年後の1907年には、朝鮮の「内政」にまで支配権を確立させ、交通通信機関・司法・警察権なども「完全掌握」し、保安法・新聞法などの治安立法を相次いで公布した。※第一次日韓協約(協定) https://www.unamwiki.org/w/%EC%A0%9C1%EC%B0%A8_%ED%95%9C%EC%9D%BC%ED%98%91%EC%A0%95(%EC%A0%84%EB%AC%B8)※第二次日韓協約(乙巳保護条約) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EC%82%AC%EC%A1%B0%EC%95%BD※第三次日韓協約(韓日新協約) http://m.blog.daum.net/dsgim2/12737616?tp_nil_a=2『目賀田種太郎(華族男爵)』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E8%B3%80%E7%94%B0%E7%A8%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E経済的には、「財政顧問」に就任した目賀田種太郎によって、『貨幣管理事業』を強行し、「朝鮮の貨幣制度を日本の貨幣制度に合体」させ、日本の商品・貨幣流通の資本輸出の基礎を固めた。そして、かの渋沢栄一が創業した『第一銀行(現みずほ銀行)』漢城(現ソウル)支店をが、「朝鮮の中央銀行」とされ、通貨発行権を握った帝国政府は、農工銀行・地方金融組合設置と結合して、韓国の金融的支配を確立させた。 日本帝国は江華島事件(1875年)以後、政治的に朝鮮の植民地化を加速させましたが、それと並行して経済的進出も強化。その中心的役割を果たしたのが渋沢の第一銀行で、1902年に第一銀行発行券を朝鮮の通貨とし、渋沢は自らその肖像画に収まりました。   「1902年には、事実上朝鮮の通貨として機能する第一銀行券の発行を朝鮮政府に認めさせ、金融的従属の一歩を進め、ついに1904年、『朝鮮は日本の生命線』と称して、ロシアに戦争をしかけるにいたった」(梶村秀樹著『朝鮮史』講談社現代新書) 『アリの一言』記事より‐新一万円札と新五千円札の「顔ぶれ」についての所感‐つづけて、『土地家屋証明規則の実施』によって、「朝鮮における日本人の土地所有権」が全面的に認められ、日本人による公然たる「土地略奪の道」が開かれた。鉱山開発・森林業への独占的支配も強化され、帝国政府による「韓国の植民地化」の過程を見るとき、私たちは次のような点に注目しておく必要があります。第一に、「日本のかつてない大量の正規軍が朝鮮に派遣」され、朝鮮駐屯軍司令官のもとで、民衆に対し「厳しい軍律が公布」され、朝鮮全土にわたる「直接的な軍事支配」を背景に、これが実行に移されたということです。それまでの小規模な守備隊の力で、漢城(現ソウル)を一時的に支配して「親日的買弁政府」をつくろうとするようなやり方とは、本質的に異なっていた。『가쓰라-태프트 밀약의 진실/왜 조선은 버림을 당했나?<桂=タフト密約の真実/なぜ朝鮮は見捨てられたのか?>』 ※翻訳文字は筆者註http://m.blog.daum.net/bakduvillage/8298018?np_nil_b=1第二に、1905年7月から9月にかけての『桂=タフト協定』『第二回日英同盟』『日露講和条約』などにみられるように、これが「列強の承認のもと」に行われた事実です。つまり、日本が「アメリカのフィリピン支配」を認めると引き換えに、あるいは「大英帝国のインド支配」に協力することによって、その見返りとして「朝鮮の支配」を米英に承認してもらうことに、ますます「極東の憲兵」として、欧米列強の走狗的役割を演じることを意味した。※なお現在「そのような事実」を海外から指摘されている‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐またこれは、日露戦争後の「世界規模の新たな帝国主義列強と同盟と対抗関係」の不可分な一環にほかならず、朝鮮人民にとっては、列強の対立を利用して、反侵略闘争を有利に展開する条件が、ますます難しくなったことを意味します。韓国名『ハーグ特使事件』(左から李儁<イ・ジュン>、李相卨<イ・サンソル>、李瑋鍾<イ・ウィジョン>)http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=notenter9&logNo=221266090646&categoryNo=17&parentCategoryNo=0&viewDate=&currentPage=1&postListTopCurrentPage=1&from=search&userTopListOpen=true&userTopListCount=15&userTopListManageOpen=false&userTopListCurrentPage=1このことは、1907年6月、併合が目前に迫った韓国において、高宗皇帝がオランダのハーグで開かれた『万国平和会議』に3人の密使をおくって、日本の侵略を列国に訴えて助けを求めようとした行動が、まったく効果がないどころか、逆に日本の侵略をいっそう激化させる結果におわったことにハッキリと表れています。‐東アジアの今とこれから その5(朝鮮植民地化の社会主義者とマスコミの反応)‐第三に、1910年の「併合」後、朝鮮でおこなわれた日本の植民地支配の前提となるようなものが、すべて「この過程で出来ていた」ということです。‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐軍事的な憲兵警察の支配も、土地調査事業の準備も、併合前の10年間に実施されています。最後に、それでもなお日本の朝鮮侵略は、朝鮮民衆の強固な反日闘争にあい、これを徹底的に鎮圧することによって「併合」が強行できたのであり、したがって、それは当初より大きな矛盾を抱え、不安定なものにならざるえなかったことです。これについては、次回の本格的義兵闘争によって明確化されていく。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 20Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その14(腐敗政治とのたたかい 発展する大衆の民権意識)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐・李朝末期 腐敗きわまる主体性なき政治明成皇后(閔妃)暗殺事件と義兵の蜂起のなかで、中央政界が動揺し、軍隊が義兵鎮圧に動員されている間隙(かんげき)をぬって、李範晋<イポムジン>・李允用<イユニョン>・李完用<イワニョン>らが陰謀を企てられた。※李模晋 https://namu.wiki/w/%EC%9D%B4%EB%B2%94%EC%A7%84※李允用 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%9C%A4%EC%9A%A9_(1854%EB%85%84)※李完用 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%99%84%EC%9A%A9彼らは、1896年2月11日、済物浦(現インチョン)に停泊中のロシア軍艦から兵を漢城(現ソウル)に引き入れ、高宗国王を脅迫して、ロシア公使館に移してしまった。その中で、金弘集<キムホンジッ>・魚允中<オユンジュン>らは殺され、変わって保守派と手を組んだ李範晋・李完用らの親露派内閣が組織された。結果、再び専制が強まり腐敗が進行した。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 185頁よりすでにみてきたように、彼らの手で数々の「利権」が列強に売り渡され、民衆の生活は壊され、朝鮮の独立はいよいよ危機に陥っていった。・『独立協会』の発足このような事態に直面して、なお朝鮮の独立を守り、民主主義的改革のための運動を進めようとしたのは、徐載弼<ソチェピル>・尹致昊<ユンチホ>・李商在<イサンジェ>らの、急進的開化派の流れをくむ人々でした。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐※徐載弼 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%84%9C%EC%9E%AC%ED%95%84※尹致昊 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%A4%EC%B9%98%ED%98%B8※李商在 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%83%81%EC%9E%AC1896年4月7日、朝鮮における最初の本格的な近代的民間新聞である『独立新聞<トンリッシンムン>』が、徐載弼らによって発刊されます。ハングルで書かれたこの新聞は、朝鮮の独立と進歩、人民の自由と権利を主張して、大衆に直接かたりかけ大きな影響を与えた。ついで同年7月には、『独立教会』が結成され、この組織は「都市民大衆の参加」にしたがって、高級官僚のサロン的性格を脱し、しだいに政治結社としての性格を強め、やがて公然たる大衆的政治運動を組織していく。『同』 190頁より1898年3月、独立教会の指導のもと漢城(現ソウル)鍾路<チョンノ>に、市民1万余りが結集して万民共同会が開かれた。大衆は、「ロシア顧問団の撤退」を「朝鮮の独立」「民権の伸長」を要求して勝利をおさめた。ロシアの顧問団は引き揚げ、その朝鮮支配は後退を余儀なくされた。大衆はさらに進んで、外資への「利権」売り渡し反対、財政の整理と民主化、裁判の公正、憲法の施行と政治の民主化を要求して、10月には官民共同会を開かせた。この独立教会と万民共同会の運動は、列強にあと押しされた反動政府の、テロと軍隊・警察の鎮圧のまえに、翌1899年には解体させられてしまった。それは、この運動が「漢城(現ソウル)に限られて」おり、農民大衆とは結合せず、地方都市にも広がっていなかったために、政府の弾圧に抵抗できる力をほとんど持ち得なかったことにもよる。『山本太郎(れいわ新選組代表)おしゃべり会 北海道稚内 190919』 (動画23分10秒以後)れいわ新選組https://www.youtube.com/watch?v=wbSy_81_N3Yなんだか、この話は現代にも通じるものがあって、とりわけ「政治の腐敗」が、先々どのような影響をおよぼすのか。殊にTPPや日米FTAなど、グローバル(多国籍)企業に対して、国富や日本で暮らす人々の権利を「売り払う」買弁政府による亡国ルートが、近代の朝鮮半島にあらわれていた。‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐・民権の拡大と 「大衆的政治参加」へむけた歩み話をもどすと、独立教会や万民共同会は潰されましたが、かつての開化派のように「上からの」ブルジョア的改革をはかることが著しく困難になった段階で、自らの政治思想を直接、大胆に民衆に訴え、近代的民主主義と民族主義の思想を大衆のなかに広め、大衆の政治活動を組織していったところに、画期的な意義をもっていた。近代的開化の思想は、大衆のなかに根を下ろし、のちの『愛国文化啓蒙活動』に受け継がれていきます。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐一方、甲午農民反乱から義兵闘争に立ち上がった農民は、義兵の解散後も、独自の農民軍集団として各地に活動を続けていた。彼らは、封建支配者たちによって「東匪」「火賊」「西学」「南学」などと呼ばれたが、その本質は農民の反封建・反侵略の武装闘争に他ならなかった。その中でも、特に注目されるのが『活貧党』の存在であり、「貧民」に「活力」を与えるために、彼らは中部朝鮮一帯で、1900年ごろに活動した。彼らは「自然平等」「社会貧富の打破」「邦家の革新」を目的とし、「国政と民寃(みんえん)の一三条目」の綱領を掲げ、「富民之財」を没収し、「散施貧人」の運動を展開しました。要は、「金持ちから一般市民へ」と、富の偏在を是正しようとしたわけです。甲午農民戦争(東学農民運動)で掲げられた農民の要求は、この網領に受け継がれ発展させられていた。かつての民乱とは異なって、彼らの活動は地域的な制約をこえて範囲を広げ、その要求も「階級的な要求」にまとめられ、発展させられていった。運動自体は、1896年以後、約10年間にわたって持続された。このような農民軍集団の多様な活動は、散発的ではありましたが、1905年以後、本格化する大規模な義兵闘争を準備するものでした。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・Youtube動画 『山本太郎(れいわ新選組代表)おしゃべり会 北海道稚内 190919』 (動画23分10秒以後)https://www.youtube.com/watch?v=wbSy_81_N3Y<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 19Sep
    • ‐三矢多由子さんのブログ再開を祝って(日本の社会事情を憂う)‐

      関係記事‐三矢多由子さんからご賛同いただきました‐‐2018年の総括とご挨拶‐・リブログありがとうございますまずは、先達ブロガーである三矢多由子さんが、数日前に記事執筆を再開されました。正直なところ、ホッとしています。拙ブログ界隈における識者のお一人で、多くの読者を抱える三矢さんは、私自身とてもたくさんの影響を受けています。なにより、国内の息苦しい言論状況について、常にブレることなく異議を唱え、アンチレイシズムに尽力され続ける貴重な存在であります。三矢さんが憂うように、先週私が「フィールドワーク」をかねて書店へ立ち寄ったところ、殊に週刊誌のコーナーでは、多くのスペースを割いて、このような偏った本が平積みにされており、別の現代書ところでは、ケントギルバード氏や百田直樹氏、竹田恒泰氏などの本もあって、「読む人が多い」から本屋も陳列するんだろうなと、今の日本社会の「空気」というか、平静を装ったみんなの「心内」は、韓国に対するヘイトだとか、同じ近隣諸国に対する北朝鮮や中国への憎悪含め、現在自分たちが持っている「認識」を補強するための出版物が、どうしても全面に出てくる印象を受けた。本以外にも、インターネットだとか、Youtube上でもそうした風潮がつよい。・人として正しいことは何か 歴史はその『助け』となるこの本の中にある「渋沢栄一の名言」として、「戦争で国家の富が増すという考えは経済に対する無知である」とされていますが、当時の経済システムや日本が実際にやってきたことを見れば、それは真っ赤なウソです。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐‐新一万円札と新五千円札の「顔ぶれ」についての所感‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐自国の歴史はもちろん、殊に隣国との問題を語る流れおいて、それに関係する膨大な情報を必要とします。そのようなことを怠り、軽々しく「(アジア諸国に弱腰な)日本の外交が不安」を口に出す人たちにせよ、今自分の言ってることが、どんな事態を招き、将来にどのような禍根を残すかについて、「一切の想像力」が欠如している。本来、『歴史』というものは、そうした想像力を養ってくれる学問だと思うのです。60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス無論、常に「世界情勢は刷新」される。一昔前なら通った、傲慢な振舞いも、ひとたび潮流が変われば「浮きまくる」結果となってしまう。もちろん、そしたことを抜きにした上でも、「人として正しいこと(いわば徳のある政治)」を貫くことは、それだけでも「評価される国家像」に値する。私たちが現代に生きている以上、日本や周辺諸国との間に限らず、おのずと「世界との関わり」も出てくるので、拙ブログに多大な影響を与える英語ブロガーMichikoさんの知見をお借りしたり、とにかく問題を知れば知るほど「そのハードルの高さ」を実感するわけです。‐「トランプの死」は、バノン氏解任によってもたらされた‐トランプ大統領についても、私たちは多くの「誤解」のなかにいます。‐手に余る「世界情勢」を知る態度-残念ながら、世界という「郷」からして、日本がズレまくった国になってしまったことについて、多くの大衆的責任があると私自身は思う。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その2(大院君時代の朝鮮王朝)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その5(閔氏政権と日朝修好条規)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐これを裏付けるものとして、今のテレビに映る「反日韓国」や「暴走北朝鮮」のイメージで語る人間が実に多いと認識している。しかし、過去を紐解けば、どうして韓国が日本を批判するのか、どうして北朝鮮が核兵器を持って国防を重視するのか。歴史を知ることによって、それらの「行動基準」をうかがい知れることができる。また同時に、日本自身の振舞いも修正することができる。正直、現段階では「それすら知らない人」が多すぎるので、無責任で傍若無人な現政権による日本外交を評価して、根拠というのも、単なる感情論でしかなく、テレビで植え付けられたイメージだけで、非常に危うい局面にいると、このまま日本が突き進めば、自国脱出も含めて「住めない国」になりつつあるのは、周知の事実です。・おわりに自分なりの結論として、政治や世の中の事含め、それらを語る上において「たくさんのことを調べてから」発言しなければいけないと思います。無論、これは私たちにとって容易なことではない。社会問題ひとつとっても、在日コリアンの「国籍問題」しかり、他の外国人との『在留カード』や『特別永住者証明書』との違い、もちろん、そこには近代・戦後朝鮮と日本の関係史を抜きには語れず、プラス当事者とのコミュニケーションを通じて「生の情報」を集める必要があります。さらに、それが「世界のニュース」に拡大すれば、それらを解釈する言語(主に英語)だとか、物事を煮詰め理解するまでの時間だとか、自分たちが想像するに何十倍もの苦労を要する。偉そうに語っている私自身も、こればかりは「専門家」に頼る他ないのが実情です。足りない部分を補いつつ、しかし自分が出来る範囲は徹底的に掘り下げ、可能な限り思考を積み重ねなければ、今の日本社会にある「ありふれた言論の一つ」に埋没してしまうのがオチでしょう。<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 18Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐・日本による朝鮮王妃惨殺事件 을미사변(乙未事變)은 1895년 10월 8일(음력 8월 20일) 경복궁(景福宮)에서 명성황후 민씨가 조선 주재 일본 공사 미우라 고로(三浦梧樓)의 지휘 아래 일본군 한성 수비대 미야모토 다케타로(宮本竹太郞) 등에게 암살된 사건이다. 乙未事変<ウㇽミサビョン>は、1895年10月8日(旧暦8月20日) 景福宮にて明成皇后の閔氏が、朝鮮駐在日本公使の三浦梧楼の指揮下にある日本軍漢城(現ソウル)守備隊、宮本竹太郎たちに暗殺された事件。※翻訳は筆者による『韓国語Wiki百科』記事よりhttps://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EB%AF%B8%EC%82%AC%EB%B3%80『明成皇后(閔妃)殺害事件関連者』 ※当時の伊藤博文総理をはじめ、野村内相、陸奥<むつ>外相、芳川<よしかわ>司法相、井上前駐韓<朝鮮>公使、三浦駐韓<同>公使(陸軍中将出身)http://m.blog.daum.net/tntv/416?np_nil_b=-2『明成皇后(閔妃)肖像画』 (ナムウィキより)https://namu.wiki/w/%EB%AA%85%EC%84%B1%ED%99%A9%ED%9B%84日清戦争中に日本が行なった露骨な内政干渉は、朝鮮の近代化にこの上ない困難をもたらした。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐それだけに、日本に対する朝鮮民衆の憤怒は、ますます高まってゆく。朝鮮政府内部でも、「日本からの自立」を求める動きが活発化します。さらに、1895年の日清講和条約(下関条約)に対するロシアを中心とした「三国干渉」は、戦後の朝鮮中央政界にも微妙な影響を与え、いわゆる「親露派官僚の活動」を促進させた。こうした事情は、日本の侵略主義者たちに「大きな不安」を抱かせ、朝鮮を侵略して、そこに政治的・軍事的基盤を築き上げるという、彼らの「数十年来の素志も一朝水泡に帰」(山県有朋の手紙)すのではないかと嘆かせた。そこで、新たに赴任した日本公使・三浦梧楼が引き起こしたのが、「明成皇后(閔妃)殺害事件」です。『三浦梧楼』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC西南戦争以後、陸軍中将を務めた三浦は、日本の守備隊(漢城駐屯の日本軍)や、宮本竹太郎ら大陸浪人(壮士くずれのテロリスト)たちをつかって、朝鮮国王の妃、閔氏暗殺を企て、再び李是応(大院君)を担ぎ出して一挙に「親日政権」をつくり上げようとしました。※大陸浪人の前身 『天佑侠』について‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐・血みどろの景福宮 その日 何が起きたのか1895年10月7日の夜から8日の早朝にかけ、彼らは朝鮮の王宮に押し入り、侍衛隊長や宮内大臣らを殺害。さらに王妃の寝室に侵入し、閔氏を殺めたのち、遺体を凌辱(死姦)し、証拠隠滅のために焼き払ったという。