「Right Thing(正しいこと、すべきこと)」(H-ⅡAロケット取材記) | IGS-report

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2011年9月23日、日本の南西の島、種子島 から国産ロケットH‐ⅡA (19号機)が情報収集衛星を積載して打ち上げられた。このHⅡ‐Aロケットが国産というのは、最近公開の映画「はやぶさ/HAYABUSA」 でも既に多くの人がご存知と思うが、日本では1955年から始まった超小型の「ペンシルロケット 」(全長23cm・重さ0.202kgという鉛筆の様な小ささで、固形燃料)の水平飛行 での開発から日本のロケットはスタートし現在に至るまで、ロケットに積載する人工衛星 の開発と平行しながら、科学者から民間の技術者の方々、それを支える事務作業や広報・雑務をこなす人々、予算を付ける公務員の人々、そして家族や友人など様々な人々が何処かで関わり、改良に改良を重ねて、現在のH‐ⅡAロケットになった。ロケットの部品のベアリング からネジ1本に至るまで、日本人が科学の粋を積み重ねてきたロケットの歴史は、今日で半世紀になろうとしている。

〔成功の背景〕

 時を経て世界ではロケットの打ち上げは、20機を打ち上げた時の成功率が

95%以上というのが信頼出来る技術という「基準」になっており、日本のH‐ⅡAロケットは、2001年8月29日に試験機でもある1号機(それまでは「HⅡロケット 」)が、打ち上げられて以来94.7%(2011年9月現在)という世界では非常に高い成功率となっている。

 次に成功すると95%を越えるので、ここまでくるのに2001年8月から年、約2回打ち上げたとしても10年かかったという事になるが、それは現実的に今までも日本の国家予算が苦しかったり、その国民の国家予算をかけて、もしも失敗した時の成功率の低下を危惧し真剣に慎重を期して今まで打ち上げてきたり、打ち上げ場のある種子島や、九州地方で生活を営む人々の漁業時期の関係もあったり、人工衛星の軌道や、技術的な事などetc・・・、成功率をもっと早く高め、日本の人工衛星は勿論のこと、その信頼性で他の国の人工衛星を搭載するなど今より沢山受注するには、あまりにも限られた時期にしか打ち上げられなかったという理由もあった。

〔ロケットの費用〕

  費用については、H‐ⅡAロケット自体は今までのロケットに比べ、その打ち上げ費用と共に大幅に減額されるように改良されており、今までのペンシル・ロケットの初期投資から積み重ねてきた開発経験と費用によって現在に至っている。是非、次回成功率を95%にして、日本とそして100年後の子供達の為にも、未来の地球の利益にしていって欲しい。

〔打ち上げの天候〕

 今回、種子島へ初めてH‐ⅡAロケットの打ち上げを取材に行く事を決めたが、

H‐ⅡAロケットの自爆装置の故障(他国に落ちると大変な問題になるので必ず搭載するもの爆弾)や、地球温暖化メラメラの影響からか日本には未曾有の強大な台風12号・15号の影響でH‐ⅡAロケットの打ち上げは何度も延期になり、取材をするのに1ヶ月近くを要してしまった。その間、日本中の打ち上げを楽しみにしている国民は勿論の事、H‐ⅡAロケットの打ち上げを取材する科学雑誌などのメディア関係の人々や、打ち上げを警備する人達はただ一刻も早く天候が回復する事を願うしか出来なかった。1ヶ月以上素泊まりの民宿でいつ上がるともしれぬH‐ⅡAロケットの打ち上げを取材しようと待機をしていた人達もいるという。仕事とはいえ、外は台風だし、栄養も偏る、その間、家族や友人にも会えないし、費用もかかったことだと思う。種子島港にいた現地案内の人が言うには「H‐ⅡAロケットは風が強過ぎても上がらないし、飛行軌道に雷雲があるだけでも計器が狂うので延期になるんですよ」とのことだった。自然には敵わないし、絶対に失敗は許されないという決意で打ち上げているということなのだろう。

〔種子島へ〕

 種子島に渡るルートは、鹿児島空港 からの空路と、鹿児島港 からの高速船フェリー の3つだ。種子島へは以前、空路で行った事があるし、打ち上げ人気で航空券が予約出来ない事もあるので、今回は高速船の「トッピー 」を利用した。

