──「疲れた」という言葉の奥に、何を隠してる?

午後10時のオフィス街には、人の声がない。
シャッターの降りたビルの谷間を、ただ風が抜けていく。

残業が続いた金曜日の夜。やっと終えた仕事のデータを上司に送信して、私は無言のままパソコンを閉じた。肩は重く、目の奥は痛い。けれどそれ以上に、私をぐったりさせていたのは「疲れました」と誰にも言えなかった一週間の“孤独”だったのかもしれない。

ビルを出て、無意識に空を見上げた。
その瞬間、足が止まった。

まんまるの月が、真上に浮かんでいた。

まるくて、やわらかくて、何も言わないその光。
ただ、そこにいてくれるだけの存在。

なぜだか急に、涙がこぼれた。大人になってからの涙は、理由が複雑すぎて言葉にならないことが多い。

「大丈夫です」の呪い
働く私たちは、あまりにも多くの場面で「大丈夫です」と言いすぎている。

忙しそうな同僚に気を遣って。
期待に応えたい上司の前で。
“ちゃんとしてる自分”を壊したくなくて。

そうやって「大丈夫」を重ねているうちに、本当に自分が何を感じているのか、わからなくなっていく。疲れ、寂しさ、苛立ち、空しさ。何一つ言語化されないまま、心の奥に沈んでいく。

けれど、月はそんなことお構いなしに、今日も空に浮かんでいる。
無言で、無表情で、でも確かに私の“感情”に触れてきた。

都会の夜に浮かぶ「心の余白」
都会で暮らすようになってから、私は「余白」を失った。
スケジュール帳は常に埋まっていて、スマホの通知は鳴りっぱなし。
“つながり”が日常を満たしているように見えて、心はどこか、ずっと孤立している。

そんな日々に、不意に訪れる「空を見る」という時間。
それは、忙しさの隙間にふっと現れる、“心の逃げ道”なのかもしれない。

月を見て泣いたことなんて、誰にも言わなかった。
でもその涙が、今の私にとって最も「正直」だった。

どんな疲れにも、癒しの“入口”はある
自己啓発書が教えてくれる「休み方」や「整え方」もいい。
けれど、私が求めていたのはもっと素朴な、もっと感覚的な「癒し」だった。

たとえば、駅前のベンチに座って空を見上げるだけ。
コンビニでホットココアを買って、公園でひとくち飲んでみるだけ。
仕事終わりに月を見て、無言で泣ける自分を許すだけ。

それでいいのかもしれない。
それで十分なのかもしれない。

あなたは「疲れた」と言えてる?
このコラムを読んでくれているあなたは、最近ちゃんと「疲れた」と言えてますか?

「もう限界です」と声に出すことは、弱さではなく“人としての強さ”かもしれない。
泣きたくなるような月に出会ったとき、どうかその感情を否定しないでほしい。
それは、ちゃんと生きてる証拠だから。

そして問いかけたい。
──あなたは、今日の空を見ましたか?

「この人のこと、ちょっと気になるかも」と思ったのは、

営業部の定例会議が終わった後だった。

彼がふと漏らした、「でも、ちゃんと見てる人は見てますよ」

――その一言が、妙に心に残った。
気づけば私は、週に一度の会議を、プレゼンより彼の表情で記憶するように

なっていた。

でも、私が彼に好意を伝えることはなかった。いや、できなかった。

なぜなら「もし万が一、迷惑だったら」その瞬間、

私は“セクハラをする側”になってしまうかもしれないからだ。


恋をする自由と、誤解されない慎重さの間で揺れる「今」

現代の恋は、告白すらハイリスク。
男女問わず、ひとたび「好意を抱いています」と口にすれば、

それが歓迎されなければ、時に「セクハラ」や「パワハラ」のラベルを貼られる。

職場恋愛が減っているという調査結果もある。
かつては自然な出会いの場だった職場が、今では“恋してはいけない聖域”のような扱いを受け始めている。

でも、私たちはAIじゃない。
感情で動く生き物で、無意識に誰かに惹かれ、ふとした瞬間にときめいてしまう。
たとえそれが、社内ルールに引っかかろうとも、常識にそぐわなかろうとも、心はそう簡単に理屈に従ってはくれない。


恋することさえ「コンプラ」に縛られる、息苦しい世界

かつての恋は自由だった。
“好き”という感情がただ純粋で、たとえ片想いで終わっても、

それが人生のスパイスになった。
でも、今はどう?