ハッキリ言って、人間のすることではない。考えてみていただきたい。どこかの外国勢力が、日本の宮城に押し入り、皇后を殺し、その遺体を辱めて燃やすようなことがあったら、とんでもないことになるだろう。프랑스 주간지 『르 주르날 일뤼스트레』 표지기사. <フランス週刊誌 『ル・ジャーナル・リュストレール』表紙記事> (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EB%AF%B8%EC%82%AC%EB%B3%80三浦らは、この狂気に満ちた蛮行を、あたかも「朝鮮軍隊内部の衝突」から起こった事件のように見せかけた。また、事件の真相が発覚して国際問題化した後も、不平等条約で得た領事裁判権に守られ、暗殺に関わった犯罪者たちは、翌1896年1月、広島での軍法会議でも、地方裁判所でも「証拠不十分」で全員免訴とされた。実にしらじらしく、こうなることは「最初から予定通り」だったのは、誰が見てもわかりきったことだろう。こうして、確実に「後世へ残す禍根」を、当時の日本の為政者たちは積み上げていった。一方、日本によって再びかつぎだされた李是応(大院君)によって、金弘集内閣は改造され、この内閣は事件の真相を発表することもできず、李周会<イジュフェ>らの朝鮮人を、この事件の下手人に仕立て上げ処刑した。その上、1895年11月、当内閣によって『断髪令』(日本における『散髪脱刀令』と同様のもの)が強行され、民衆の憤怒はますます高まっていく。・「売国政権」を糾弾する義兵闘争<ウィピョントゥジェン>『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 度重なる民族の危機、そして国家の無策の前に、彼らの怒りはついに爆発した。明成皇后(閔妃)事件直後、忠正道の報恩<ポウン>などで、『挙義討賊』を呼びかける地方儒生らの活動がはじまっていましたが、断髪令強行の後、義兵闘争は大衆的基盤をもって拡大していきます。『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%931896年1月下旬、江原道春川<チュンチョン>で蜂起した義兵部隊は、同地の観察使(地方長官)をおそった。のち、政府軍の攻撃をうけて一時後退したが、やがて再結集し、一部は首都漢城(現ソウル)に迫り、他の一部は、東海(日本海)沿岸に進出して、その活動範囲を拡大しました。同じころ、京畿道砥平<チピョン>の李春永<イチュニョン>・安承禹<アンスンウ>に率いられる義兵部隊が、江原道原州<ウォンジュ>から忠州<チュンジュ>を経て、堤川<チェチョン>に進出し400名の砲手を率いた部隊や、慶尚道で蜂起した部隊とも合流し、朝鮮儒林の重鎮・柳麟錫<ユインソッ>を総大将とする大部隊に成長した。この義兵部隊は、忠清・慶尚・江原の三道が境を接する一帯でとくに活躍した。全羅道でも義兵の蜂起があるなど、朝鮮各道で闘争が続いた。彼らの主力は、農民をはじめとする下層大衆です。義兵とは、本来このような「国家の危急にさいして、国家の指令を待たずに、自発的に起ちあがる人民の義勇軍」(姜在彥 『朝鮮近代史研究』日本評論社)を意味していた。決起した義兵は、各地の観察使や郡守を断罪し、その支配機構を麻痺させるとともに、日本の侵略にも大きな反撃を加えました。 「韓国上下ノ人身凡テ帝国ニ背離スルト同時ニ所謂日本派ナルモノノ勢力モ全ク地ヲ掃フテ空シキ有様」 『日本外交文書』 三一巻二冊『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188~189頁よりこのようになったと、当時の日本公使を嘆かせた。『同』 189頁より・初期義兵闘争における「弱点」しかし、この義兵の指導は、衛正斥邪論者である地方儒生に委ねられていた。※衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>について‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐そこに、このたたかいの「弱さ」がありました。儒生の義兵将と義兵大衆の「あいだ」には、階級的な矛盾が存在しており、それが表面化して、部隊が内部から崩壊することもしばしば。さらに、日本の勢力が一時後退し、金弘集内閣が崩壊して断髪令が中止されるや、たちまち部隊を解散していったところに、「この時期」における義兵闘争の限界が、明確にあらわれている。甲午農民反乱後、ひきつづき侵略に反対し、朝鮮の近代化を求めてたちあがった大衆は、その課題を果たすためには、「さらなる前進」が必要不可欠でした。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 17Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐・世界規模における 本格的な「帝国主義の到来」‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐先の日清戦争は、朝鮮の近代化に著しい被害を与えたが、「帝国主義的世界政治の形成」の上にも、決定的な影響を与えた。19世紀後半の世界資本主義国の飛躍的発展は、資本主義自体に「質的変化」をもたらした。『独占資本主義』https://www.many-many-info.com/blog/2015/12/23/1087欧米の「先進国」では、一握りの金融独占資本が形成され、その支配が、政治・経済あらゆる分野に浸透し、それと合わせて、彼らによる世界の領土的分割が一応「完了」しますが、さらなる植民地の独占的領有と再分割のための闘争が激化していきます。「その理由」としては、前にもお話した通り、産業革命以後における「生産能力の飛躍的拡大」は、製品を作り出すための材料を膨大に必要とし、結果、加工のための「資源大量獲得」を目指し、同時にそれらの「消費先」を抑えることが優先されました。それは欧米列強の「植民地獲得競争」へと繋がり、グローバル規模の植民地経営の進展にともなって、成長する金融資本が母体にあります。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3 「資本主義は、一握りの『先進』諸国による地上人口の圧倒的多数の植民地的抑圧と金融的絞殺との世界的体系に成長した」 (レーニン 『帝国主義論』)『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 184頁よりアジアでは、それまで清朝が「宗主権」を主張して「属国」としていた諸地域が、次々と列強の支配下に置かれ、1880年代においては、それをめぐる列強間の「再分割闘争」さえ表れはじめていた。※清の「宗主権解釈」の変容‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐・「死せる獅子」 すすむ中国の植民地化そして、日清戦争と「清国の敗北」は、いよいよ列強による「中国そのものの分割」へと、舵を切ることになる。『1898년 1월 15일 프랑스 신문 《르 프티 주르날》(Le petit Journal)에 실린 열강들의 중국 분할 구상을 풍자하는 만평.<『1898年1月15日 フランス新聞《ル・プティ・ジャーナル》に掲載された列強間の中国分割構想を風刺するイラスト>』 左からイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%98%ED%99%94%EB%8B%A8_%EC%9A%B4%EB%8F%99戦後、中国の国家財政は、「国際的な金融資本の支配下」におかれはじめ、鉄道敷設・鉱山開発などの「利権獲得」の名のもとに、列強間の「資本輸出」に結びついた。世界の歴史まっぷ 『中国分割 列強による中国の分割地図 列強の中国侵略』記事よりhttps://sekainorekisi.com/glossary/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%89%B2/それは、新たな「侵略」と「分割の競争」を呼び、それが実行に移された1890年代の末には、「租借」の名による中国の直接的な「領土の切り取り」が進んだ。『遼東半島』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E6%9D%B1%E5%8D%8A%E5%B3%B6これに先立ち、『下関条約』(1895年4月17日)で、自国歳入の4年2ヵ月分にあたる「賠償金二億両」と「澎湖列島」および「台湾」割譲を成功せしめた日本は、遼東半島にも植民地野心を示したが、「領土分割の均衡を崩す」という理由で、前述に触れた他の列強三国(フランス・ドイツ・ロシア)の圧力により、その野望をあきらめざる得なかった(ちなみに朝鮮は1897年を境に『大韓帝国』と国号を改めます)。『삼국간섭<三国干渉>』 (ナムウィキより)https://namu.wiki/w/%EC%82%BC%EA%B5%AD%EA%B0%84%EC%84%ADこの分割競争には、世界中の名だたる帝国が争って登場し、日本は、資本主義の未成熟からくる弱さを、地理的便宜と軍事力で補いつつ、積極的にこの分割競争に加わった。世紀が変わろうとする1900年、この侵略に反対する中国民衆の『義和団運動』が激化すると、日本は大軍を派遣して、反乱鎮圧にあたり、列強が中国を侵略し、支配するための「憲兵の役割」を果たした。『의화단 운동<義和団運動>』 (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%98%ED%99%94%EB%8B%A8_%EC%9A%B4%EB%8F%99そうして、2年後には日英同盟を結び、イギリスやアメリカの援助を受けつつ、「ロシアとの戦争」へと突き進んでいく。このアジア分割競争と、それを土台とする「列強間の複雑な国際関係の形成」は、バルカン半島とアフリカ分割を中心に、すでに出来上がっていたヨーロッパ列国同士の対立と同盟の関係に、より複雑な様相を加えつつ、アメリカや日本も含め、帝国主義の支配を文字通り「世界体制にしていく」過程でもありました。・朝鮮も例外ではなかった無論、列強の魔の手は、朝鮮にも忍び寄る。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 185頁より1896年以降、「利権」の名による各帝国の「新たな侵略」が激化します。日清戦争後、朝鮮をめぐる、この分割競争で「主役」を演じたのが、日本とロシアだった。前年、日本は清との『下関条約』で、「朝鮮への宗主権」を剥奪し、より干渉しやすい環境を作り出します。同年、日露両国は「朝鮮に関する二つの協定」(小村=ウェーバー協定、山県=ロバノフ協定)を締結しましたが、そこでは「ロシアの政治的優位」が示されていました。しかし、1898年の『西=ローゼン協定』では、再び日本が台頭しはじめていた。かねてから、中国東北部への侵出を狙っていたロシアは、フランスやドイツを誘って日本に「遼東半島の返還」をさせた恨みを持つ日本は、ロシアを仮想敵国とし、『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』のスローガンを掲げたのは有名な話です。・植民地化に作用した『日英同盟』http://freesozai.jp/itemList.php?category=nation_flag&page=index&type=sozaiこれら日露の「競争」は、一方で、朝鮮民衆の反帝運動に規定されつつ、他方で、全世界に対する帝国主義列強の分割競争は「不可避」な一環をなしていた。日英同盟は、中国分割で「日本がイギリスに協力する」と同時に、日本が朝鮮での「優位」を、イギリスに認めさせ、その援助や便宜を図ってもらう形でロシアに対抗し、朝鮮の支配権をいっそう強化するものでした。すべてこうした事柄は、朝鮮の自主的な進歩と発展に、「新たな困難」をもたらすものであった。しかし、朝鮮民衆は、これとたたかって後の朝鮮の歴史を発展させるとともに、帝国主義の矛盾を激化させ、世界史をすすめる重要な勢力の一つとなっていきます。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 16Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐・朝野に広がる憎悪 「無知」は自身を侵食させる弱さである 現在、日韓関係や日朝関係を語る上において、多くの人々が「無知や思い込み」を正当化するために、またそれを「生業」として利用する人たちによって、『嫌韓』『憎朝』世論なるものが構成されている。上述の「負の循環」が、この国をより息苦しく腐った方向へと導きつづけている。ハッキリ言って、世の中の物事をバカにしきっていると思います。‐手に余る「世界情勢」を知る態度-上述における、ポール・クレイグ・ロバーツ氏がご指摘する通りのことが、今日本で「右左中」問わず起きていて、私はすべてに掣肘を加えたい。単なる自我を満足させるために、「惰性」でニュースを見るんじゃないよと。昨今の世論や、近隣諸国に関する露骨な憎悪の剥き出しは、内面的であれ表出的であれ、私たちが暮らす日本社会で確実に根をはっている。無論、煽動をおこなう官はもとより、社会一般層における「ひろがり」の方が、事態をより深刻化させ、もともとアジア諸国に関する、植え付けによる不信や憎悪が「ベース」にあって、社会におけるマイナス方向の「作用因」となっています。‐「トランプの死」は、バノン氏解任によってもたらされた‐そもそも、世界は私たちが想像する以上に複雑だし、これらに対する「畏れ」と「敬意」が欠如していると考える。だからMichikoさんは、独学で英語を習得し、それを手段としてアメリカ政治(その他海外ニュース含め)へ能動的にコミットし、私自身を含め、一般人が「大マスコミ」の情報だけで満足する傍ら、より込み入った議論や、深掘りする情報収集を厭わない。こう言っては、「ちゃぶ台返し」のように聞こえるかもしれませんが、人の話を聞かない大衆にはあまり期待していない。要は彼らは、市井の物事を、自分たちの「理解したい世界観」に、何とか落とし込みたいわけだ。メディアや有名人がこう言ってるから、そういうフィルターだけで「情報の価値」を決め、私としては「その人が如何に行動してきたのか」、より確からしい情報を集めるために、どれだけ真剣に向き合ってきたのか。是々非々で、思惟の連続を貫徹しなければならないと思うのです。現実は、容易に自らの認識を「超えてくる」が、主に拙ブログでは、友人から伝わる在日社会のことや、ご親戚が暮らす北朝鮮の話、さらには英語ブロガーMichikoさんの海外情報、そして自身が勉強してきた東洋史に関する知識を頼りに記事を書かせていただいておりますが、とりわけブログタイトルにもあるように、私のブログは「歴史的側面」から、現代の北東アジア情勢や国内の社会問題へのアプローチを試みている。・根底にある アジア諸国に対する「優越思考」-シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』1--シリーズ『オリエンタリズム、名誉白人、薩長日本』2-2014年ごろの記事で、当時のMichikoさんのコメントによると、明治維新後に「日本人は、近代にいち早く西洋人の仲間入りをして、名誉白人にしてもらったら、あとはハシゴを外して、ほかのアジア人が登って来れないように、自分たちだけが名誉白人でいられるように、小狡く立ち回ってきました」と、鋭く指摘されております。つまり、それが現代にいたる「日本人の精神構造」にも深い影響を与えていて、そうやって「ほかのアジア人との差別化」に精を出し、いそしんできた彼らにとって、Michikoさんは「川の流れが一定のものを完全に洗い流すには、ある程度の時間がかかるのと同じように、今でもそれを完全になくすというところまではいっておりません」と、「自分がアジア人だという自覚はゼロである。けれどもなぜか見た目は堂々のアジア人であるし、国全体で漢字を使っている。そういう非常にあいまいな、どちらともいえない、そういうわけのわからない鵺のような存在が、今の日本人でしょう」と結論づけられました。‐日本が「アジアのリーダー」と叫ぶれいわ支持者‐‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐また、こちらにおいて「日本がアジアのリーダー」と、恥ずかしげもなく叫んでしまう痛い支持者含め、根底に、東アジアに関する歴史教育の不十分性とそれに関する思考時間の短さも相まって、上述を含めた近代の優越思想と複合的に折り重なった「日本人の精神」なるものは、いかに固陋で厄介なものかは、実にさまざまな場面で出くわしてきた。自分自身の役目としては、そうした「諸々の膿」を出していく作業をしなければならないと思います。これをキッチリやらない限り、日本はどんどん内向きな国家となり、頽落した社会に突っ走ることになります。・日本における侵略思想の淵源薩長下級士族出身の明治政府の専制支配者たちが、『征韓論』にみられるように、自らの主導権のもとに民衆を抑え込みながら、上からの「近代化」を遂行し、そこから生じる矛盾の解消手段を「近隣諸国の侵略主義」に求める基本方針を、はやくからとっていたことは周知の事実です。‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論①)‐‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論②)‐‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論③)‐民間にあって、そのような「上からの近代化コース」を推し進めていくイデオローグの役割を果たし、そのために国内にある封建的要素を思い切って切り捨てることを主張してきた福沢諭吉なども、同様の国益本位の観点で朝鮮問題に接近し、殊に『脱亜論』以後は露骨な侵略主義を煽り立てていた。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐『탈아론이 게재된 지지(時事)신보. 당시의 신문이 게이오의숙(慶応義塾) 도서관에 보존되어 있다.<脱亜論が掲載された時事新報。当時の新聞が慶應義塾図書館に保存されている。>』 (dongA.com『[역사는 살아있다/청일전쟁]기억을 만드는것<「歴史は生きている/清日戦争]記憶をつくるもの>』記事より)http://www.donga.com/news/View?gid=8483332&date=20070828『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 171頁より‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐一方、明治10年代の日本には「専制権力と激しく対立」する自由民権運動にしろ、国内でのブルジョア民主主義の本格的確立をめざして「第二革命」を呼号するほど、厳しいたたかいの中にありましたが、その論理を専制権力の対外侵略政策の領域に適用・批判するゆとりも持たぬまま、やがて専制権力側に切り崩されてしまった歴史があります。専制権力の切り崩しの手段は、猛烈な物理的弾圧と「民権をめぐって内輪揉もめするより外に国権を伸ばすことが先だ」という論理でした。貧農民権派は、1884年を境に前者によって沈黙を強いられた。一方、士族民権派・豪農民権派は、1890年代までには、天皇制イデオロギーと憲法ないし議会を枠組みとする専制体制内に組み込まれ、民権論者から国権論者に転向して、むしろ極端な侵略主義者に染まった場合が多い。‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識①)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識②)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識③)‐そうした「転向の軌跡」の例は、防穀令事件の「解決」のために進んで脅迫外交の戦闘にたった自由党の大石正巳(おおいしまさみ)や、後の『閔妃惨殺事件』参加者のうちの何人かと少なくないが、福岡の士族民権派の流れをくむ、玄洋社の内田良平を中心に編成された『天佑侠』の行動に、最も鮮明にあらわれています。※防穀令に関する記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐『同』 174頁より‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐『天佑侠』とは、甲午農民反乱の際に、朝鮮に渡っていった十数名の「壮士くずれ」集団で、俗説では農民軍に参加して奮戦したと称されていたが、それは彼ら自身らがのちに創作した伝説に過ぎず、実は「日本と清国の衝突のきっかけ」をつくり、農民軍をそのために利用する目的で出かけていった自発的謀略部隊というべきものでした。つまり、後のいわゆる『大陸浪人』のはしりのような存在だった。かつては、国内の民権のためにたたかったこともある人々が、いまや「痛快なる冒険」を求めて、侵略の国策の最先端にたつようになったのです。こうした官民一体の「侵略思想」は、やがて教育その他ルートを通じて、体制内に取り込まれてしまった民衆の底辺にまで浸透していくに至るが、日清戦争に「民衆が兵士として動員された体験」は、そのような浸透がいっそう深まる大きな契機となります。『1895年(明治28年)に戦勝祝賀を行う慶應義塾大学の炬火行列大運動会(カンテラ行列)』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89 かつて一〇年前には、貧農民権運動の舞台となった秩父の山村の一農民までが、一八九五年八月には、その日記に「日本大勝利」の記事を克明に書き写し、「日本国中にて、日の丸の旗を立て、勝ち軍を祝するという」と喜びを記すようになっていた。