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消費と人情とマツモトキヨシ


自転車で10分ほどのところにあるドラッグストアへ。

マツモトキヨシの会員になっているのだが、少し遠くて面倒なので割と近くてかつ割と安いそこへ。

普段使っている炭シャンプーが安い。

大量に買って5500円ほど、でかい袋二つぶん。お、おもい。

マツキヨは名前が面白いし明るくて見やすいから好きなのだけれど、全部の商品が安いというわけではない。

特売品以外は定価に近いんじゃないだろうか。

京都には数年前までマツモトキヨシがなかった。

少なくとも私の見る範囲では。

けれどここ何年かでいくつかの店舗が出店した。

でかくて黄色い看板には煌々と明かりがついている。

マツキヨだけではない、気がつけば街は大型ドラッグストアだらけだ。

ドラッグストアは便利だけれど、そういう色んなものが一度に買えるお店で買い物をしていると、どこか寂しくなる。

なんだか便利すぎて落ち着かない。

店は小ぎれいだし、店員さんと世間話したりしなくてもいいし、ずいぶんと気楽ではある。

それに薬類はもちろん、化粧品とか生活用具とか、果ては食品まで買える。

けどこんなに便利でいいのか?

とか今ではもういちいち思ったりはしないけれど、色んなものを買うためにあちこち店をまわるとか、店の人と話をするとか、そういう煩わしさを極力排除した買い物行為にはまだ少し疑問と抵抗を感じる。

スーパーも然り。コンビニも然り。

物心ついた頃にはそれらは当たり前のように身近に存在していた。

にもかかわらず、それらの場所に行くと未だになんかかなしいのは何でだろう。

たぶん、そこにコミュニケーションがないからだ。

何も私を邪魔したり煩わせるものがないからだ。

欲しいものを選ぶ、相応の代金を払う、それ以外のプロセスがほとんどない、ほぼ完ぺきに閉じた自分の思い通りになる世界だからだ。

なんかちょっと現実じゃないみたい。

八百屋のおっちゃんとしゃべったり、電気屋で値切ったり、駄菓子屋のおばちゃんにおまけしてもらったり、そんなハプニングが起こりにくい、予定調和の世界だ。

予定調和はつまらない。

生きてる気がしない。

「誰も知らない」という映画で、母親に置いていかれた子供たちが日常、買い物をするのはコンビニだった。

それを観てすごくリアルだと感じたと同時に、せつなかった。


それはともかく、遠くのマツモトキヨシではなく近くのドラッグストアで買い物を終えた私は、地域振興地域振興、と唱えながら重い荷物を抱え頑張って自転車を漕いだ。

そんで道すがら考えたのは、消費とその動機についてだった。

私は地元の経済活性化のためになるべく近所のお店でお買い物をしようと思ったりするのだけれど、思うだけであまり地元では買わない。

なぜかと言ったら、店に魅力がないからだ。

新刊の雑誌くらい地元の本屋で買おうかと思ったりするけれども、せっかく本屋に行くのなら他の本も見たい、とか思ったら結局、ほとんど売れ筋の本しか置いていないその店ではなく、自転車やバス、電車を使わなければならない遠くの本屋へ行ってしまう。

売れ筋の本しか売っていないのは小さい店舗では仕方の無いことかもしれないが、それならば他の面で充実させてほしい。

店員さんの接客がとても気持ちがいいとか、本に詳しくてどんな小さなことにも親切に教えてくれるとか、可愛いカバーを掛けてくれるとか、そんなのでもないと客足は遠のいていくばかりだと思う。

この間、母が近所の本屋へ行った。

「ドラゴン桜」の最新刊を探したのだが、棚になかったので、店員さんに尋ねたのだという。

すると、置いていなかったばかりか、なんと「ドラゴン桜?知らないねぇ~。」と返されたというのだ!

「ドラゴン桜」とは少し前ドラマにもなり大ヒットした漫画である。

それを置いていないどころか名前を知りもしないというのだから信じ難い。

それを聞いた時はあいた口が塞がらなかった。

本屋を経営しているのに、サービスを充実させようという気も、せめて本の名前くらい勉強しようという気もないのだろうか。

いや私だってね、イズミヤの中にある本屋でバイトしてた時、ホットドッグって雑誌ありますかって聞かれて、げっ何それってわかんなかったよ。

あとで「ホットドッグプレス」という男性ファッション誌だとわかったのだけど。

私は仕事がとろかったから、やばいこれが仕事の出来ない女か、しかも片付けられない女でもあるし料理できないし、それならせめてイズミヤでいちばん感じのいい店員になってやるー!!と思い、それが達成できたかどうかは知らないが、いつもにこにこして自己採点ではかなり愛想良く振舞っていた。

せめて感じよく接客してほしいものだが残念なことにその本屋はどちらかと言えば愛想が悪い。

たまにはその本屋で買おうかと思っていたけれど、一気に行く気が失せた。

大体買ってあげようなんていう情けを起こさせる店なんてだめだ。

母などはよく「近所づきあいもあるし、気の毒だから、買ってあげなきゃ」などと言うが、消費は強制されてするものであってはいけないと思う。

買いたいものがあるから、買う。

その簡潔なプロセスに義理が入り込んできたら、消費は苦痛なものになってしまう。

だから私は義理が嫌いだ。

遊びでやっているというのならいい。

だが商売のプロである限り、義理人情など起こさせないくらいの最低限の仕事はしてほしい。

「買ってあげた」なんて言葉は冗談でも言いたくない。

あくまでも自分がその店で、その商品を、買いたいから、買うのだ。

それ以上でもそれ以下でもない。

ただでさえ、品物と等価値の交換をしているはずなのに、サービス競争という側面からだと思うけれど売る方と買う方では、買う方が優越的な立場にある。

そのうえ消費者の方に、買って「あげる」などという優越がさらに加われば、自分の欲望の結果としての消費行為であるはずなのに、嫌々払わされているような感覚になってしまうのではないだろうか。

義理人情は自分の買いたい、という消費の欲望を狂わせる。

そんなのは消費という行為の動機として正しくないし、そのうえ面倒で疲れる。

だからどんどん小さな街の、小さな店は寂れていく。

寂れて欲しくはないけれど寂れていく。

寂れてほしくはないから、だからたまには近所で買おうかなと思ったりするけれど、そういう風な理由でお金を使うのは正しくないし、同情を起こして優越した立場で買い物をする自分も嫌なので、心を鬼にして少し遠い、もっとサービスの良い別の店へ行く。

だからきょうも黄色い看板は煌々と灯っているし、マツモトキヨシは繁盛している。