自転車の女学生
同じバスに乗っていたのか。
帰り道で見掛けた。
いつか信号待ちで話した、濃い化粧の女性。
一度話したきりだけれど、たぶん彼女だと思う。
話した人の顔は滅多に忘れない。
近くに住んでいるのだろうとは思っていたけれど、また会うなんてびっくりした。
思っていた程厚化粧ではなかった。
その日私は自転車に乗っていて、信号が青になるのを待っていた。
「ああ~、行っちゃったわ」
隣を見るとひとりの女性がいた。目的のバスが行ってしまったみたいだ。
バス停は横断歩道を渡ったところにあって、信号待ちをしているうちにバスが行ってしまうことがしばしばある。
「よくありますよね、私もいつも見送っちゃうんですよね」
彼女は派手な身なりをしていて、化粧も派手で目じりのしわにめり込んでいて、年齢が推測しにくいけれど、見たところ60代くらい。
お金持ちのマダムという感じとおばちゃんという感じが半々くらいの印象。
彼女は言った。
「あなた、気をつけなさいよ、自転車。
昔、あそこで事故があったのよ、あなたくらいの歳の女の子の学生さんが、自転車に乗ってて事故で亡くなったの。」
そう言えば、何年も前に、バス停のすぐ傍で交通事故があった。
事故の後しばらくは近くの木に目撃情報を募る看板が立て掛けられていて、その木の下には絶えず花が供えられていた。
事故に遭ったのが女子学生だということは知らなかった。
「ああ、そんな事故がありましたよね。学生さんだったんですか」
「お友達がいつも花を供えてたわね。
だからあたしいつも心配になるの、あなたみたいに自転車に乗ってる若い子見ると、気をつけてねって」
信号が青に変わった。
「ほんまに気をつけなさいよ」
「はい、それじゃ、さよなら。」
彼女は自転車に乗る私のような人を見る度、その事故を思い出して心を痛めるのだろうか。
毎日呼吸するように無意識のうちに入り込む、無数の悲しい事件や事故。
それらはひとの心に一滴の影を落とす。
そしてそれは気付かないうちにじわじわと心に広がる。波紋のように。
しばらく経てば水面は波打つのを止め、元通り、静けさを取り戻す。
何事も無かったかのように。
けれども薄められた水滴は、どんな滴だったのかさえわからなくなっても、どこかにいつまでも残っているのだ。
そしていつしか得体の知れない不安となる。
理由もなく、胸がざわめく。
私はその事故のことを覚えていたけれど、彼女に言われるまでほとんど思い出したりなどしなかった。
けれど何十回かに一回くらい、ふとその木を見て思う。
ああここで事故があった、もうずいぶん前だ。
ぼんやりと、思う。
そしてまたすぐに意識は別の事柄へと移っていく。
長い間木に立て掛けられていた看板は、いつの間にか取り払われている。
今はもうその木の下に、花は飾られていない。