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 182頁より・「そのような思考の先」に何があるのかWill you accept a presence of foreign military?②‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐‐日朝・日韓歴史問題 自国史を再認識して「引きこもり思考」から脱する‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐自国の「過去の行い」を一切直視せず、ひたすら惰性と感情のままに、日本人自身が逃げ続けるのなら、終局的に「地獄を見る」のは自分たちであることを理解しなければならない。‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐己のウィークポイントを、アメリカ人に付け込まれ、在日米軍という「特権付き植民地軍」に支配されたこの国では、政治や経済、社会ふくめ、何もかもがオワコンの方向に向かっている。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 15Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐・奇襲によってはじめられた「日清戦争」『▲ 평양에서 청군을 공격하는 일본군을 그린 그림<ピョンヤンにて清軍を攻撃する日本軍を描いた絵>』 (大巡會報『동학농민운동<東学農民運動> 2』より) http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=1朝鮮に対する武力干渉が、「日清両国の戦争」へと広げられたのは、1894年7月25日、日本軍による「奇襲攻撃」が発端でした。このような宣戦布告もない侵略行為が、これ以後日本軍の「常套手段」となります。『충남 성환에서 청군을 공격하기 위해 도열한 일본군의 모습<忠南・成歓から清軍を攻撃するために隊伍を組む日本軍>』 (『同』より)http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=1同年7月29日には、牙山<アサン>・成歓<ソンファン>の清国派遣軍が敗退した。『両軍の進撃経路』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89増派された清国軍に、9月16日の平壌<ピョンヤン>戦闘で圧勝した日本軍は、鴨緑江<アムロッカン>を越え清国内へ侵入。さらに同月17日には、『黄海開戦』で清国北洋艦隊が壊滅的打撃を被って退けられた。『1894년 황해 해전, 판화<1894年 黄海開戦版画>』(清日戦争 韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%B2%AD%EC%9D%BC_%EC%A0%84%EC%9F%81この段階で、すでに日清戦争の大勢は決してしまいます。・清国敗戦の原因 瓦解する「旧式帝国」『パンチの風刺画。小国の日本が、大国の清を破る様子を描いている。』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89人口・国力比からして、本来、清が日本に負ける可能性は低かったのですが、当時ヨーロッパから購入した最新鋭の軍艦を取りそろえ、東洋最強とされた『北洋艦隊』にしろ、司令官である李鴻章をはじめ、すでに帝国が瓦解し軍閥化の流れに移行しつつあった清において、それぞれの指揮官が自らの権力基盤としての「軍事力」を温存するため、決戦を避け、退却ばかりに固執し、最高権力者の西太后に至っては、日本との戦争中だというのに「自らの還暦記念」のために、『頤和園』(いわえん)改修工事に、貴重な戦費を費やす始末でした。国家の大局よりも、自分たちの「権力維持」のみ執着する先に何があるかについては、歴史が証明するによろしく、現在の安倍政権による「売国政策」に一脈通ずるものがあると、個人的には思います。それはさておき、後の日露戦争でも触れると思いますが、清も含めて、いずれも19世紀を転機として、歴史を動かし続けてきた、これら異民族の「征服王朝」である『ユーラシア型国家』(雑多な民族を内包する旧式帝国)の終焉が訪れたのでした。これと対極となるのが、ポルトガルやスペインをはじめ、俗に『大航海時代』において力を蓄え、ゆく国民国家をつくりあげていったイギリスやフランスなど、『近世・近代帝国』が位置付けられます。『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 19頁より「モンゴル帝国の衣鉢」を継ぐこれらの国々、その淵源は、同シリーズにおける森安孝夫教授の『シルクロードと唐帝国』(306~310頁)の『中央ユーラシア型国家』(征服王朝)にあります。 帝国が消滅するとき ひるがえって。一九二〇年のいくらか前、そのすこしく後、ユーラシアに存した幾つかの帝国があいついで消えうせた。世界史上、まれに見る帝国消滅のときであった。 (中略) 目をアジア東方に転じると、第一次大戦にやや先立つ一九一一年、すなわち辛亥の歳に革命がおこり、翌年にいいわゆる大清帝国が崩壊した。正式には満州語で「ダイチン・グルン」、それが漢字に訳して「大清国」。清朝というのは、俗称・通称である。このユーラシア型の帝国は、三〇〇年におよぶ拡大と安定、そして揺らぎと衰えの歴史をもつ。 マンチュリア(現在の中華人民共和国の東北三省)の山野の片隅、ジュシェン<女真>族を核とするごくささやかな連合体に始まるこの国家は、長城の南北にまたがって領域を次第にひろげ、中期から後期の乾隆帝の治世にいたって一〇〇年来の宿敵ジューン・ガル遊牧王国<西洋式の銃火器や大砲を装備した騎馬民族>をほろぼし、モンゴル高原、パミール、ティベットをつつむ大版図を実現した。一七五五年から五八年のことである。ダイチン・グルンにとって、文字どおりの多種族による巨大国家としての歳月は、後半の一五〇年あまりということになる。 ところが、この巨大空間が、「中華」<漢字文化圏の拡大・官僚の文書行政域で古代周王朝を中心とする「天下」周辺を差す>なるものに固有の伝統的な領域・枠組みであるとする考え方が生まれ、清末の動乱期から、さらに民国をはじめにかけての議論のなかで、いっそう昂まりゆく。 (中略) そこに、古き時代からの「漢土」なるものと、ダイチン・グルン皇帝個人によってつなぎとめられた多元の帝国的世界との混濁・錯覚・誤解があったといわざるをえない。漢族ナショナリズムと巨大版図との埋めがたいズレを、孫文は「中華民族」なる造語をこしらえて乗りこえようとしたが、これはいかにも無理だった。※<>は筆者註『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 18~21頁よりベネティクト・アンダーソン(『想像の共同体』)よろしく、民族自体は「近代国家の産物」であることは認識していますが、事実、長い歴史とフィールドワークを通じて、とりわけ中国の人々の意識を「すべて否定すること」を私は望みません。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐上述の「武力を中心」とした騎馬民族と別に、中国文明は、浩瀚な儒教主義にもとづき、欧米国家にはない「大国と小国の共存」と、それに関わる安全保障を長年実現してきた歴史があり、続けて拙ブログに大いな影響を与えた英語ブロガーMichikoさんによる、絶えまない中国の人々との交流が、自分自身の認識を語る上で、諸々の「実感」としてあるのだろう。スウェーデンの中国人差別と、毅然とした中国大使館の対応US force is a menace to the entire worldUSA IS USING JAPAN AGAINST ALL OF ASIARest in peace-the Japanese men died youngここに書かれていることを読んでも目から鱗だし、もちろん「上からの知識」も大切なのだろうけども、それだけでは頭でっかちになってしまう。大事なことは、『プラスアルファ』として、多くの外国人たちとの「質疑応答」が、何より現実を推し量る貴重な経験となりえるのです。‐韓国メディアの朝鮮学校特集 その6(高校無償化『九州裁判』の行方)‐よくMichikoさんとのお話で、中国人はどんなにディスられバカにされようとも「決して揺るがない」とされます。最近中国の方を、日本でよく拝見するようになりましたが、堂々と中国語を話すし、先祖や家族を大切にし、民族のルーツを忘れない意識はものすごい。これは本当に儒教の良いところだし、その懐の深さしかり、中国がありとあらゆる面で成長しつづける原動力になっているのだろうと、私自身は思います。・戦争の「本質」話を朝鮮史にもどすと、この戦いで、後の北東アジアの政局に「多大な影響」をもたらすことになりました。日清戦争は、とくに日本側において、その侵略的野望を実現するための「朝鮮干渉戦争」であり、その勝利は明確な「足がかり」となった。それは、甲午農民戦争(東学農民運動)における、農民軍が目指したものとは正反対であり、「戦勝国」側である日本の民衆ふくめ、東アジアの民衆が封建支配を打ち倒し、帝国主義に勝利するための条件を「ずっと後方へ押しやってしまった」のです。軍事力によって、朝鮮の農民軍を敗北させた明治天皇制政権のとった行動は、この地を本格的な「帝国主義領土争奪戦の舞台」にしていきました。・度重なる内政干渉 日本が朝鮮に突きつけた「内政改革要求」『「朝鮮初の近代憲法」とされる洪範14条』(イラストはチョン・ソヨンさん Chosun Mediaより)※訳文は筆者註 憲法の「主な内容」は、甲午改革の精神に則り、科挙制度の廃止と政治体制の変化、身分制度の廃止などhttp://newsteacher.chosun.com/site/data/html_dir/2018/07/17/2018071700027.html 1 清国に依存する概念を断ち切り、自主独立の基礎を確固に建設する 2 王室典範を制定し、王位の継承並びに王族と外戚の名分と意義を示す 3 大君主は正殿にて国政を執り、政務は時原任大臣と親しく誠実に議論して裁決し、王后・妃嬪・王族・外戚が関与することを認めない 4 王室事務と国政事務は、須く分離し、相互に混合しない 5 議政府及び各衙門の職務権限を明確に制定する 6 人民への課税はすべて法令の定めるところに従い、みだりに名目を加え、むやみに徴収することを禁じる 7 租税の課徴及び経費の支出は、すべて度支衙門が管轄する 8 王室費は率先して節減し、各衙門と地方官の模範とする 9 王室費及び各衙門の費用は、あらかじめ年間予算を作成し、財政基盤を確立する 10 地方官制を急遽改定し、地方官吏の職権を制限する 11 全国の聡明な青年を広く外国に派遣することにより、外国の学術と技芸を伝習させる 12 将官を教育し、徴兵法を施行して、軍制の基礎を確定する 13 民法と刑法を厳明に制定し、まさに監禁したり懲罰することを禁じ、人民の生命と財産を保全する 14 人材を採用するのに門閥や地縁に拘らず、士を求め朝野に遍及することにより、人材登用を広く均等に行う『洪範14条』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%AF%8414%E6%9D%A1上述の「朝鮮初の近代的憲法」と呼ばれる『洪範14条』は、主に金弘集の『甲午改革』を名分としている。これに先立ち、日本軍が朝鮮上陸を敢行して間もなく、帝国政府は朝鮮に対して「内政改革要求」というものを提示した。無論、朝鮮の封建社会自体は、誰の目から見ても根本的な改革をしなければいけない状態であったのは確かでしたが、「そういう事態」を見て取った日本が、これ見よがしに「内政改革」に付け込んできたのは分かりきったことでした。改革のスローガンを横取りし、さらに侵略と開戦の口実として利用しながら「朝鮮の如き国柄が果たして善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑へり」(陸奥宗光『蹇蹇録』)と、あくまで朝鮮を獲得するにおいての「外交上の問題」として考えなかった内容や、軍事的威圧によって屈服させようとした形式からして、このような「改革案」が、反動的な封建政府にさえ受け入られる性格のものではなかった。朝鮮から要求を「拒否」されると、既定方針どおり、帝国側は「軍事クーデター」を断行し、李是応(大院君)を担ぎ出そうと失敗した末、開化派の流れをくむ金弘集を中心とする政権を作った。この金弘集によってなされた改革が、『甲午改革』と呼ばれるものです。これには欺瞞的な日本政府の「要求」が容られているかに見える。しかし、改革の具体的内容については、開化派官僚たちが「もともと構想してきたもの」であり、東学農民反乱をたたかった民衆の要求を色濃く反映したものでした。 第一に、「改革」は封建社会の機構の解体を方向づけるものであった。官吏任用法の改善(科挙制度の廃止)、官吏の不正行為に対する統制の強化など封建官僚機構にメスが入れられ、さらに破綻した封建経済を新しく組織化することがめざされた。 (1)各官衙<かんが・官庁および役所>に分掌されていた国家財政の度支衙門への一元化 (2)貨幣制度の整備と度量衡の統一 (3)租税の一律金納化などの一連の措置 (中略) 第二に、この「改革」は、保健的な身分制度を大幅に撤廃しようとするものであった。 (1)両班、良人のあいだの身分差の撤廃 (2)公使奴婢法の廃止による奴婢身分の制度的解放 (3)賤民層の解放 (4)女性再婚の自由の保障 (5)一族まで罪の及ぶ「罪人縁坐法」の廃止(人格の独立化)※<>は筆者註『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 180頁よりしかし、このような「上」からの急激な「改革」は、それを享受すべき民衆の農業や商工業における「生産面での保護と改革」がなおざりにされた。そのため、大きな歪(ひずみ)を朝鮮社会に生み出し、資本のために多くの封建的な制約が取り除かれたが、それはあくまで「日本資本のため」であり、朝鮮ではすでに、経済的のみならず、軍事的や政治的にも「日本の支配」に覆われようとしていました。終局的に、民衆の目には、この「改革」の近代的側面も侵略の表現としか映りようがありませんでした。彼らは、侵略と並行する「近代化」を否定し、これと対決する道を選んでいった。結果、大衆的支持を取り付けられず、真の改革を阻む侵略者の圧力や、閔妃一族の流れをくむ守旧的な大地主官僚の封建的反動もあって、この「改革」事業は効を奏さず、中途で挫折してしまいます。いよいよ、朝鮮植民地化の危機は「確定ルート」として進行していく。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』 森安孝夫 講談社・『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社・Cluttered talk blab blab blab 『スウェーデンの中国人差別と、毅然とした中国大使館の対応』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12408173225.html・同 『US force is a menace to the entire world』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12271343002.html・同 『Rest in peace-the Japanese men died young』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11986920751.html・同 『USA IS USING JAPAN AGAINST ALL OF ASIA』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12063122884.html<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 14Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐・「穀倉地帯」全羅道ではじまった 大規模な農民反乱 『甲午農民戦争(東学農民運動)』『동학 농민군 측에서 사용한 척왜양창의(斥倭洋倡義, 일본 세력과 서양 세력을 배척하고 의를 내세운다) 깃발 <東学農民軍側で使われた日本・西洋侵略者打倒>の旗』 (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8F%99%ED%95%99_%EB%86%8D%EB%AF%BC_%EC%9A%B4%EB%8F%99水利増米の濫徴に反対して、全羅道古岐<チョルラドコブ>で始まった民乱は、当時(日本への)米穀輸出等をめぐって、最も矛盾が鋭くなっていた「この地域」の状況を反映し(全羅道の中心地は米作地帯であり、国家税米の大半を負っていた)、そして最も戦闘的に組織されつつあった『東学運動』の発展(政治的運動を主張して、教団内部で「北接」と大きく二つに対立した東学「南接」の主力は全羅道にあった)という主体条件が備わり、急速に大農民反乱へと拡大していきました。『近現代史・동학농민운동의 배경과 전개과정, 의의<東学農民運動の背景と展開過程、その意義>』https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=toeicmeister&logNo=220829127961&proxyReferer=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Furl%3Fsa%3Di%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dimages%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwiSuNe--c7kAhV0yIsBHfoYCMgQjxx6BAgBEAI%26url%3Dhttp%253A%252F%252Fm.blog.naver.com%252Ftoeicmeister%252F220829127961%26psig%3DAOvVaw0sBL4c3NGOQvKCV0eaGzGS%26ust%3D1568503610293890いわゆる、『東学党の乱』として不当に「反乱の本質」を歪め呼びならわされてきた、近代史上最大の農民反乱は、甲午<カボ>の年(1894年)に前述してきたことを基礎にして発生したのです。 (注)日本では「東学党の乱」というよび名があたりまえのように使われているが、この言葉は当初、官憲側が「賊」よばわりする語感で用い、それをそのまま、日本人がかりて用いるようになってしまったもので、歴史的発展の可能性をはらんだ大農民反乱を、単なる矮少な宗教反乱のように誤解させるという意味でも、使うべきでない。なお、朝鮮では「甲午農民戦争」ともよばれているが、あまりヨーロッパの農民戦争と直結したイメージでとらえすぎないように、ここでは「甲午農民反乱」という用語に統一した。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 175頁より『同』 176頁よりより鮮明な写真 韓国紙『中央日報』より ※画面右から二番目に担がれる人が全琫準<チョンポンジュン>https://news.joins.com/article/17660449官憲による矮小化を否定するものとして、数十万の農民軍を指揮した全琫準は、斬首前の法廷陳述ではっきりと述べ、民衆自身もそれに呼応していた。 「放棄したとき、虐政をうらんでいた人々も東学人も一緒にたちあがったが、東学人は少なく、虐政をうらんでいた人が多かったのだ」と。そして彼は、「多くの人々が苦しみ嘆いていたから、人々のために害を除こう」と広く決起をうながしたのであった。のちに民間に歌いつがれた童謡は、全琫準がいかに民衆の気持ちを適確にとらえたすぐれた指導者であったか、そして、朝鮮民衆がいかに彼を慕いつづけてきたかを暖かい詩情をただよわせて切々と歌いあげている。 鳥よ鳥よ青鳥よ 緑豆<ノットゥ>の畠におりたつな 緑豆の花がホロホロ散れば 青舗売り婆さん泣いて行く (「緑豆」は全琫準の幼名で、「青舗」は豆を材料とする菓子)※<>は筆者註『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 176頁より・閔氏政権との和平条約 制度改革を促した『弊政改革条目』『(地図に赤く塗られている部分は)第一次農民軍の活動地域/(地図にある青→は)第一次農民軍の進路』 ※日本語文字は筆者註 また年数に違いがありますが、他の韓国語サイトを見聞すると、『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂と同じ年月日でした。https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=toeicmeister&logNo=220829127961&proxyReferer=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Furl%3Fsa%3Di%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dimages%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwiSuNe--c7kAhV0yIsBHfoYCMgQjxx6BAgBEAI%26url%3Dhttp%253A%252F%252Fm.blog.naver.com%252Ftoeicmeister%252F220829127961%26psig%3DAOvVaw0sBL4c3NGOQvKCV0eaGzGS%26ust%3D1568503610293890『古岐郡<コブグン>の反乱』は、全琫準らが『倡義文』を各地に発したことによって「全羅道全体」に拡大し、隊伍をととのえた農民軍は官軍との全面対決に突入していった。『甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%8D%88%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89全羅道各郡に檄を飛ばして、たちまち1万人以上に膨れ上がった農民軍の主力は、1894年5月11日に『黄土峴<ファントヒョン>の戦闘』で官軍を破り、全羅道内の各郡邑を席巻していきます。地方営兵の敗報が続出すると、あわてた王朝支配者(閔氏一派)たちは、中央の精鋭部隊を投入しましたが、これもあっという間に敗北し、同年5月31日には、全羅道の首府全州が農民の手中におちた。李朝政府は、官軍の主力が全州奪還に繰り出す一方、またしても「清軍の出兵」を要請する手段に訴えた。清軍が朝鮮に到着すると同時に、朝鮮侵略の機会をうかがっていた日本帝国主義は、清軍を上回る大兵団を投入し、日清戦争を挑発して、朝鮮植民地化の野望を露骨に現実化してきた。しかし、これらの外国侵略軍とは直接戦闘を交えることなく、農民軍は全州攻防戦で官軍を退け、『全州和約』を1894年6月10日に締結させることに成功した。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 177頁よりこの和約締結にあたって、『甲午改革』の文面にも影響をあたえた全般的な改革案が、農民軍側から提出されました。いわゆる『弊政改革条目』です。そこには「農民・商工業者の成長を拒む要因」となっている、「外国商人の侵略的商業活動」および「封建支配層の『苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)』」に対する、いくつもの「具体的批判と撤廃要求」が盛られていました。それだけではありません。「奴婢文書の焼棄」など、封建的な身分制度撤廃の要求も強く押し出され、さらに重要なことは、これを「農民たちが自らの要求をつらぬくため」に、全羅道すべての郡に『執網所』という農民的自治機関を設置することを、朝鮮政府に認めさせたことで、これよりしばらくの間、全羅道には特殊な「二重権力状態」が生み出された。執網所は、農民軍より指名された「執網」のほか「議事」などによって構成され、形式的には在来の地方官庁に対する監視機関ですが、実質的には独自の地方権力に近い役割を果たした。そこでは、「官衙(かんが=官庁・役所)と民間に残っている武器と馬を集め、護衛軍を組織して万一に備える一方、奴婢文書の償却、債務関係の取り消しなど」(『朝鮮近代革命運動史』)を実行していきます。・東学運動の「悲惨な最後」 しかし近代民主化闘争として朝鮮人の血肉となった「貴重な経験」しかし、それもつかの間、すでに日本侵略者による「朝鮮植民地化の危機」が刻々と深まっていったこの時期、40万にものぼる農民軍が、侵略者打倒を主目標にして、急ぎ再蜂起することになった。内部の統一が十分に固められないまま、しかも軍事的には圧倒的劣勢を免れなかった農民軍は、日本・朝鮮政府の反動連合軍に対して果敢に攻撃を加えたたかいましたが、その結果は悲惨であった。『장흥신문<チャンフン新聞>』よりhttp://www.jhnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=456050『東学軍(農民軍)との戦闘に参加した日本軍人たちの姿』 (大巡會報<テスンフェポ>より)http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=11894年11月末の公州<コンジュ>(忠清道の首府)における敗北を境にし、農民軍部隊は各個に打ち倒されていった。そして、正確な記録は残されていませんが、3、40万人もの民衆の生命が奪われたといわれ、「東学軍参加者の財産はすべて官吏のものとなり、家屋などは灰燼に帰し、その他婦女の強奪・凌辱などはとても筆につくせないほどであった」(『東学史』二二八ページ)とされています。このような朝鮮民衆の『近代のいぶき』を象徴した大規模な農民闘争は、侵略軍が中心となった「掃討作戦」によって終息させられていったのでした。『甲午農民戦争(東学農民運動/甲午農民反乱)』における、「農民軍の敗北」は、李氏朝鮮封建制度の「最終的解体」を決定づけ、それに代わるものを築こうとしたところを、「外からの物理力」によって阻まれてしまったことを意味します。つまる「反乱の結果」は、朝鮮民衆の多大な血の犠牲に上に、「朝鮮植民地化へのコース」が敷かれていくことを確定づけるものとなった。しかし、ここで示された反侵略の闘争力量は、朝鮮民衆の貴重な歴史的遺産となり、反侵略の闘争が主要な課題となった次の時期には、『義兵闘争<ウィピョントゥジェン>』や『三・一運動<サミルウンドン>』などの、数々の革命運動や民族・民主化運動の「原動力」となって、さらに根をおろし、幅を広げて受け継がれていきました。・自分なりの結論このように、都合の悪い過去はひたすら見ないフリをして、当事者たち抜きの解釈で、いつまでも政治や歴史を語るのなら、もはや日本にとって悲劇でしかない。Will you accept a presence of foreign military?②60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐モノリンガルゆえに、自分たちが「今どのような立場にあるのか」について、世界レベルにおいて反証と是正が急務となるこの時期に、狭い国内では、概ね右や左、その他にカテゴライズされている人たちにせよ、現象として「お上に与えられた情報」だけを世の中に拡散され、そうした濁りきった汚い水が日本社会に溢れることによって、人間自体も腐っていくのだ。『山田洋次監督のことば』 (友人のLINE画像より)腐敗し、売国的で排外的な現政権に、今このときこそ、過去の朝鮮民衆の軌跡に倣って、ひとりひとりの日本人の「意識改革」が求められていると思います。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 13Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐・奪われる国益 列強の「経済植民地」と化した朝鮮1880年代に入ると、農民層・新興商人層などの社会改革を求める志向と、李氏朝鮮封建層の古い構造とのあいだの矛盾は、ますます深くなり、鋭くなった。そしてまた、農民層や新興商人層にとって、日本や清の経済的浸透とも対立し、これへの従属化の道を克服しなければ、自らの成長は望めない段階に来ていました。1882年の『朝清水陸貿易章程』によって、「清国商人の内陸行商権が確立」されたのに続き、1883年の『朝英条約』は「朝鮮国内の行商権をさらに広く開放」した。なお同年には、アメリカとドイツが、翌1884年にはロシアとイタリア、そして1886年にはフランスが侵出し、朝鮮との不平等条約を結ぶことに成功した。・朝鮮を食い物に国権を拡張しつづけた日本『川上音二郎(作)・オッペケペー節 / 土取利行(唄・演奏)』https://www.youtube.com/watch?v=PzY_vMTnFLY 洋語をならふて開化ぶり。バンくふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務(きうむ)だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。 異國におとらずやッつけろ。神國名義だ日本ポー『オッペケペー節』(明治時代の流行歌 1889年作詞 Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%82%B1%E3%83%9A%E3%83%BC%E7%AF%80‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識①)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識②)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識③)‐しかし、この時期における経済的侵略(それは朝鮮の封建的な領主経済構造の解体と、商品経済の発達を一面より促進すると同時に、自国における農民・商工業者のブルジョア的成長を阻止する役割を果たした)の「主な担い手」は、日本人および清国人商人でした。※清の頽落と冊封体制崩壊について‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐彼らは綿製品などの仲介貿易に従事し、朝鮮民衆の経済的成長とは相いれない歪んだ商品経済化を促す一方、特に日本人の商人たちは、穀物・金などを強奪的に持ち出して、日本資本主義の尖兵的役割を十二分に発揮した。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂173頁よりたとえば、日本資本主義の「金本位制への移行」にとって、欠くことのできなかった「金準備」は、朝鮮開港後の最も大きな部分が「朝鮮から輸入される金」によってまかなわれた。朝鮮産金(ゴールド)が、日本の資本主義成立に果たした重みは、表にみるように誰が見ても明らかです。朝鮮の富を犠牲にし、日本資本主義は肥え太っていった。‐新一万円札と新五千円札の「顔ぶれ」についての所感‐在日コリアンの友人のお父さまが、ワイン関係の仕事先で、フランス人の方々と家族ぐるみの付き合いで親しくされていますが、そこの話によると、妻の祖母が昔(父の代)にアルジェリアで鉄道事業を経営し、中世の古城をいくつも所有されていたそうです(現在ではほとんど売却してしまいましたが)。そうした「宗主国側」の実体験を通じ「当時のフランスは植民地でとてつもなく儲けた」と、貴重なお話をして下さりました。つまり、そういうことです。産業革命以後における、「生産能力の飛躍的拡大」は、製品を作り出すための材料を膨大に必要とし、結果、加工のための「資源大量獲得」を目指し、同時にそれらの「消費先」を抑えることが優先されました。それは欧米列強の「植民地獲得競争」へと繋がり、グローバル規模の植民地経営の進展にともなって成長する金融資本です。無論、これに「戦争はつきもの」です。後の時代になると、これら植民地を保有する帝国群の「ブロック経済化」が進み、相互依存性はなく、恐慌を乗り越えるために、さらなる戦争へと突き進んだのが、ドイツや日本を含めた『第二次世界大戦』でした。話がそれてしまいましたが、朝鮮では1890年代を転機として「日本への穀物の大量の持ち出し」がはじまった。それまで100万円台を上下していた日本への輸出金が、1890年に入って、一気に400万円台までに跳ね上がった。半ば強制的な米穀の「買占め」が、日本人の手によってなされるに至った。『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93この穀物大量搬出に対しては、すでに1880年代から各地で防穀令事件が発生していた。『同』 174頁より封建支配者たちは、穀物搬出が在来の流通機構を破壊することを恐れてこれに反対したが、農民や都市小市民の生計悪化は、彼らをして反侵略のたたかいの必要性を、ますます強烈に意識させるようになりました。同様の事態は、手工業部門においてもみられ、日本産綿布が朝鮮在来の綿工業の発展を圧迫するなど、破壊的な事態がいちだんと強まっていった。つまり、このころの朝鮮では、「植民地化の危機」に際し、成長しつつあった民衆の力を結集して、これに克服するか。あるいは、それに呑み込まれてしまうのかという、重大な瀬戸際の時期に差し掛かっていたのです。・「国家的危機」の前に登場した『東学思想』このようなとき、下層民衆の願いを幅広く組織し、全国的に「横のつながり」をつける上で、重要な役割を果たしたのが『東学』でした。『최제우 초상<崔濟愚肖像>』 조선후기 인내천의 교리를 중심으로 한 동학을 창도한 종교창시자. <朝鮮後期に『人乃天』の教理を中心にした東学の宗教創始者>『한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>』よりhttp://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0057640以前、拙ブログにおける北朝鮮政治のお話をしたとき、『天道教青友党』という政党が出てきましたが、その淵源は崔済愚<チェジェウ>の東学思想に由来します。 天道教は一八六〇年に崔済愚が創始した「東学」が一九〇六年に改称したもので、その信者は一八九四年の「甲午農民戦争」(いわゆる「東学党の乱」)、一九一九年の三・一事件、さらにその後の反日運動のなかで重要な役割りを果たしてきた。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188頁より‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか 最終回(朝鮮民主党・天道教青友党・祖国統一民主主義戦線)‐この東学の運動は、表面的には「宗教的結集」という性格を持ちつつも、その中には「反封建」「反侵略」という、当時の民衆意識を豊かに内包していた。ゆえに、それが民衆の政治的結集をうながすための「有力な武器」となりえたのです。殺された教組崔済愚の『伸寃運動』(逆族の汚名を政府に撤回させ、教団の合法化を要求する運動)が数千名を集める参礼集会<チャムレチップェ>(1892年)となり、それが翌年の報恩集会<ポウンチップェ>では2万名以上もの民衆が参加して、全面に押し出すものとなりました(参礼・報恩はいずれも集会の行われた地名)。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・Youtube動画 『川上音二郎(作)・オッペケペー節 / 土取利行(唄・演奏)』https://www.youtube.com/watch?v=PzY_vMTnFLY・한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典> 『최제우(崔濟愚)』記事http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0057640<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 12Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐

      ・『開化派思想』の歴史『개화당 주요 인물(開化団主要人物)』 개화사상(開化思想) 조선 후기 형성된 자주 근대화·변혁·진보를 지향하는 정치사상. <朝鮮後期に形成された自主近代化・変革・進歩を志向する政治思想>※<>は筆者註『한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>』よりhttps://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0001759内外の矛盾の深まりと、民衆の反封建・反侵略闘争の激化のなか、今や朝鮮民族史の一大変革は不可避であった。両班支配層の中にも、このような「開国後の現実」を自覚し、対処の道を探ろうとして、ただ旧来の因習にしがみつき、定見(主体性)もなく状況に流されている閔氏一族の執権者をはっきり批判する新たな「二つの政治思想」が登場した。そのひとつが、朱子学的な価値観に立って反侵略闘争を重視する、前述の衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>であり、さらに別の思想として、封建体制自体を否定し、近代改革を実現することによって民族的危機を乗り切っていこうと目指す開化派<ケファパ>でした。最近の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史家の研究によれば、金玉均<キモッキュン>らを中心とする政治党派としての開化派の形成は、1874年ないし、それ以前の時期にさかのぼるとされていますが、前提となる『開化思想』は、すでに1860~70年代には確実にある程度成熟し、普及を遂げていた。やがて、金玉均らの政治活動に焦点を結んでいく「開化思想の系譜」は、ふたつの源流から発しています。その一つは、呉慶錫<オキョンソッ>と劉鴻基<ユホンギ>らによって代表される、『中人』(両班と平民の間)身分のインテリたちの開化思想です。彼らは主に、翻訳官や医師などを生業としていたが、その職務柄、いち早く中国経由で欧米の科学知識に触れ、さらには、その社会制度や世界情勢の認識を深めるにつれ、これらを積極的に摂取し、近代改革を遂行しなければ、欧米の外圧に対処することができないという危機意識を持つようになっていました。ことは急を要するのに、彼らの「身分が低い」ため、急速に大きな政治的影響力を持つことができなかったので、彼らは、意識的に、執権者に連なるような有力な両班の子弟に接近した。中でも、進取の気性(先見性)と才能に富む青年と接触し、書物を貸し与えるなど、開化思想によって啓蒙組織する活動を展開したのでした。もう一つは、『実学思想』を継承し、さらに発展させようとする両班知識人の努力の影響です。殊に、実学派の大学者であった朴趾源<パッチウォン>の孫にあたる、朴珪寿<パッキュス>は、当時政府部内で重きをなす人々の中では、「最も開明的な考えの持ち主」でしたが、自宅の舎廊房<サランバン>(客間)を、進歩的な青年両班たちに開放し、感化を与える機会をつくりました。『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 167頁よりこうして、呉・劉の努力で目をひらかれ、朴のもとで研鑽を積んだ青年たちの中から、同志的親交が芽生え、ひとつの政治的グループがうまれていくのです。なお、同時代には崔漢綺<チェハンギ>のように、実学の枠を一歩こえて、『変法自強<ピョンボッチャガン>』を唱えるユニークな思想家も登場しており、活発化した思想状況を背景にして、開化派の形成もうながされたと思われます。『同』 168頁よりこのような経緯によって形成された開化派における当初の中心人物たちは、リーダーの金玉均をはじめ、朴泳孝<パクヨンヒョ>と洪英植<ホンヨンシッ>、徐光範<ソグァンボム>ら、さらには金允植、魚允中、金弘集など、いずれも劣らぬ名門両班出身であったから、やがて政権内に進出して相当の地位につくようになった。そして、下級官僚や宮女、軍人、さらにおそらく若干の商人などにも影響を与えるようになり、『忠義契<チュンウィゲ>』という名の細胞組織がつくられはじめます。『김홍집<金弘集>』 (한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>より)http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0011098開化派の「宮廷内における政治活動」は、1881年、金弘集を正使とする修信使(外交使節団)が渡日し、金玉均も随行して日本を見聞して以来、いちだんと活発になった。特に、壬午軍乱の収束以来、若い国王高宗に影響を与えるほどまでになりましたが、それにつれて守旧派<スグパ>である閔氏一族との「対立」も鋭くなりました。ここで開化派は、ふたつの流れ分化していきます。比較的「技術面における改革」に重きをおく、金允植および魚允中らは、むしろ閔氏勢力と妥協して、その内部で改革をはかっていこうとしたのに対し、金玉均らは「あくまで閔氏勢力と対決して権力を掌握しなければならない」と考えるようになり、壬午軍乱についても、むしろ清国に連行された李是応(大院君)に同情する見解を示しました。・改革を求め 日本への「接近」そして、金玉均の指導する開化派(急進派)は、日本の力を利用した改革を進める方向を選ぶようになる。彼の政治思想は「日本が東洋のイギリスとなるなら、朝鮮は東洋のフランスとならねばならない」(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 169頁より)という言葉にも示されるように、「西欧諸国が数代かかって成し遂げたことをわずかな期間に達成した日本」(『同』 同頁より)の明治維新に、模範を見出すことに執着していった。まあ、これについては「0から1を作ること」より、「出来上がったモデルケース(近代主義)をコピーするだけ」ですから、実際は、そんなにもてはやされるべきではありません。ここで『倭人文化の力』について、英語ブロガーのMichikoさんの記事を二つ掲載させていただきます。沖縄、引き裂かれたアジアの仲間たちアフリカで祝う「中秋節」話をもどすと、金玉均の思想は、両班らしい統治者的な「国家への責任感」に発する、彼なりの問題提起で、軍事的にも政治・経済含めた富強な資本主義国家を、「上からの制度改革」によって成し遂げることで、まさに明治維新のメソッドが、彼の意識にマッチしたのです。しかも外圧が急迫している状況のもと、急速にそれを達成するためには、むしろ積極的に日本に接近し利用しようとする「危険な道」を選び、まず福沢諭吉らと交わって、彼のもとに金玉均の影響下にある青年たちを留学させ、さらに福沢らを通じて、明治政府内部の井上馨(いのうえかおる)らに接近していった。・互いに利用し合う関係 きたる『甲申政変』金玉均はまず、日本政府からの借款で財政の「近代化」を実行することにより、政権内の主導権を取ろうとした。しかし、当時の日本政府側には、もともと巨額の借款を彼に供与する気もなければ、そういう財政余力もなく、ただ金玉均らを「親日派」に転化させて利用するために、無責任な空約束をしたに過ぎませんでした。結果、この計画は挫折した。このことを反対派に批判される中で、1884年に入り、金玉均らは「武力による政権奪取」を計画するにいたります。