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ただの私


ジョン・レノン IN NEW YORK CITY ボブ・グルーエン写真展、を見る。

チケットをいただいたので見に行ったのだけど、チラシの写真から予想していた通り大したことはなくて、ごく普通の写真だった。

あまりに普通なので、ジョンとヨーコがその人にずっと写真を撮らせていたというのが不思議だった。

会場に貼ってあるボブ・グルーエンやジョンの言葉も、なぜその言葉を選んで貼ったのかよくわからないものが多い。

その写真家は知らないが、ジョンならもっと他にも面白いことを言っているだろうに、わざわざ貼らんでもええやんと思うような言葉が多かった。

ジョンと一緒に写っているヨーコには目を奪われた。

ヨーコは美しかった。

目が強くて印象的で、存在感がある。

ヨーコの、私は美人だと言えるところが好きだ。

「ただの私」という著書の中の、「私は美人だし、頭もいいし、自分ではコンプレックスを感じていない」というくだりが好きだ。

中の一枚の写真のヨーコと私が同じような髪型をしていたのでどきっとした。


昨日スマステーションという番組をちらっと見ていたら、黒澤明の映画についてやっていて、爆笑問題の太田光が黒澤明のことを語っていた。

彼は黒澤監督の映画が好きであるらしく、正直分からないと思った作品もあるが、それは自分の感性が監督に追い付いていないと考えるべきであって、あるいは10年20年経ったら理解できるようになるかもしれない、だからそれまで自分が好きだった監督をこそ信じるべきである、というようなことを語っていた。

10年20年経ったら自分の見方が変わるかも知れない、というのはその通りだが、その作品に出会った時点で、自分の感じたことよりも作者の方を信じるというのはどうだろうかと思った。

もちろん彼の言うように、自分がその作品に追い付いていないだけなのかもしれないし、自分の見方が絶対でないのは当然で、常にそれを省みる余地は持っていなければならない。

けれど、作品を鑑賞した時点で、わからないならわからない、つまらないならつまらないでいいのであって、自分の感じたことを否定する必要はないと思う。

そう感じた自分ではなく、自分の尊敬している監督なり作者が常に正しいとなれば、それはもはや芸術鑑賞ではなく宗教だ。

そうなったら自分自身がそれを見る必要などなくなってしまう。

自分の感じること、という自分だけの答えではなく、既に正しい解答が用意されているのであれば、自分がその作品を鑑賞することは何の意味も持たなくなる。

作品を鑑賞して、観る者の中にきれいだとか面白いとか、詰まらないとかわからないとか、そういった予期し得ない反応が起こること、それ自体が芸術なのだと思う。

あらゆる芸術作品には賛否両論あって当たり前だと思うし、そもそも何か決まった答えのようなものが存在するのなら、芸術自体に存在する意味は無い。


私は人生の師だと思っている人物が何人かいて、彼らが世界に生きて存在していること自体に感謝しているのだが、だからと言って、彼らが言う言葉を全て鵜呑みにして崇拝している訳ではない。

いくらその人の言葉だからといって、ちょっと違うんやないかと思うこともあるし、面白くないものは面白くないし、わからないものはわからない。

勿論年月が経てばわかるようになるかもしれない。

逆にいいと思っていたことが違うと感じられるようになるかもしれないし、その人のこと自体を好きではなくなるかも知れない。

けれど今感じることは、今の自分にとっての真実なのだ。

わからなければそれでいい、つまらなければそれでいい。

その道に特に詳しいわけでもない一般の人たちが各々好き勝手にそれぞれの意見を持ち、述べるということがなければ、ゲージュツは作り手と評論家だけが所蔵する崇高なものに成り下がってしまう。

それでは芸術の存在する意味なんかない。


あと今日初めて知ったのだが、太田光の奥さんは太田光代って名前なんですね。

本名だろうか。

3文字名前の同じ夫婦。すごい。