「言わないことが優しさ」
「空気を読んで諦める」
「どうせ無理だから最初から何も言わない」

まるで“恋しないこと”が美徳のように語られる世の中で、

誰もが無難を選び、恋の火種さえ自ら消そうとしている。

本当は伝えたいことがある。
けれど「その気がないなら軽率だった」と言われたくない。
だから黙る。
だから、感情が干からびていく。


リスクを恐れて、私たちは“人間らしさ”を手放していないか?

私の知人に、社内恋愛から結婚した夫婦がいる。
彼らは「自分の気持ちを伝えなければ、未来は変わらなかった」と話す。

その言葉を聞いて、私は思った。
いまの時代に恋をすることは、“正直さ”と“慎重さ”の

どちらかを捨てなければ成立しない、まるで二択ゲームみたいだと。

それって、本当に幸せな社会なんだろうか?

もちろん、セクハラやパワハラが厳しく取り締まられるのは必要だ。
けれど、それが「人を好きになること」まで否定してしまったとしたら、私たちはいったいどこに向かっているのだろう。


そして、私はまた何も言わずに彼の横を通り過ぎた。

香水の匂いひとつで思い出すような恋にすら、名前をつけることができない。
“安全”という名の牢獄のなかで、私たちは恋をしないことで自分を守っている。
でもそれは、本当に自分を守れているのだろうか。


――あなたは今、恋をしていますか?
それとも、恋をしないことで、自分を守っていますか?

―肩書きに縛られない「本当の働く意味」を、今こそ見つめてみる―

「ねえ、キミの“本当の仕事”って、何だと思う?」

ある夜、馴染みのバーで友人のカズがこんな問いを投げてきた。

彼は外資系コンサルで肩書きは華やかだけど、

最近はどこか虚無感を抱えているようだった。

私の答えを待たずに、彼は自嘲気味に笑いながらグラスを傾けた。

「俺さ、パワポばっか作ってるけど…これ、ほんとに“仕事”って言えるのかなって思うんだよね。」

 

その言葉は、まるで自分に向けられた問いのようだった。

名刺に書かれた「職業」は、社会的にわかりやすくて便利だ。

でも、それがそのまま“私の仕事”とは限らない。そう思った瞬間、

私はノートを開いた。記者でもエッセイストでもない、

“私”という存在の、本当の仕事とはなんなのか——。


名刺は「職種」だけど、仕事は「役割」かもしれない

たとえば、保育士という肩書きがある。でも彼女の本当の仕事は、

子どもに「愛された記憶」を残すことかもしれない。

会社員の彼は、業務的には経理だけど、

本当の仕事は「職場の雰囲気を和らげること」だったりもする。

職種やポジションはあくまで「記号」にすぎない。

それよりも大事なのは、「自分が誰の、何の役に立っているか」

という実感じゃないだろうか?