このような『クーデター計画』は、彼らによって独自に進められていたが、漢城(現ソウル)駐屯の清国軍が閔氏側に立って動くことを考慮に入れると、これに対する軍事力としては、日本軍に期待しないわけにはいきませんでした。計画は、1884年12月4日の郵政局落成祝賀式を機会に決行され、金玉均らは高宗国王を擁して、ただちに新政府を構成しました。・三日天下の政権 狡猾でしたたかな日本政府そして翌朝、新政府の政網を公布するとともに、次々と新制度を立案していこうとしました。ところが、閔氏側が国王にひそかに連絡をつけることに成功したのを機に、袁世凱<ウィアンスカイ>率いる優勢な清国軍が襲い掛かり、一方、駐屯日本軍は新政府支援に動くことはせず、政権はわずか3日で崩壊してしまった。『袁世凱』 (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%84%EC%95%88%EC%8A%A4%EC%B9%B4%EC%9D%B4金玉均・朴泳孝はかろうじて日本に亡命し、最後まで高宗国王と行動をともにした洪英植らは殺害された。『홍영식<洪英植>』 (同より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%80この間、日本公使竹添進一郎らの動きはどうかというと、政変がおきる1884年9月段階で『清仏戦争』が起きると、以下のような策略をめぐらしました。『竹添進一郎』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E 清国に余力がない今が、朝鮮に介入する好機『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 170頁よりこのように、クーデターを大いに支援するというより「利用する姿勢」を示したいたが、実際に決行された12月段階には、すでに清仏戦争が一応収束しており、日本政府は「情勢不利」とみて介入しないことに政策変更してしまっていた。もちろん、日本軍の介入があったら良かったなどと言えないにしろ、当時案を通じて、結局日本側は金玉均らを心から支援する姿勢など微塵もなく、ご都合主義的に利用しようとする意図があっただけだということが物語っています。状況不利とみると、日本政府はすばやく無関係を装い、逆に臆面もなく公使館の損害などに対する朝鮮政府の賠償を強要して『漢城条約』を結ばせ、清国との間には、一時的妥協をはかるための『天津条約』を締結した。そして一方、亡命してきた金玉均らについては、これを厄介者扱いして、北海道から小笠原へと僻地に追いやった。また、福沢諭吉らの態度も、政府のそれと何ら変わらなかった。『明治24年(1891年)頃の肖像』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89彼も、自らの責任を棚に上げて、朝鮮の開化派に言いたい放題の悪口を浴びせるようになり、翌1885年には『脱亜論』を仕上げ、後々と露骨極まりない侵略主義を公然と煽り立てるようになる。‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 171頁より福沢にとっても結局、金玉均らは「日本の国権を伸ばすための利用対象」に過ぎなかった。・金玉均の総括 その最期金玉均が『甲申政変<カプシンチョンビョン>』で何を目指していたのかは、のちに亡命中に執筆された『甲申日録』の中で、記憶にもとづき記されている『略録一四ヵ条』によって、その内容をおよそ知ることができる。「門閥の廃止」「地税制度の改革」をはじめとする「官制・財政・軍制などの改革」に関するものからなっており、まず制度面の近代化をはかることを通じて、上から社会改革をもたらしていこうとしたことがわかります。しかし、このような朝鮮史の発展方向に沿った改革を、まさに金玉均らは、朝鮮の民衆の力量に依拠して進めていくことを構想できなかった。彼らは、農民たちは「無知で遅れていて期待できない」と見ており、それだから「日本の力」に期待したのでした。が実際、民衆意識は大きく盛り上がりはじめていた。もちろん開化派の軌跡も、後のブルジョア民族主義運動に引き継がれていく重要な契機となったのは確かです。『김옥균 암살 당시 일본의 어느 신문사에 실린 기사와 삽화』<金玉均暗殺当時 日本の某新聞社に掲載された記事と挿絵>https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%801894年3月、閔氏政権が派遣した洪鍾宇<ホンジョンウ>によって、金玉均は上海に誘い出された末に暗殺され、悲劇の生涯を閉じた。『효수되어 한성부 저잣거리에 내걸린 김옥균의 수급』<斬首され漢城部市街に晒された金玉均>https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%80遺体は漢城(現ソウル)に連れられ、『大逆不道』の幟を下に晒された。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>『개화사상(開化思想)』記事https://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0001759<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 11Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その5(閔氏政権と日朝修好条規)‐・日本の砲艦貿易 荒廃する朝鮮市場『강화도 조약 체결 모습<江華島条約締結の模様>』 (우리역사넷<ウリヨッサネット>より)http://contents.history.go.kr/front/ti/view.do?treeId=06024&levelId=ti_024_0010『강화도 조약<江華島条約>』 (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%95%ED%99%94%EB%8F%84_%EC%A1%B0%EC%95%BD1876年の江華日朝修好条規)以来、日本の略奪的な対朝鮮貿易は、はやくも従来の生産と生活の体系を激動させ、急速に朝鮮人民の「反日感情」が高まっていった。条約上認められた活動範囲は、居留地内に限られていたため、日本商人は内陸から出てくる朝鮮商人を利用して暴利を追求した。軍艦を背景とする「げんこつ商法」で、金の地金と生活必需品である農・漁産物を安い価値で持ち出し、繊維品を中心とした外国商品を高い価格で持ち込むという不等価交換の商業利益をあげた。このため朝鮮の手工業者は没落し、都市民衆の物価騰貴に苦しみ、農民の生活も変容を強いられた。・無能の極み 閔氏政権による「朝鮮の舵取り」こういう状態を、時の閔氏政権が無策のまま放置し、むしろ商品経済の波に呑まれて腐敗と浪費を強めたことは、民族的危機を倍増させました。しかも、閔氏政権は、1881年ごろから旧体制を維持したまま、欧米列強にさらに広く国をひらく決意をした。それと同時に、微温的ながらも開化思想をもつ官僚であった金弘集<キムホンジッ>と魚允中<オユンジュン>らの意見をも、技術的な面に限って受け入れるようになった。それは、このような「および腰の開国=近代化」が、かえって民族的危機を深めることを憂いた崔益鉉<チェイッキョン>ら両班儒生の、『衛正斥邪運動<ウィジョンチョッサウンドン>』(攘夷思想にもとづく政府批判の運動)を激発させる契機となります。・旧軍への「圧迫」 壬午の軍人反乱特に、1881年4月、日本の介入を受け入れて軍制を改め、「新式軍隊」として『別技軍<ピョルギグン>』を設け、日本陸軍少尉の堀本礼造を教官として招いたことは、民衆にとっての大きな問題になった。『별기군(別技軍)』https://forseason.tistory.com/11332失業する運命にある旧軍隊の兵士の不満は、増大していきます。そのうえ、堀本が故意に別技軍を漢城(現ソウル)内で訓練して、市民の反感を増幅させていた。『日本から招聘の軍人将校により指導の韓国の新式軍隊「別技軍」』https://jaa2100.org/entry/detail/044982.html新式軍隊の支出が増大した結果、旧軍隊の一般兵たちの奉祿米(給料)は13ヵ月もストップされた。そして、1882年7月にやっと1ヵ月分が支給されたと思ったら、役人の中間搾取もあって、米の半分は砂などが混じっていたため、いよいよ兵士たちの怒りが爆発します。その矛先は閔氏政権に向けられ、武器を取って立ち上がりました。日本から経済侵略を受けていた漢城(現ソウル)では、その被害は甚大で、民衆も旧軍兵士らと呼応し、反乱に合流していきます。結果、閔氏政権は崩壊し、反閔氏勢力として捕らわれていた人々を解放しました。さらに、兵士らの攻撃は、大本である日本人侵略者にも向けられ、堀本らを殺傷した。『花房義質』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E7%BE%A9%E8%B3%AA『在朝日本公使館弁理公使だった花房義質』 (同より)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1当時、日本公使である花房義質(はなぶさよしもと)らは、済物浦(現インチョン)に逃走しましたが、そこでも民衆の攻撃を受け、急遽イギリスの測量艦に乗って、命からがら長崎へ落ち延びました。『小舟で朝鮮を脱出した花房はじめ公使館員』 (同より)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1この朝鮮人民の侵略者と、それに従属する腐敗政権に対するたたかいは、朝鮮開国後最初の『愛国・反日の民衆闘争』の先駆けとして、高く評価されねばなりません。・第二次大院君政権の成立『興宣大院君』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B日本の侵略者を叩き出した漢城(現ソウル)では、兵士に信望ある李是応(大院君)が推されて再び政権に就き、それによって反乱は収束された。新政権は、日本への無策な屈服の結果を正す施策にさっそく着手した。軍制は旧制度にもどされ、各種都賈(買占め/トガ・とこ)は禁止された。この都賈とは、日本商人の代理人となって、受託販売・購買をおこなう特権的買弁商人のギルドでした。また褓負商<ボブサン>を政府のもとに公認して、政権の一基盤とし、監督・保護するようにして、翌年には、そのための『恵商公局<ヘサンコングッ>』が設けられた。第二次李是応政権の施策も、主観的には王権強化を目指すものでしたが、民衆の抗日・反閔闘争と一定の合致点がありました。外国勢力を迎えつつ、主体的に近代化政策を取ることを否定した衛正斥邪論者と通ずる面もありますが、西洋化と侵略の一体化への反対闘争としての意義は高く評価されるべきでしょう。・日清両国の介入により崩壊した大院君政権ところが、この政変を「自国の勢力拡張」の機会とみた、日清両国の介入は、一ヵ月足らずで、この李是応政権を崩壊させてしまう。そして、再び閔氏一族の政権が復活したことは、その後の朝鮮社会に「大きな打撃」を与えた。すなわち、前述において日本に逃れた花房公使は、再び陸海軍を率いて朝鮮に向かいましたが、反侵略的な李是応(大院君)との話し合いは避けていました。一方、清国の洋務派政権も、金允植<キムユンシッ>や魚允中<オユンジュン>の「出兵の要請」を理由に、漢城(現ソウル)に軍を派遣した。清国の軍隊は、1882年8月26日、李是応(大院君)を捕らえて、自国の天津に監禁します。また、反乱の拠点となった往十里<ワンジュリ>・梨泰院<イテウォン>地区を攻撃し、多数の民衆を殺傷しました。この両地区は、漢城(現ソウル)の東郊外にあり、兵士の家族が多く、農民出身者や下層貧民が住民のほとんどでした。・西洋帝国主義に感化され 崩壊した中国の「冊封体制」このような清軍の悪行の前に、いくら朝鮮政府の要人や閔氏派の「救援要請」にしろ、ここまで露骨に内政干渉を行うのは異例です。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐本来の北東アジアにおける冊封体制とは、上記で詳細を示しましたが、名目的であり、現実的な同盟関係によって成り立っていた。朝貢国は宗主国から大いなる財物と先進文化を手に入れ、軍事面でも、かつて豊臣秀吉が朝鮮を侵略したときも、明は救援軍をまわし、10万人の戦死者と1000万両(タール)の戦費を費やした。しかしながら、アヘン・アロー戦争で、列強の前に度重なる屈服をつづけ、国内政治も衰亡の兆しが見えてきた清(中国)において、もはやかつての「余裕」はなく、否応なく欧米諸国との国際関係に「組み込まれていく」中で、伝統的な冊封体制を「ヨーロッパ的な支配従属関係に読み替えて行った」ことに尽きる。本来、東アジア秩序の中において、徳や義によって、大国と小国は共存しあってきたが、今や清(中国)は、朝鮮を「欧米式の属国」として取り扱うようになります。下の記事は、中国衰退によって生まれた悲劇について、英語ブロガーMichikoさんが縷述されています。明は、なぜ琉球を助けられなかったのか~ある中国人男性から沖縄の人へのメッセージ~氏は、卓越した英語力をもとに、インターネットを通じて、世界各地・各分野における中国の方々と6年以上にわたって交流し、この地における歴史や作法(振舞い/行動様式)を含め、そうした「実感」を肌感覚で蓄えられていかれた。・『済物浦条約』の締結 壬午軍人反乱の総括清国による李是応(大院君)の拉致は、日本の対朝鮮干渉における「障害」を無くし、江華条約締結以来の「懸案」を一気に「解決」した。愚かな清の外交によって、北東アジアはいよいよ「帝国主義の角逐場」と化す。 『제물포 조약<済物浦条約>』 (韓国語Wiki百科より)https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A0%9C%EB%AC%BC%ED%8F%AC_%EC%A1%B0%EC%95%BD『済物浦条約<チェムルポチョヤッ>』(済物浦は仁川<インチョン>の旧名)で、朝鮮から賠償金を取り、漢城(現ソウル)における軍隊の駐屯権を獲得した。さらには、それぞれ自国の急速な近代化のはけ口を求める、日本と清国の対立が朝鮮を舞台にして展開されるようになった。壬午軍人反乱は、日本の侵略と閔氏一族の腐敗的かつ売国的政権への反乱であり、朝鮮における最初の大規模な反侵略民衆運動でしたが、その後の日本の侵略と、落ちぶれた清国の内戦干渉政策、そして閔氏政権の再登場は、何重にもわたる民族的危機をさらに深めました。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・Cluttered talk blab blab blab 『明は、なぜ琉球を助けられなかったのか~ある中国人男性から沖縄の人へのメッセージ~』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12393503892.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----cluttered-talk_12393503892<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 10Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その5(閔氏政権と日朝修好条規)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐・突然の朝鮮開国 その時欧米列強はどういう態度を取ったのか‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐欧米との戦争で一度も負けなし。「勝率100%」の朝鮮が、自分たちよりも「はるかに格下」である日本に屈服したこと、時の政権が閔氏一族による弱腰外交が原因だったにせよ、李是応(大院君)政権時代の断乎たる態度に触れた列強は、朝鮮に容易く手出しはできないと考えていた。また、朝鮮政府内部の手がかりを掴むだけの知識もないので、日本がまず突破口を開くことを期待するようになっていた。列強は、当時の日本の経済状況からみて、たとえ後から朝鮮に侵入しても、たやすく日本から市場を奪うことができるとみていたのだろう。『ジョン・A・ビンガム』https://jp.usembassy.gov/ja/our-relationship-ja/former-ambassadors-ja/特に、米英は日本の朝鮮侵略の企図に好意的で、アメリカの駐日公使ビンガムは、1875年『雲揚号事件』に先立ち外務省に訪れ、ティーラー著『ペリーの日本遠征小史』を手渡しながら、「この本をよく読んでこのとおりにやりさえすれば、朝鮮で必ず成功するでしょう」(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 161頁より)と暗示したとさえ言われる。もちろん、このようなことがあったからといって、明治政府の独自の侵略的企図が免罪されるわけではない。米英の態度を背景に、安心して雲揚号事件に乗り出すに至ったのでした。・大院君失脚後 「一変した」朝鮮政府の状況『明成皇后(閔妃)』 (コトバンクより)https://kotobank.jp/word/%E9%96%94%E5%A6%83-122167李是応(大院君)政権は、当初「日本と協力して欧米の侵略に立ち向かうことを期待していた」とされるが、日本の朝野をおおう『征韓論』が聞こえてくるにつれ、警戒を高めないわけにはいかず、明治維新直後から、日本がしばしば派遣した新条約締結のための使節にも、侵略の危険を見通して「拒否の回答」を与えた。ところが、1873年、閔氏が政権に就くことによって、状況が変わった。閔氏政権内部にも、朴珪寿<パクキュス>のように、開国が不可避な以上、内部条件を整えて、主導的に開国することを主張した人もいたが、政権の大勢、その階級的制約上、保守的であるとともに対外的には場当たり的、屈服的に傾いた。先見の明がある指導者がいなかったのでも、朝鮮人が世界の推移を知らなかったのでもなく、政権を独占していた閔氏一族の「この性格」が、日本に「付け込む隙」を与えたのです。・日本による「侵略の手口」の詳細いちはやく、この「変動」を察知したのが、日本の出先外交官たちでした。1875年4月、広津弘信・森山茂の両名は以下のように述べます。 「軍艦を派遣し対馬近海を測量せしめ以って朝鮮国の内訌<内紛>に乗じ以って我が応接(外交交渉)の声援を為さんことを請うの議」※<>は筆者註『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 161頁よりこのように日本政府に建言し、同年7月には重ねてさらに強硬な意見書を送ってきた。『井上良馨』 (Wikiより)  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%89%AF%E9%A6%A8かくして、海軍当局はおそらく「政府の了解」のもとに、「朝鮮近海測量のため」井上良馨(いのうえよしか)を艦長とする軍艦雲揚号を派遣することになったのです。『雲揚号』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E6%8F%9A_(%E7%A0%B2%E8%89%A6)雲揚号は1875年9月19日、江華島に近づき「飲料水を探すため」という名目でボートを降ろし、陸に接岸しようとした。見とがめた朝鮮側の砲台が警砲を発射したのを機に、木船から砲撃し砲台を破壊し、さらに永宗島<ヨンジョンド>に上陸して損害を与えた末、9月28日長崎に帰った。そもそも、新政府となって国交のない国の沿岸を無断で測量し、ボートで接近すること自体無法な行為ですが、飲料水がなくなったはずなのに帰港するまで特別補給していないことからみても、明らかな「計画的な武力脅迫行為」と言わざる得ません。・守旧で脆弱な閔氏政権 『日朝修好条規』の内訳はたして閔氏政権内部では動揺がおこった。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐これを見すまして、翌年1876年、全権黒田清隆は7隻の艦隊に数百の兵士を分乗させ、朝鮮近海で示威演習をしながら江華府に乗り込んだ。そして、軍事侵略の意図をにおわせながら、有無を言わさず日本側が用意した条約案に調印することを迫った。そして閔氏政権は、当面の武力侵攻の回避に気を奪われていたので、条約案の内容を論ずるいとまもなく、その場しのぎ的に、これを「ほぼそのまま受け入れてしまった」のです。『条約締結の情景』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8Fかくして結ばれた条約は、「全く一方的に日本の要求に沿う不平等条約」でした。一般に「江華条約」と通称されているものは、厳密には、この本条約(『日朝修好条規』)と、それに基づいて同年中に調印された『修好条規付録』『日朝通商章程』および、それら付属文書などの総称である場合が多い。が、上述を通じてみると、開港地における日本商民の居留地設定(本条約四、五款、付録)など、居留民に対する日本の管理官による「管理」(本条約八款)、居留地での日本貨幣通用(付録)、日本居留民の犯罪に朝鮮政府が手出しできない、いわゆる治外法権(本条約十款)、そして日本から朝鮮へ輸出される商品にいっさい関税を課さないという取り決め(修好条規付属往復文書)などの不平等条項を含んでいました。特に、最後の『無関税貿易条項』は、1883年、清国などの朝鮮との条約に準拠して新たに通商章程が結ばれるまで続いたが、朝鮮政府が日本商品に関税をかける権利自体を認めないというのだから、日本が欧米に強いられた関税自主権喪失よりもはるかにひどい内容です。実際、この条項と軍艦に守られて、いわゆる『一旗組居留地商人』の暴力的商法が、朝鮮の国家主権を無視して押し通され、朝鮮民衆の生活を破壊してしくようになります。・立ち上がる朝鮮の民衆と両班層このような状況に、すでに反封建闘争に立ち上がりはじめていた朝鮮民衆は言うまでもなく、両班支配層も強い危機感を抱かざるえなかった。