日本(本土)最南端の岬、佐多岬 を横目に、台風が近付いていた為、荒波を越え(波が高過ぎると欠航することも稀にある)、種子島北部の港町「西之表」に着き、予約をしていた民宿へ向かう、打ち上げ場に近い種子島南側は打ち上げ日が決まった途端に数日前から予約で満杯になる為、様々な情報を得てこの種子島北側の民宿へ打ち上げ延期も見据え数日間部屋を確保して頂いた一軒だ。

〔打ち上げ場所〕

  打ち上げ当日、北部から打ち上げが見れるポイントまで間に合うのか、早朝に良い撮影場所を確保出来るのか、不安だったが、民宿の近くの港(や市内)からバス が出てており(レンタカー は打ち上げ日が決まった途端、予約で満杯になるのでバスで移動の為、事前に停車駅と経路を調べていた)、打ち上げポイントがあるバスの停留所までは約1時間ほぼノンストップだ。そこから歩くのだがこれが看板や矢印があまり出ていない、人通りも無いし不安を感じつつも地図を頼りになんとか辿り着いた。基本車社会だから必要無いのかもしれないが、車が確保出来なかった人や未成年の為に観光ポイントとしてはもう少しだけ案内が欲しい所だ。とにかく早朝に辿り着いた為、最前列の良い場所は確保出来た。既に何人かが1番良い撮影場所を確保している。
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       7kmぐらい離れている距離を、三脚(←必須)+なんとコンパクトデジタルカメラで撮影。
後ろに売店も出ているので、例え打ち上げまでの数時間、南国の炎天下に晒され続けても水分はなんとか確保出来そうだ(ミネラルウォーターは一応準備しておいて正解)。敷物を敷いて日傘をさし、打ち上げ時刻まで数時間待機。

その間も続々とH‐ⅡAロケットの打ち上げを一目見ようと人々が集まってきた。

〔打ち上げ〕

  午後1時30分を過ぎると、にわかに周囲がざわめき始める。パソコンでの中継を確認している人達がカメラの準備を始めるのを見て、皆がカメラの準備をする。そして午後1時36分、その場にいる大勢の人のカウントダウン「0」の声と共に、

H‐ⅡAロケットのLE-7Aエンジン を補助する横の固体ロケットブースタ底部に遠目にはマッチの火の様な小さな火が点き、H‐ⅡAロケット周囲から酸化アルミと湯気を含む白煙が一気に噴き上がる。

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機体はゆっくりと上昇を始め、固体ロケットブースタ からは爆発の様な凄まじい炎が上昇する機体の底に広がっていく。その炎がまるで一つの「火の玉」の様になり、目線の高さまで上昇した頃には、晴天にもかかわらずその眩しさに少しだけ目を細める。

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H‐ⅡAロケットは留らぬ轟音となって、ゆっくりロケット雲の軌道を描きつつ上昇したかと思うと、一瞬にして目の高さから一気に空の彼方へ上昇し、

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長く白い煙の軌跡を残して真青な空の向こうへ消えていく。

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その間まるで時間が止まったかの様に永遠にも感じられる1~2分間の出来事だった。

記憶に深く刻み込まれた一瞬だった。

    
 取材を終え、種子島から本土へ帰る時、私服姿の警備の方がお土産屋さんで、「いや~、今回の台風 はまいった。3回も本土と行ったり来たりしました」と島のお土産物屋さんで話していたのが耳に入ってきた時には見えない所で色々な人がH‐ⅡAロケットには関わっているのだなと、胸に込み上げるものがあった。


 世界ではSF小説 の父ジュール・ヴェルヌ の書いた『月世界旅行 』を2人の科学者が読んでロケット開発を始め、日本でのロケット開発は糸川研究班 から始まり、三機関統合 など何度かその組織の型を変えてきたが、その度、現場と業者側は混乱もあったのではないだろうか。この宇宙開発に限らず、仕事も上が変れば現場や下は混乱を招くし、余計な費用もかかる。


 ロケットが好きな人が情報や知識を収集するのは当たり前だ。ロケットや宇宙開発を自分には遠い世界だと感じる国民の目線に立って、その素晴らしさをどうやったら伝えられ新聞楽しみながら興味を抱かせ、未来の先駆者達が生まれ育つ事を期待し、勉強とかだけではない「教育」をしていくのかが、今後も国民の賛同を得ていく為に必要な事だろう。これは宇宙開発だけに限らないことかもしれないが。

「組織は、常に反対から見なければいけない」というし、国民の「希望」を背負う重責を持つ国の官公庁・関係機関には、

「Right Thing(正しいこと、すべきこと)」を、未来の子供達の為に行なっていってもらいたいと、瞼に焼き付いたH‐ⅡAロケットを思い出しながら、未来を託す。