“本当の仕事”は、あなたが自然にやってしまうことに隠れている

私の友人アヤは、営業事務。名刺には「サポートスタッフ」とあるけれど、

彼女はいつも同僚の悩みを黙って聞いて、寄り添って、

見えないところで人を癒やしていた。あるとき、後輩にこう言われたという。

「アヤさんがいるだけで、安心するんです。」

 

その一言で、彼女は初めて「私の仕事って、癒やしだったのかも」と

気づいたそうだ。

お金を稼ぐことも大切。でも、“名もなき価値”こそが、本当の仕事を教えてくれる。


SNS時代は「肩書きの飽和」。だからこそ、“個の役割”が問われる

SNSのプロフィールには、誰もが肩書きを並べる。

コンサル、マーケター、起業家、作家…。

けれど、それだけじゃ伝わらない「熱量」や「信頼」は、

結局“日々の言動”でしか積み上げられない。

今は“職業”よりも“存在意義”が問われる時代。

あなたという人間が、どんな空気を周囲に与えているのか。

それこそが、これからのキャリアの核になる。


「自分の仕事は◯◯です」と言える人は、強い

これは稼ぎの話じゃない。「自分の役割がわかっている人」は、

迷わない。職種が変わっても、業界が変わっても、

社会の中で自分の位置を見失わない。

それは、まるで“魂の名刺”を持っているような感覚。


私の名刺に書いてない「仕事」は、文章で人を救うことかもしれない

私は今まで、何度も「書くこと」で自分を助けてきた。

苦しいとき、誰にも話せないことがあるとき、

ノートと画面だけが私の味方だった。

だから私は今日も、誰かが読み終えたときに、

少しだけ心が軽くなるような文章を書き続けている。

それは名刺には書いてない。でも、きっとこれが「私の仕事」なんだと思う。


あなたへのラブレター

職場の肩書きも、契約書も、名刺も捨てて。
ただの「あなた」として生きるとき——
あなたの“仕事”って、なんだと思う?

 

 

 

 

朝、目覚ましが鳴る前に目が覚める日がある。
それは大抵、心に小さな迷いが積もっている朝。昨日までに決められなかったこと、

誰かに委ねた決断、置き去りにした夢。それらがこっそり胸に忍び込んで、

私を起こすのだ。

 

仕事のキャリアを積み上げたい自分と、誰かと静かな暮らしを築きたい自分。
「選ばなければならない」と言われるたびに、私は無言でコーヒーにミルクを注ぐ。それはまるで、自分の“どちらでもない気持ち”をごまかすような儀式。

 

私はよく言われた。「何でもできそうだね」って。
でも、“何でもできる”って、実は“何を選んでも惜しい”ってことでもある。
結婚して、子どもを産んで、家を買って、ワイン片手にホームパーティ。
一方で、プロジェクトをリードし、海外出張をこなし、

自分の名前で仕事が舞い込む未来。
どちらも素敵で、どちらも大切で、どちらも――私。

だけど、「両立」という言葉は、時にとても残酷だ。
まるで、空を飛びながら海にも潜ろうとしているような。
理想は手帳に並べられるけれど、現実には24時間しかない。
 

人の目を気にすればするほど、自分の本音が見えなくなる。
SNSでは誰かが出世し、誰かが出産し、誰かが世界一周している。
そのすべてが私の“やりたいことリスト”に入っているから、余計に厄介だ。

ふと思う。
選ばなければ、失わなくて済むのか?
優先順位をつければ、それは本当に“正しい選択”になるのか?

 

私は昔、母に言ったことがある。
 

「どうしてそんなに我慢ばかりして生きてるの?」と。
彼女は笑って言った。「我慢じゃなくて、選んでるのよ」って。
そのときの私は、まだ“選ぶことの苦しさ”を知らなかった。

 

大人になった今、わかる。
 

「何かを選ぶことは、何かを手放すこと」
けれど、手放すからこそ手に入る“確かなもの”もある。
キャリアか家庭かという二項対立ではなく、
自分の人生をどう描きたいかという物語の視点で考えてみること。
それが本当の“選ぶ”ということなのかもしれない。

私は今日もミルクたっぷりのコーヒーを飲みながら、自分に問いかけてみる。
「すべてを手に入れたい私は、どこまで欲張っていいの?」と。

 

そしてあなたにも問いたい。
 

―あなたの優先順位は、本当に“あなたのもの”?