1880年に来日した修信使の金弘集<キムホンジッ>からは、不平等条約の是正を提議しましたが、日本側はこれを無視した。このような「民族的危機」に対応することを目指して、支配層の内部では、『衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>』や『開化派<ケファパ>』などの政治潮流が、急速に成長していくようになります。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 09Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐『朝鮮政府代表 申櫶<シンホン> 日本特命全権大使 黒田清隆』 (오마이뉴스<オマイニュース>とWikiより)http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/img_pg.aspx?CNTN_CD=IE001795778&tag=%EC%8B%A0%ED%97%8C&gb=taghttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86・「雲揚号事件」と江華条約(1876)1876年2月27日、日本の特命全権大使黒田清隆と朝鮮政府の代表申櫶<シンホン>とのあいだで、漢城(現ソウル)近郊の江華府<カンファブ>において調印された『大日本国大朝鮮国修好条規』(いわゆる江華条約。上記が正式の条約名で、略称するとすれば『日朝修好条規』である。教科書などで『日鮮修好条規』と記したものがあるが、こういう略称を用いるべき何の根拠もなく、蔑視観からくる誤った言葉である。なお調印地をとって通称で呼ぶとすれば江華府で調印されたのだから江華条約とよぶべきで、よく江華島条約という通称が用いられているのも、よい言葉とはいえない)‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論③)‐これに先立ち、西郷らの下野から約半年が経った明治7年4月に、帝国政府(日本)は台湾に出兵しました。これは西郷らの征韓論を「台湾に向けて実行したもの」でした。『永宗城を攻撃する雲揚の兵士ら(想像図)』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6つづいて翌8年(1875年)には、『江華島事件』が起こりました。日本軍艦雲揚号が朝鮮の西南部海岸を測量し、江華島の水域に不法侵入しました。ここは首都の入り口にあたる要塞地帯で、もちろん「外国艦艇の侵入は禁止」されておりました。朝鮮側の砲台は発砲し、これに雲揚号は直ちに応戦して砲台を壊しました。この江華島事件が起こると、大久保・岩倉の政府は黒田清隆を全権大臣に任命し、軍艦・輸送船をひきいて朝鮮に派遣し、開戦の覚悟の強行談判を始めました。このときの強硬政策については、さきに征韓論を主張した西郷でさえ、道理に外れたもので、弱きをあなどるものと批判しました。西郷の征韓論に反対した岩倉や大久保は、当の西郷が文句を言うほど強硬な征韓政策を取ったのです。この談判で、翌明治9年(1876年)江華条約が結ばれ、朝鮮は日本に開港しました。本条約は、「朝鮮の鎖国を破る最初の条約」であるとともに、「日本が朝鮮を侵略する第一歩を画するために強要した不平等条約」でした。その内容は、幕末に欧米が日本に押し付けた不平等条約のひきうつし、というより、正確にいえばそれよりさらに甚だしい不平等条約です。そのきっかけとなった1875年の『雲揚号事件』は、日本側が「計画的に引き起こした脅迫のための軍事挑発」に原因するものであり、ペリーが江戸幕府を脅迫した手法をそのまま真似たものだった。この条約の本文、付録、貿易章程によると、領事裁判権・関税免除・日本貨幣の使用公認など、まさに不平等条約そのものでした。・世界から「浮きまくる国」日本‐3度目の朝米首脳会談(板門店)とG20で安倍首相がかいた「大恥」‐ 2019年6月28日のG20大阪の初日、フォトセッションです。 突然ですが問題です。 国際舞台では存在感を消し去ることで有名な安倍さんですが、この時安倍さんは何回人と接触(会話や握手、ハグ等)するでしょう? 大ヒント。議長国です。最初から立っています。中央です。 ↓答えはこちらで pic.twitter.com/xBhTL0PeDG— 尾張おっぺけぺー ㊗️自民192連休🎉 (@toubennbenn) 2019年6月28日【凄まじい無視のされ方】28日のG20大阪、各国首脳の記念撮影で安倍さんは何回人と接触(会話や握手、ハグ等)するでしょう?https://togetter.com/li/1371129現代において、アジア諸国に挑発的な首相が君臨しつづけることも、究極的には安倍氏が問題というより、彼を「選び続ける」国民の気質こそが問題なのです。その一番の「ウィークポイント」である歴史問題にせよ、いまだに多くの日本の教科書が、この本質的な点を曖昧にし、条約の不平等性・侵略性を覆い隠しています。甚だしくは、あたかも日本が朝鮮を「近代」に導こうとしたのに「頑迷」な朝鮮側は、これを受け付けなかったのだというような説明をし、そこから一歩も認識を成長できずにいる。物事の発端である雲揚号事件についても、日本が朝鮮の主権を侵害したにも関わらず、あたかも朝鮮側に非があるように説明しているものがあるが、甚だしい誤りといわなければならない。このような独善的な歴史観は、国民をとんでもない誤りに導くだろうと、参考図書は危惧していますが、実際今の日韓関係や日朝関係を俯瞰しても、在日コリアンに対する不遜や無知・差別的な待遇を含め、こういう自己満足やオ〇ニー思考の「行く先」については、もはや日本を暗黒にぶち落とす結果にしかならないと、私自身常日頃から警鐘を鳴らし続けている。60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐‐おバカだけど笑えない安倍政権の「閣議決定」(朝鮮総連はテロリスト集団)‐‐韓国への輸出規制・あいちトリエンナーレ・日本のオワコン等々‐‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12329980224.htmlhttps://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12329980224.htmlhttps://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12329980224.htmlhttps://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12329980224.html一部の才覚に富んだ日本人が、いかに先進的かつ有用な取り組みで、海外の方々との信頼を勝ち取ろうとも、多くのモノリンガルで内向きな大衆によって、日本の中長期的な国益を甚だしく棄損している。こんなバカな話があるだろうか。私自身、選民思想を振りまくわけでもないが、「事実として」このような状況に陥っている日本を見て絶望しているのです。今の日本を見ていると、このような「世界感覚」が全くない人たちの集まりで、自分たちの見たいモノ、信じたいモノにすがり、まっとうな批判に対しては「反日」というレッテル貼りで逃げようとするお粗末さに、ただただ情けなさと呆れしか感じません。・刹那的な国家運営は 「自国の衰退」を生み出す欧米列強の外圧に対抗するために、近隣のアジア諸国に「侵略の矛先」を向け、これを踏み台にして欧米列強の仲間入りをしようとする日本側の「戦略」は、すべてブーメランになって後世の禍根や自国の衰亡に繋がっているが、思想の古くは、佐藤信淵らの国防論者たちによって提唱され、幕末の吉田松陰に至っては、すこぶる明確・露骨なものとなり、彼の弟子たちを中心とする明治政府の手で、まず「征韓」「征台」から実行されていった。‐江戸時代の朝鮮観その4(幕末期)‐もちろん、そのルーツをたどると『国学(記紀)』を淵源とする「コンプレックス史観」に基づくのですが、こういう話が持ち上がるたびに、何度も指摘しておかなくてはなりません。‐江戸時代の朝鮮観その3(優越思想と国学者の場合)‐‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐・「征韓論争」の真相普通、1873年の『征韓論争』において西郷・板垣だけが「侵略主義」を主張し、彼らを政権から追い出した大久保・伊藤らは非征韓論派だったかのごとく理解されていますが、それは間違いです。現に、非征韓派と目されている木戸孝允が、はやくも明治政府成立直後の1868年旧暦12月14日(新暦の1869年1月26日)において、以下のように主張しています。 速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼若し不服の時は罪を鳴らして其の土を攻撃し、大いに神州の威を伸長せんことを願う(『木戸孝允日記』一)『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 160頁より簡単にいうと、「日本帝国を舐め腐ってる朝鮮を問いただし、それでもゴネたらぶっ飛ばせ」です。この場合、もちろん朝鮮側は何の「無礼」も行っておらず、まして鳴らすべき「罪」はどこにもありません。強いて言えば、以下の文章が彼らにとって「無礼」だったのでしょう。‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論①)‐ 「朝鮮は皇国を蔑視し、文字に不遜ありといい、以て恥辱を皇国に与う。君辱かしめらるれば臣死す。実に俱に天を戴かざるの寇(かたき)なり。必ずこれを伐たざるべからず。・・・・・その十大隊は江華府に向かい直ちに王城を攻め大将これを率う。その一は少将六大隊を率いて慶尚(キョンサン)・全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)三道より進む。その一は少将四大隊を率いて江原(カンウォン)・京畿(キョンギ)より進む。その一は少将十大隊を率いて鴨緑江(アムロッカン)を遡り、咸鏡(ハムギョン)・平安(ピョンアン)・黄海(ファンへ)の三道より進む。遠近相待ち、緩急相応じ、之を角し之を犄(き)す。必ず五旬を出ずしてその国王を虜にすべし。・・・・・一日わが三十大隊を挙げて彼の巣窟を蹂躙せば、則ち土崩瓦解せん」※()は筆者註『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 16頁よりいやだからね、「あなた達の世界」の中では、昔から日本が「帝国」で、天皇という「皇帝」を戴く「独立国」だったと言いたいのだけど、現実の東アジア世界では僭称に過ぎず、まったく相手にされなかったわけ。そういう図星を朝鮮に突かれて、醜く肥大した皇国精神のエゴと言いますか、反対するものは全員征伐しても構わないのは、現在の韓国と「断交」を叫ぶ連中とまったく変わらないし、何よりこういう『記紀』ベースにしたアジア諸国に対する蔑視思考そのものが、当地域を不安定にし、差別や分断・対立を生みだす「根本原因」だってことを理解しろよ。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐要は、自分たちを妄想を押し付けんなってことだ。話をもどると、以上の「征韓論争」なるものは、実は国内政策においての「権力闘争」にすぎず、朝鮮侵略の是非をめぐる根本的対立ではなく、ただ「それをいつ実行するか」についての意見が分かれたに過ぎませんでした。『征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)鈴木年基作。』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96「征韓」の主張は、朝野に満ちており、大久保政権はリアルに内外の条件を計算しながら、これを実行に移していったのでした。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 08Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その2(大院君時代の朝鮮王朝)‐『アヘン・アロー戦争』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89・加速する欧米列強の侵出アヘン戦争・アロー号戦争を経て、すでに中国市場に侵入し、また日本を開国させた欧米列強は、1860年代に入って「残された最後の市場」である朝鮮を、まっさきに自国が開国させて従属させようと競い合い、「黒船」がさかんに朝鮮近海に出没するようになった。地理的にちょっと奥まった位置にあって、ヨーロッパからもアメリカからも最も遠い朝鮮は、そのため他の国に比べて最もおそく、しかし最も急激に外圧に直面することになりました。『大院君<テウォングン>が国民に攘夷を訴えた碑』中国で欧米列強が何をしたかは、詳しく朝鮮に伝えられており、朝鮮の各階層は民族的危機がやがて到来するであろうことを、強く意識するようになっていた。・欧米資本による国内市場の「食い荒らし」を阻止しようとした大院君ところで、1860年代のヨーロッパやアメリカなどの帝国主義国家の朝鮮侵略に対して、李是応(大院君)の政権が、侵略の尖兵の役割を果たす天主教(中国・朝鮮におけるキリスト教<カトリック>)を強く弾圧するとともに、断乎たる攘夷の姿勢をもって応じたことはよく知られています。しかしながら、そのように「対応した理由」は、王朝権力者の頑固な「排外主義」と誤解され、しばし偏重した認識で語られている。‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その2(大院君時代の朝鮮王朝)‐前記のように、李是応(大院君)政権は、古い大両班地主とは対立し、「新しい国家権力維持の手段」として、商人層の取入れを積極的におこない、彼らの要求を反映する政府となりました。したがって、その攘夷政策の断行も、まだ幼弱な国内市場の上にたつ商人層の、欧米資本主義の乱入による「商権剥奪」を阻止しようとする要求の表れであり、日本の幕末攘夷論者の立場と一脈通ずるものがあった。実際、李是応(大院君)が軍備を強化して侵略に備えようとしたとき、なかば形だけになっていた王朝の正規軍は使い物にならず、呼応して立ち上がったのは民衆たちで、零細行商人層の組織である『褓負商団』<ボブサンダン>を中心としました。・丙寅・辛末<ビョンイン・シンミ>の洋擾そんな中、李是応(大院君)政権成立後まもない1866年、丙寅<ビョンイン>の年、きびしい試練が続けざまに押し寄せた。『アメリカ軍艦ゼネラルシャーマン号に抗議する朝鮮軍の絵(インターネット資料)』https://blogs.yahoo.co.jp/doxazo_korea/5829616.htmlまず8月、アメリカ船シャーマン号が、現在の北朝鮮地域にある、大同江<テドンガン>をさかのぼって、平壌<ピョンヤン>の下流、羊角島<ヤンガット>付近にまで侵入した。いわゆる『ジェネラル・シャーマン号事件』です。シャーマン号は、船主はアメリカ人で、船長はデンマーク人、ほかにイギリス人や中国人も乗り組んでおり、数門の大砲を装備し、大量の武器弾薬を積んでいて、商船というより半ば海賊船と言った方がはやい。当時、東洋近海には、そんな怪しげな船がさかんに出没していました。しかも、そういう「海賊船」の背後には国家(欧米列強)がついていたのであり、シャーマン号も不法侵入を承知で入り込んできたのだった。平壌在住の朝鮮政府地方官は、難破船に対する慣例に従って、食料や薪・水を提供し、即時退去を命ずる方針でしたが、シャーマン号は、使者の李玄益<イ・ヒョニョッ>の乗る小舟を転覆させて李を連れ去り、さらに沿岸に集まった群衆を砲撃して10余名を殺害、続けて河をのぼりはじめた。激昂した民衆は、官の命令を待たずに、シャーマン号を攻撃しはじめ、数日における戦闘の末、同船を浅瀬に座礁させ、火を放って焼き払ってしまった。つづいて、同年9月・10月と二回に渡って、今度は王都漢城(現ソウル)の関門にあたる江華島<カンファド>一帯に、フランス東洋艦隊が本格的な侵攻をかけてきました。『沿岸部を攻撃するフランス海軍』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE主な理由は、「天主教徒弾圧への報復」を名目にしていましたが、その本質は当時のフランス皇帝ナポレオン三世の侵略政策によるものでした。『Admiral Roze によって指揮されたフランスのフリゲート艦「ゲリエール」。フランス艦隊の指揮艦で韓国への示威行動を行った。1865年頃の長崎港での写真。』 (同より)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE殊に10月の侵攻は、本格的な準備を整えたもので、日本の横浜に駐屯していた陸戦隊二個中隊600名が江華島に上陸し、一時は江華城を占領してほど近いソウルをうかがうほどの勢いを示した。『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93これに対し、平安道<ピョンアンド>方面から、急遽動員された猟師たちで編成した1000余の決死隊が逆に江華島に上陸し、『鼎足山城<チョンジョッサンソン>の戦闘』となったが、フランス軍は多数の死傷者を出して、ついに退却したのでした。朝鮮の官民は、実力で武力侵略を撃退したが、さらに大規模な侵攻を予想して緊張し、とくに江華島付近の武力を増強して、これに備えました。とりわけアメリカは執拗で、シャーマン号事件の謝罪と開国を要求する使者をよこした。また、1868年には、ドイツ人オッペルトを船長とするアメリカ船チャイナ号が、忠清道<チュンチョンド>の徳山郡<トッサングン>に上陸して、李是応(大院君)の父である南延君<ナミョングン>の墓をあばき、盗掘をはたらこうとする事件も起きたが、これも現地の民衆の力によって撃退しました。そして、1871年(辛末の年)5月、ロジャース率いるアメリカ艦隊6隻が、本格的な準備を整えて江華島を襲い、激しい砲撃戦のすえ、陸戦隊を上陸させ、草芝鎮・広城<チョジジン・クァンソン>の砲台を占領するに至ったが、朝鮮側の守備隊は、夜陰に乗じて奇襲作戦をかけ、これも敗走させました。『徳津鎮攻略を喜ぶ米将兵』 (同より)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9B%E6%9C%AA%E6%B4%8B%E6%93%BE李是応(大院君)は、このような無法な侵略を今後も断固として撃退する方針を堅持することを示すに、各地に以下のような石碑を建て、民衆の支持を得ました。 「洋夷侵犯 非戦則和 主和売国 戒我万年子孫(洋夷の侵犯に対して断固戦わないものは屈服するものであり、屈服するものは売国の徒にほかならない。これを記して子孫万年までの教訓とする)」『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 155・157頁より・大院君の失脚 閔氏一族の台頭と屈服外交しかし、そういう李是応(大院君)政権に対して、かねてから反感を抱いていた大両班地主勢力は、息子の高宗王(李煕)の妃である閔氏<ミンシ>一族を中心にして結集し、古い勢道政治を復活させるべく、宮廷内で陰謀をすすめ、ついに1873年にいたり、高宗王の成人を名目として李是応(大院君)を政権から追い落とすことに成功した。結果どうなったかと言うと、政権をとった閔氏一族は、国内的には反動的であるとともに、対外的にはより屈服的な姿勢を取る「最悪な選択」をしてしまう。民衆はもはや、民族主権を守るのに封建権力者はあてにすることはできず、彼らと戦うとともに、自分たちの手で民族の利益を守るほかないことを自覚するようになっていく。後に1894年2月、甲午農民軍は、その蜂起にあたって、 「いわゆる公卿(中央の大臣)以下方伯・守令(地方官)にいたるまで、国家の危機を考えもせず、ただ己れの身を肥やすことにのみ熱心である。・・・・・・百姓は国家の根本である。根本が衰えるなら国家は必ず滅びるのだ。・・・・・・我等は在野の遺民にすぎないが、・・・・・・どうして国家の存亡を坐視するにしのびえようか。朝鮮八域心を同じくし、億兆の衆議により、ここに義の旗をかかげ、輔国安民をもって死生の誓いとする」 (呉知泳<オチヨン>『東学史』より)『同』 158頁よりと、はっきりと宣言するにいたるのである。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 07Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その2(大院君時代の朝鮮王朝)‐

      前回の記事‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐『李是応・大院君』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B・19世紀後半の朝鮮 李是応・大院君政権の成立 旧来の『勢道政治』との対立農民が公然と封建制度に挑戦し始めた、19世紀半ばの朝鮮において、時の政権を担当したのが、大院君李是応(1820~1898)です。1863年12月、哲宗王<チョルジョンワン>が崩御すると、その実子がいなかったので、ずっと遠縁の王族にあたる李煕<イ・ヒ>(高宗王<コジョンワン>、李太王という呼び方は誤称。1852~1919)が選ばれて、わずか12歳で王位についたが、それにともなって高宗王の実父である李是応<イ・ハウン>が、「摂政」という形で政権を担当することになった。そこで、大院君<テウォングン>の称号を受けたのです(ちなみに「大院君」とは、王の実父におくる称号であり、各時代を通じて、この称号を受けた人が何人がいる)。政権に就くまでの李是応(大院君)は、王族と言っても遠縁であり、「市井無頼の徒」すなわち零細商工業者たちと交わるという、当時の両班<ヤンバン/リャンバン>からすれば、きわめて「道徳」から外れた生活をおくっていました。李煕の摂政として権力を握った以後も、李是応はそういう低い身分の人々を重く用い、18世紀半ば以降の『勢道政治』<セドチョンチ>(当代の王妃一族を中心とする閉鎖的な門閥両班貴族の集団によって構成される政権を『勢道』といった)のルールを、どんどん破っていった。勢道政治は、崩れ行く旧秩序を固守しようとする大両班地主本位のものであり、反動的性格のものでした。中央・地方の現役の両班官僚とともに、勢道に連なり、世襲的な身分をかさにきている有力両班が地方に大地主として根を張り、実質的に農民を支配していましたが、勢道政治は彼らの特権を守って、民乱を激発させるものだった。李是応は、まず大両班地主の強い反対を押し切って「書院の撤廃」を断行しました。『書院』とは本来、朱子をはじめ歴代の正統的な儒学者をまつった祠堂に学校を附属させたものでしたが、地方ごとに大両班がこれを設けて、中央政府のお墨付きをうけ、身分の低い者を出入りさせず、実質的には地方政治を左右する力をもつ「彼らのサロン」のような役割を果たさせていた。つまり、その撤廃は、「大両班地主の地方支配の拠点を奪うこと」を意味した。さらに李是応は、租税制度を整備して中央財政を強化、戸布(軍事費のための税目)を両班からも取り立てるようにしました。・「封建王朝の強化」と商人層を取り入れた支持基盤の変化ここまでみると、李是応(大院君)が、大両班地主と対立して、農民の立場にたって政治をおこなったように感じますが、実際は「あくまで封建王朝の危機を立て直すこと」にあり、そのためには、個別の両班既得権をおかしても、中央集権化を図ろうとしたにすぎないと言えます。しかし、その方向に推進していくにも、従来の大両班の半ば空洞化した統治機構に頼るわけにはいかず、そこで李是応は、古くからの知己であった下級官吏や中小商人などを通じて、この時期にかなり実力を蓄えるようになっていた商人層を基盤とすることになったのです。そして、農村の商品経済とも関わる、そういう商人たちが「政治に参画すること」によって、その利害と要求が政権に反映するようになり、李是応の主観的意図に関わらず、権力基盤の性格として、従来のものとは異なるものになっていきました。李是応はまた、同じ内外に力を誇示しようとする同期から、今日もソウルに残る大宮殿『景福宮』<キョンボックン>の建造工事を、農民を動員しておこないました。『景福宮』 (Wikiより)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AEこのような「封建社会から近代社会への歩み」が始まった1860年代は、朝鮮にとって初めての「本格的な外圧に直面した時期」でもありました。結果、朝鮮の農民は、「反封建闘争」と「反侵略闘争」を同時になっていかねばならない立場におかれたのです。・『アリラン』の起源『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 154頁より現在も、南北問わず朝鮮半島の代表的民謡である『アリラン』については、大院君時代の景福宮建造の時に生まれたとされています。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 06Sep
    • ‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐

      『南北統一図』https://ameblo.jp/cluttered-talk/・日本社会の「大衆意識」とは何か?本題に入る前に、ぜひ話しておかなければならないことがあります。‐日朝・日韓歴史問題 自国史を再認識して「引きこもり思考」から脱する‐こちらの方で、日本と朝鮮半島を取り巻く、さまざまな事象の考察と、その解決策についての意見を述べさせていただきました。自分たちの「信じたい物語」に固執したり、感情を振り回して満足するだけの無責任な人々が多い中、世界レベルで日本が置かれている「深刻な状態」について、英語ブロガーのMichikoさんのお力も借りながら、拙ブログでは多くの警鐘記事を書いてきました。未だに続く、日韓や日朝における「対立」(中国の関係においてもそう)、在日コリアンに対する差別にしろ、私としては「日本人の歴史知識の欠如」が、主たる原因として常にあったと感じている。日々記事を書きながら、多くの問題を深掘りする過程で、それを認識する場面が数多く積み重なってきた。さらに言うと、これら歴史や政治、社会問題についての日本人自身の「無関心」「怠惰」が招いた結果だろうと、究極的には断言できる。‐政治的無関心はこれだけヤバい!社会を壊されれば自分も壊されるのを知らない人たち‐若者以外に、それ以上の世代においても、このような意識が「横断的に」日本社会を支配しています。‐新政党『れいわ新選組』の誕生を祝福する その2‐こちらの方で、友人の美容室の店主の「意識」について、40数年一度も選挙に行ったことがなく、山本太郎代表を含め、れいわ新選組についても、とても否定的な意見を持っていました。話の中で見えてきたことは、「なぜ障害者を国会へ送るのか」「(舩後さんに至っては)文字盤なんか使って、仕事なんて出来るのか」という注文をぶつけ、生活保護に関しても、近親者の例を出して「彼らは、専用の公団アパートまで住んで、職員にゴネて、ものすごい得をしている」と、一部の体験だけで全体を語って、彼らへの露骨な差別意識を露わにしました。しかしながら、概ね「政治的無関心層」について、若者の間で自民党支持が多いことを含め、これが、何千万も構成する日本社会における「意識」の総体なのだろうと、私自身は深く感じました。そりゃ、ダメな国になるわなって。・歪められた朝鮮史像‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その3(植民地支配に無反省な日本)‐そうした意識をベースに、アジア諸国との関係においても、「まったく歩み寄りを見せない」日本人の姿は、うすうす納得のいく結末なのだろうと思う。消費税も10%に上がり、経済も衰退し、日本全体がオワコンになっている中、今こそ「自分たちを変えなくてはいけない最後のチャンス」なのに、大局的な思考ができず、人の意見を聞いたり、深掘りした知識を身に着ける努力もせず、マスコミの言うことを鵜呑みにし、果ては自分たちの享楽のみに没頭する姿は、一種の終末的な風景なのかと絶望する。殊に朝鮮半島との関係では、何かと自分たちの気に入らない批判について、何の論理も持たず「反日」とレッテル貼する姿は、まさに『反知性』の極みと、衰退国家における国民の「成れの果て」だと思いますが、まず「原点は何なのか」と探らなくてはいけないでしょう。‐東アジアの今とこれから その11(朝鮮国黒々と・・・)‐『韓国併合』当時1910年8月30日付の『東京朝日新聞』(第三面)よりhttp://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.htmlかつて日本が朝鮮を支配していた時代には、日本人が朝鮮史研究をほぼ独占していた。朝鮮人による朝鮮史研究は抑圧され、他の外国人も朝鮮史研究に手を付けなかったので、朝鮮史研究はまさに「日本人の独壇場」でした。そして、ずいぶん多くの業績があらわれ、個別的分野では精密な研究も出ましたが、物事の大本として朝鮮史の「全体像」を描くときには、例外なく、朝鮮はつまらない取り得のない国と印象づけるような歴史像を作り出した。‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答①)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答②)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答③)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答④)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答➄)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑥)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑦)‐朝鮮社会は、ひたすら「停滞・落伍」していて、自力では発展しようがなく、日本と比べると李朝末期の朝鮮は平安朝の段階にとどまっていたという『停滞論』。日本人と朝鮮人は同祖同源で血のつながりがあると同時に、大昔から日本が朝鮮を支配していたという『日鮮同祖論』。さらに、朝鮮には独自の歴史がなく、朝鮮史なるものは大陸勢力の「朝鮮半島における波動にすぎない」とした『満鮮一体論』。朝鮮人には、自力で歴史をつくる能力がなく、いつも大陸あるいは日本の強い勢力に依存していたという『他律性史観』が、当時の有力な歴史家によって主張された。ハッキリ言いますよ。こういう他者に対する敬意もクソもない妄想を垂れ流す国家が、どうして尊敬されるのでしょう。もちろん、これらの思考の大本には、古くからある天皇崇拝の『国学思想』があったわけですが、そのすべては「超大国である中国へのコンプレックス」だったわけです。‐江戸時代の朝鮮観その3(優越思想と国学者の場合)‐‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐むやみやたらと、『皇』に固執したり、何百歳も生きた天皇を平気で書きつらねる『記紀』を史実と捉えたり、そもそも日本における歴史というものは、古代ギリシアにおけるヘロドトスやツギジデスのような「自由な探求心」から来るものではなく、その王朝を正当化するための史(フミ)でしかなかった。このような、大きな矛盾を抱えた意識のもと、朝鮮総督府は任那日本府の復活であり、韓国併合は日本と朝鮮の関係を「昔の本来の姿にもどしたものだ」とすることまで、さかんに唱えられました。同紙 第一面(広告その2)よりhttp://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.htmlこういう考えによると、朝鮮は日本よりずっと遅れた国、大昔から日本の支配下にあった国、自立できなくて外国勢力に依存せざるえない国ということになります。ゆえに、そこからは「朝鮮はつまらない」という印象しか出てこない。こういう隣国を蔑む意識は、人々から知的探求心やコミュニケーション能力を削ぐことになり、それは「ブーメラン」となって全部自分たちに跳ね返ってきます。Will you accept a presence of foreign military?②朝鮮を「のび太」に仕立て上げ、「ジャイアン」アメリカにひたすら媚びを売る「スネ夫」日本が、足元を見られ、世界的主潮からは取り残され、浮きまくった行動をし続ければ、その行く末はただただ暗いものでしかない。‐小休止『お化けのパー券』‐60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐ほんとうに、日本人自身が「意識を変えなければ」、大変なことになってしまう。もうすでに、その片足が底なし沼にハマっている状態です。話をもどすと、当時の日本当局者は、朝鮮の独立解放運動を警戒し、それに徹底的弾圧を下すと同時に、朝鮮人が民族意識をもつこと自体を恐れ、その民族的精神を抜き去るために異常な力を注いだ。‐近くて遠い国 朝鮮 本編7(李氏朝鮮→大韓帝国→日韓併合)‐‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐同化政策・皇民化政策がそれである。‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その4(過去の歴史を振り返る)‐‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その5(徴兵・徴発・強制連行)‐‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その6(支配と同化が残したもの)‐前述の朝鮮史像(『停滞論』『日鮮同祖論』『満鮮一体論』『他律性史観』)は、そういう植民地政策の中で生まれ、目的に叶うものでした。朝鮮人にとって目を覆いたくなるような朝鮮史像が、教育や報道などを通じて朝鮮人に注入された。それは朝鮮人にとって耐えがたい侮辱であり、当然反発した。しかし、強大な権力を背景にして、こういう歴史像が罷り通りました。同様の朝鮮史像は、日本人にも注入された。それは朝鮮人の場合とは違い、あまり反発なしに受け入られた。それは当時、『皇国史観』が力を振るっていたことと密接な関係があった。同史観は、朝鮮支配の「天皇の恩沢」の普及、国威の発揚として礼讃されました。『「朝鮮人を我が日本国民とし」云々』(1910年8月10日 『国民第一新聞』第一面より)http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html皇国史観の押し付けには、日本人の中にも相当の反発がありましたが、その中の「朝鮮に関する部分」は、あまり抵抗もなく日本人に受け入られた。日本帝国主義の朝鮮支配に反対し、朝鮮人の解放運動を支持した者でさえも、古代日本の任那経営や朝鮮社会の停滞性・落伍性については同様の考えを持ち、それに疑問を抱かなかった。戦後、日本の歴史研究や歴史教育は、皇国史観の束縛から解放され、目覚ましい変化と発達を遂げました。もはや皇国史観を主張する者は、ほとんどいなくなりました。朝鮮史についても神功皇后の『三韓征伐』(高句麗・百済・新羅)における新羅を「制圧」して国王を降参させたとか、韓国併合が朝鮮人への恩沢であるとか、侵略を露骨に礼讃して誇示することはなくなりましたが、現代においては、再びそのような言説がネットや巷で溢れかえっています。無論、その根源にあるものは、今も日本人の持っている朝鮮観が、従来のものを克服できていないためであり、これらの延長線上の意識を引きずった人間は、しばしば表舞台に登場したりもする。‐日本が「アジアのリーダー」と叫ぶれいわ支持者‐また、朝鮮が古くから大陸、特に中国の圧倒的影響下にあったという考えも、なお強く残っている。しかし、これ自体は「日本を含めて」事実だと思います。-黒鉄ヒロシの珍論を切る(事故の不手際は万年属国のせい)--等しき「中華の落し子」たち(中華なくして国粋主義なし)--とあるネトウヨとの問答1--とあるネトウヨとの問答2(追記加筆)-中国の冊封体制について、当時最先端の政治哲学の理論から編み出された膨大な経学主義の賜物であり、儒教がおどろおどろしいシャマニズム的宗教主義の時代から徐々に進化していき、最終的には礼教制度として確立し宗教性と完全に分離して、2000年以上まで続く歴代王朝の統治理論として君臨した。つまり、これが東アジア文明国である事としての何よりのあかしでした。それ以降時代をくだっていくと、儒教の礼教主義は朱子学へと変貌し政治論から宇宙論・存在論といった形而上学として更なる進化を遂げますが、これらを一言でいえば、「いかに戦争をしないか」という思想を突き詰め、大国と小国が共存しあって生きる、北東アジアの平和の伝統というべきシステムなのです。しかし、時には戦争が起きます。-朝鮮北部・遼東南満州帝国高句麗の対隋唐戦争-その時は、朝鮮半島にしても、当時世界帝国であった隋唐(これら二国は騎馬民族の征服王朝)相手に、何度も戦争に勝利してきた。また近代においては、アジアで唯一「ヨーロッパに勝った国」であり、ナポレオン三世のフランス帝国による侵攻を退けています。<参考資料>・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 05Sep
    • ‐日朝・日韓歴史問題 自国史を再認識して「引きこもり思考」から脱する‐

      関係記事‐新一万円札と新五千円札の「顔ぶれ」についての所感‐‐東アジアの今とこれから その1‐‐東アジアの今とこれから その2(朝鮮侵略に反対する明治期社会主義者の活動)‐‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐‐東アジアの今とこれから その4(国が滅ぶということ)‐‐東アジアの今とこれから その5(朝鮮植民地化の社会主義者とマスコミの反応)‐‐東アジアの今とこれから その6(千数百年の誠意を取り戻して)‐‐東アジアの今とこれから その7(伊藤博文暗殺)‐‐東アジアの今とこれから その8(生まれた亀裂、明治社会主義者の英断)‐‐東アジアの今とこれから その9(中国革命との連帯)‐‐東アジアの今とこれから その10(大逆事件と明治社会主義者の総括)‐‐東アジアの今とこれから その11(朝鮮国黒々と・・・)‐‐東アジアの今とこれから その12(『ロシア革命』より日朝中の連帯再び)‐‐東アジアの今とこれから その13(『恥ずべき歴史』の認識すること)‐‐東アジアの今とこれから その14(『徴用工』以前の朝鮮人労働史)‐‐東アジアの今とこれから その15(大正デモクラシーの終焉と関東大震災)‐‐東アジアの今とこれから その16(大虐殺を乗り越えて、過去と現在の日中連帯)‐‐東アジアの今とこれから その17(今も昔も西洋に迎合し破滅する日本のパターン)‐‐東アジアの今とこれから その18(革命の重要性は「経済水準」では決まらない)‐‐東アジアの今とこれから その19(『済南事件』『第三次山東出兵』に反対した日本のリベラル)‐‐東アジアの今とこれから その20(偉大な先人たちの姿)‐‐東アジアの今とこれから その21(埋もれた歴史を見つめなおす)‐‐東アジアの今とこれから その22(満州事変、日中十五年戦争勃発、裏切者続々と現る)‐‐東アジアの今とこれから その23(人は追い込まれたときに「本性」が出る)‐‐東アジアの今とこれから その24(日本軍内部に作られた「反戦組織」)‐‐東アジアの今とこれから その25(戦前における日本共産党の海外展開)‐‐東アジアの今とこれから その26(朝鮮での反戦運動、帝国の民、中国人との連帯)‐‐東アジアの今とこれから 最終回(私たちはどう生きるのか)‐‐近くて遠い国 朝鮮 本編7(李氏朝鮮→大韓帝国→日韓併合)‐‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐・「歴史認識」と言えるほど高度なシロモノを日本人は持っていない日本人が自国の置かれた状況や、過去の経験を未来へ活かせないかぎり、政治問題(日韓・日朝)~社会問題(在日コリアン・朝鮮学校)に至るまで何一つ解決しない。今も昔も日本の言論(認識)状況は悲惨だ。国内報道の有象無象に翻弄されるノンポリ層、言葉は悪いが、ネットでおかしなことをいうキチ〇イ。大体この2種類で日本の歴史議論は構成される。60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランスいずれも彼らは、閉塞した言語空間で、人として、国家として、より確からしい行動や世界的主潮を理解できず、息の詰まりそうな腐りきった空間で、本気で現況を打破するための情報を集める人間は、皆無に近い状況です。-「反日」というお守り言葉-日本人は自分が「言い負かされたくない」と思い込むあまり、己の無知と傲慢を棚に上げ、すぐこのような単語を使って、相手に「悪のレッテル貼り」をする。残念ながら、そこにまったく「実感」はない。 過去の責任を「うやむや」にすることによって、そうした悪しき前例をもとに、日本の「悪い体質」が改善されずに、マスコミの「大本営発表」をはじめ、官民問わずの不正や隠蔽だとか、日本社会のあちこちで起きている不祥事と、どこか重なる面があると大西氏はお話されています。 つまり、私たちは「あの時代」から何も変わっていなかったのではないか。 それでもかつて(数十年前)は、「経済的豊かさ」で人々は幸せを得ていたかもしれないが、そういう上っ面の「化けの皮」がはがれた時、文字通り、私たちが暮らす社会の「おぞましさ」が剥き出しにされた。世の中はギスギスし、人々が自分たちの考えに同調しない者たちをパージしたり、攻撃する行動がここ最近特に目立つようになってきている。 「お上」である政府、そうした社会的空気の中で醸し出される「正しさ」に、ひたすら翻弄され、どこかおかしいと思っても、ズルズル悪い方向に進んで行ってしまう怖さは、書き手である私自身も感じている。‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐ ろくに調べもせず、普遍語や現地語をもとに情報収集して、なおかつ世界中のニュースサイトを渉猟し、人々との個別的コンタクトを取って、認識を高める努力をしないで、このカオスに満ちた世界の片鱗を、誰も知ることはできない。 (中略) これに関しては、沢山言いたいことがあるけど、一体どちらが「他人の意見に耳を傾けない奴ばかり」なのかという結論に行き着く。また、世界という「郷」からして、日本とアメリカが、いかにズレた国であるかについて、是非とも指摘しておかなくてはいけません。‐手に余る「世界情勢」を知る態度-日本における「リベラル」や「右翼」と称されている人間たちにせよ、それ以外も含め、誰もが自分の「信じたい物語」にすがって、一種の遊び的感覚で物事を捉えている。それとは別に、能動的に世界の情報を知るため、誰よりも早く「行動」し、6年以上にわたり世界中の外国人たちと個別な関係をもち、時々アメリカ人と「フリースタイル」な質疑応答(アンケート調査含む)をされた英語ブロガーのMichikoさんは、私はどんな人よりも真剣な方だと、このブログサイトにしろ、全くの無償でアップデートして下さり、本気でアジア平和の目的達成のために行動する人でした。きっと自分自身も、そうした気持ちに感化されたと思います。親日国・反日国ベスト3‐「トランプの死」は、バノン氏解任によってもたらされた‐外国の物事や、トランプ大統領に関してもそう。世界情勢を知るためには、ここまでするのかとハッとせられた。ひるがえって、日本の「識者」たちは、私が見たかぎり誰一人このような行動を取らなかったし、単なるマスコミが作り上げた認識の横流しのコピーばかりを垂れ流す始末となっている。私はこの時点で、彼らを見限りました。この人たちの話を聞いていても、世界情勢がわかるどころか、変な臆見を植え付けられるし、まったく「フィールドワーク」をやっていないし、結局モノリンガルの自分の無力さを、さらに深く自覚したわけです。突き詰めれば、アメリカ政治だって、今どういう段階にあるのか何一つ分からないし、中国にしても、あれだけ広い国で、それこそMichikoさんのように英語を駆使して、直接中国人の方々と信頼関係を結ばない限り、一切片鱗は見えてこないだろう。幸い、私自身は長らく中国やアジアの歴史(文化・価値観・行動様式)を勉強してきたので、大きなルートで物事を解釈する「尺度」を自分なりに持っています。また朝鮮半島に関しては、北朝鮮(ピョンヤン)に家族を持つ在日コリアンの友人と話を共有したり、関係書物を読んだりして知識を深めさせていただいております。‐知性に関する大西つねき氏の見解‐その詳細に関しては、上記の記事でまとめてあります。・日朝関係史および日本史の再認識Will you accept a presence of foreign military?②前置きが長くなってしまいましたが、本題に入りたいと思います。日本と朝鮮の関係を正しく認識することは、それ自体として、同時に日本史の理解や、朝鮮史像を形成するために、非常に大切な問題です。朝鮮(北朝鮮/韓国)と日本の関係は、それぞれ内部の歴史と深く結びついて、両国の歴史発展の過程しかり、本来日本史と朝鮮史の相互学習が必要と、参考図書(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂)では述べられています。当たり前のことですが、朝鮮は外国であり朝鮮史は外国史ですが、朝鮮が単なる外国や外国史ではなく、相互に「深い関係」があったのは確かです。ゆえに、日本と朝鮮は、他のどの国よりも深い歴史的関係があることを指摘できます。事実、双方は地理的に非常に近く、大昔からの人間の往来、文化の交流があったが、日本の古代文化・古代国家形成の時期にとくに密接な関係がありました。・コンプレックスの裏返し 悪しき国学の淵源 これがアジア蔑視の「真犯人」だ‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐-朝鮮北部・遼東南満州帝国高句麗の対隋唐戦争-‐日本が「アジアのリーダー」と叫ぶれいわ支持者‐日本では『記紀』をもとに、大和政権が、朝鮮南部を占領し、半島に支配権を及ぼしたという見解(任那経営説)が、以前から主張されてきた。これが後の『国学思想』の淵源となり、近代になって大陸拡張論が叫ばれたとき、朝鮮の支配権を正当化する口実となり、現代にまで続く「優越思想」になりました。‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論①)‐‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論②)‐‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論③)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識①)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識②)‐‐明治時代の朝鮮観その2(自由民権派の認識③)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答①)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答②)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答③)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答④)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答➄)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑥)‐‐明治時代の朝鮮観その4(近代史学者の解答⑦)‐‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観①)‐‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観②)‐‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観③)‐‐シリーズ記事を終えて(日本人の朝鮮観の伝統とこれから先について)‐内容は酷いものです。いずれにせよ、先進文物をもった多数の朝鮮人が渡来し、日本の古代文化・古代国家の形成に重要な役割を演じたことは明らかな事実です。高松塚壁画古墳をはじめ、当時の密接な関係を物語る文化遺跡や遺跡は日本全国に無数に残っている。中世は、いったん関係が薄くなりましたが、人間の往来や文化の交流は続きました。元寇・倭寇、豊臣秀吉の侵略などもありましたが、概して平和な関係が保たれました。そして江戸時代に入って、鎖国のなかでも朝鮮との間だけは国交が開かれ、善隣・友好の関係が続いた。幕府・諸大名は来朝した朝鮮使節を歓待し、知識層(儒者)は朝鮮の学問を尊重し、その吸収に努めました。‐江戸時代の朝鮮観その1‐‐江戸時代の朝鮮観その2(儒学者の場合)‐‐江戸時代の朝鮮観その3(優越思想と国学者の場合)‐‐江戸時代の朝鮮観その4(幕末期)‐このように、日本と朝鮮のあいだには非常に古い時代から、ずーっと関係を保ってきたわけであり、中国その他の国々との交渉もありましたが、いちばん緊密であったのは朝鮮でした。日本の歴史を知る上で、この関係の深い朝鮮の歴史への理解が必要なのです。そして、明治以降「すべてがおかしくなりはじめた」。‐東アジアの今とこれから その11(朝鮮国黒々と・・・)‐『韓国併合』当時1910年8月30日付の『東京朝日新聞』(第三面)よりhttp://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html今も、ノンポリ層を中心として、なおざりにされているが、朝鮮は「日本が植民地として支配した国である」ことです。明治以降、日本帝国主義は朝鮮を侵略し、列強と朝鮮に対する支配権を争い、ついに朝鮮を併呑して植民地にしてしまった。その結果、日本と朝鮮の関係は、従来のものとは一変し、宗主国と植民地という関係になった。これは日本と他の諸外国との間にはない「特別の関係」です。もちろん、中国や他のアジア諸国も侵略し莫大な損害を与えた。‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐この点では、朝鮮と同様の関係です。しかし国を丸ごと奪い、完全な植民地として長期にわたり支配したのは朝鮮だけです。朝鮮が「単なる外国」と済まされないのは、主としてこのことによる。‐韓国メディアが語る在日コリアンの国籍問題 その1‐‐韓国メディアが語る在日コリアンの国籍問題 その2‐‐韓国メディアが語る在日コリアンの国籍問題 その3‐植民地支配は朝鮮人にはかりしれない莫大な物質的・精神的損害を与えた。その深い傷跡は現在も残っています。そして、今の安倍政権やその界隈は「傷を広げて」います。‐おバカだけど笑えない安倍政権の「閣議決定」(朝鮮総連はテロリスト集団)‐‐ネトウヨも助けてあげなくてはいけない(十条ヘイト街宣で思うこと)‐彼らは論外にしても、過去(歴史)や現在(世界)の知見も活かせない人間たちが、やれ「北朝鮮(中国)ガー」と騒いでいる姿を見てると、本当に情けなくなる。‐『風花未来チャンネル』にモノ申す‐話は戻り、先の在日コリアン問題はその一つです。分裂した朝鮮において、南の大韓民国との間には日韓条約が結ばれ、国交が「正常化」したが、条約内容は植民地支配の清算とは程多いものでした。‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その1(畑田重夫氏のコラムより)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その2(朝鮮戦争時の日本国内の動き)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その3(遅れすぎた朝鮮との接触)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その4(日米安保闘争と日韓会談の関係)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その5(日米韓の「結束」の真実)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その6(「朝鮮半島有事」に関する介入論)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その7(韓国軍事クーデター後の北東アジア)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その8(「目標達成」に向け奔走する日米)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その9(『日韓会談反対』を中心とした動き)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その10(もつれるリベラル運動)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その11(日本共産党の決意)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その12(日韓会談粉砕、在日米軍撤退など)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その13(繰り広げられた集会やデモ)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その14(決定力なき今昔リベラル)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その15(ようやく立った団結の出発点)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その16(日本史上最大の反米デモ)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その17(最高度に盛り上がる運動)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その18(ポラリス寄港問題と韓国の内紛)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その19(運動のオワコン化 その弱点とは)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その20(アンチ米軍運動の再開)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その21(日本の政治運動の問題点)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その22(人々の「啓蒙意識」について)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その23(日本人の政治離れとアジア軽視)‐‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 最終回(反対闘争の意味と成果)‐だから、現在も『徴用工』や『慰安婦』の問題で、日本が批判されるのです。‐韓国への輸出規制・あいちトリエンナーレ・日本のオワコン等々‐さらに、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間には国交すらなく、植民地支配の後始末は全く出来ていない。こんなこと言いたくないけど、日本という国で「出来の悪さ」に、つくづく嫌気がさす。これにより、どんなに長期的な国益を逃しているのかについて、拙ブログでは、様々な形でお話してきました。朝鮮半島と「政治問題」が起きたとき、日本人は何かしらの民族的偏見を事あるごとに示し、週刊誌が煽情的で一方的な見出しで飾るのも、長い歴史において「克服できなかった残滓」が日本社会が覆っていることを忘れてはならない。朝鮮について、意識的あるいは無意識的に想起するにせよ、朝鮮に対する伝統的偏見の背後には、朝鮮史についてのあやまった認識があり、それだけに朝鮮史の学習は民族的偏見の克服に役立ち、ゆくゆくは日本人が地域で平和に生きていく上で、とても大切なことです。幾多の懸案事項をのりこえ、何よりもまず、日本人と朝鮮人の民族的友好を取り戻すことです。先ず、英語ブロガーのMichikoさんが、中国人といち早く信頼関係をつくりました。氏は、多くの外国人たちとの交流において、アジア文化における同質性を見出し、周辺諸国はもちろんのこと、日本のために全力で活躍する愛国者であると、私自身は思います。‐東アジアの今とこれから その16(大虐殺を乗り越えて、過去と現在の日中連帯)‐‐東アジアの今とこれから その17(今も昔も西洋に迎合し破滅する日本のパターン)‐<参考資料>・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html・同 『親日国・反日国ベスト3』https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404256124.html・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 04Sep
    • ‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか 最終回(朝鮮民主党・天道教青友党・祖国統一民主主義戦線)‐

      シリーズ記事‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか その1(朝鮮労働党・朝鮮民主党・天道教青友党と政治史)‐‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか その2(朝鮮労働党の歴史)‐‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか その3(朝鮮労働党の主要メンバー)‐関係記事‐近くて遠い国 朝鮮 本編13(韓国と北朝鮮の成立)‐‐近くて遠い国 朝鮮 本編17(朝鮮戦争後の北朝鮮)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その1(1972年 第一章 1条~17条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その2(1972年 第二章 18条~34条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その3(1972年 第三章 35条~48条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その4(1972年 第四章 49条~72条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その5(1972年 第五章 73条~88条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その6(1972年 第六章 89条~99条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その7(1972年 第七章 100条~106条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その8(1972年 第八章 107条~114条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その9(1972年 第九章 115条~132条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む その10(1972年 第十章 133条~146条)‐‐朝鮮民主主義人民共和国憲法を読む 最終回(1972年 第十一章 147条~149条)‐『朝鮮民主主義人民共和国国旗』http://freesozai.jp/itemList.php?category=nation_flag&page=ntf_128&type=sozai (2)朝鮮民主党 一九四五年一一月、北朝鮮の都市中商工業者を中心にして結成された。この党は、朝鮮労働党に協力して祖国の平和的統一と民主主義的発展のために活動することを任務として、最高人民会議と各級人民会議に議員をおくり、また、中央・地方の行政機関にも参加している。党名は結党以来北朝鮮民主党と名乗ってきたが、最近は朝鮮民主党と名乗っている。 党委員長<代表>は、キリスト教牧師である康良煜(共和国副主席)。 (3)天道教青友党 天道教信者で構成されている。天道教は一八六〇年に崔済愚が創始した「東学」が一九〇六年に改称したもので、その信者は一八九四年の「甲午農民戦争」(いわゆる「東学党の乱」)、一九一九年の三・一事件、さらにその後の反日運動のなかで重要な役割りを果たしてきた。一九四六年二月、北朝鮮天道教青友党が結成され、一九五〇年に南朝鮮天道教青友党と合党した。同党も最高・地方人民会議および中央・地方の行政機関に参加して、朝鮮労働党に協力している。 党委員長<代表>は、朴辛徳。 (4)祖国統一民主主義戦線 南北朝鮮の自主的平和統一を推進することを旗印とする政党、諸団体の統一戦線組織。一九四九年六月に平壌でひらかれた南北朝鮮の政党、諸団体代表者会議で、双方の計七二の政党、団体を網羅して結成された。南朝鮮に対する自主的平和統一の呼びかけと、そのための運動への動員に活躍している。略称を祖国戦線という。祖国戦線は中央機関として、中央委員会議長団、常務委員会、書記局があり、各道、市、郡に地方組織ができている。※<>は筆者註時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 188~189頁よりここまでが、北朝鮮における以下4つの政党(1973年段階)です。次に、各種団体や組織について見ていきます。 (5)勤労者団体<朝鮮職業総同盟> 労働組合の唯一のナショナル・センター。世界労連に加盟している。組織人員は一九七一年一二月の第五回大会当時約二四〇万人と発表された。総同盟の翼下には一〇個前後の※単産があり、そのなかには、金属・機械工業労働者職業同盟、鉱業・動力労働者職業同盟、建設・林業労働者職業同盟、教育・文化活動家職業同盟、商業活動家職業同盟などがふくまれている。 中央委員会委員長 廉泰俊 <朝鮮農業勤労者同盟> この国の農民組織は以前は農民同盟(農民組合)が主で、それとは別に農業労働者の団体として農業労働者職業同盟があった。この両者が一九六四年に合同して、農業勤労者同盟となった。組織人員は一九七二年二月の第二回大会当時約三六〇万人と発表された。 中央委員会委員長 金二勲 <朝鮮社会主義労働青年同盟> 男女青年の全国組織で、世界民青連に加盟している。組織人員は一九六八年四月現在で約ニ七〇万人。一九七一年六月の第六回大会のときには組織人員の発表はなかった。 中央委員会委員長 李永福(音訳) <朝鮮民主女性同盟> 成年女性、既婚夫人の全国組織。国際民主婦人連名に加盟している。組織人員は一九七一年一〇月の第四回大会当時推定約二〇〇万人。 中央委員会委員長 金聖愛 秘書長 金得蘭 (6)その他の団体 階層別、職能別の団体として、仏教徒連盟、キリスト教連盟、文学芸術総同盟、作家同盟、音楽家同盟、美術家同盟、建築家同盟、科学技術総連盟、記者同盟、民主法律家協会、民主科学者協会、学生委員会などがある。小学二年生以上の子供は少年団<ソニョンダン>(一九七一年六月現在約二〇〇万人)に加入する。 南北朝鮮の統一促進を目的とする祖国平和統一委員会、平和・国際親善運動のための平和擁護全国民族委員会、アジア・アフリカ団結委員会、朝鮮とソ連、中国、ベトナムその他の諸国との各親善協会もある。半官半民の団体には、赤十字会その他がある。※たん‐さん【単産】 《「産業別単一労働組合」の略》職種の別なく、同一産業に働く労働者によって組織されている労働組合。 日本では普通、企業別組合を単位組合とする産業別連合体をいう。(『コトバンク』記事より)https://kotobank.jp/word/%E5%8D%98%E7%94%A3-95042※<>は筆者註時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 189~191頁より以上により、北朝鮮の政党および団体シリーズを終わります。お付き合い頂き、ありがとうございました。<参考資料>・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会<ツイッター>【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6Asブログランキングに参加しております。皆さまのご支援が頂けるとありがたいです(下のバナーをクリック)にほんブログ村

  • 03Sep
    • ‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか その3(朝鮮労働党の主要メンバー)‐

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